第一部 十三



 体にまとわりつく暑さに季節の移ろいを感じながら、ポロシャツに短パンというラフな格好をしたバルタサールは、カルロスやほかの仲間たちを連れてドーヴァー海峡のフェリーに乗っていた。日照りのなか甲板に出ると、カモメたちが鳴きながら上空を飛んでいる。前日には曇りの予報が出ていたが、彼の視界に映る空は晴れていた。絵画に描かれているかのような、白く大きな入道雲が漂っている。

 バルタサールとカルロスは、フェリーの手すりに両腕を預けながら、イギリスとフランスのあいだに横たわる紺青色の帯を眺めている。バルタサールが立てかけた杖がときおり手すりに当たり、乾いた音を立てた。


「たまにゃ悪くねえな」


 サングラスをつけていたバルタサールが言った。観光で来たのはもちろんだが、彼らにはもうひとつの目的がある。


「内緒話も気づかれにくい」


 カルロスは吸っていた葉巻を口から離すと、


「仲間から連絡があった。実家・・が面倒なことになってるようだ……パトリシオの奴、なにをやってるんだか」


 パトリシオ・アルアージョは、カルロス・グレンデスとともに、バルタサールとともに古くから戦っていた幹部のひとりだった。バルタサールが渡英することを告げると、パトリシオは後を継ぐと言い出した。頭の切れる性格だったため、バルタサールは安心してカルテルを任せた。カルテルを殺すカルテルは、求める者に麻薬を与える。それ以上のことはしない。その他の犯罪組織とは関わりを持たず、なにか厄介な犯罪が起これば、自分たちが秘密裏に対処する。それが鉄則だ。

 政府や軍隊、現地の自警団と対立することはあれど、バルタサールが渡英するまで波風はほとんど立っていなかった。


「あいつにだってミスを犯すことくらいあるさ」


「ミスというのはちょっと違うな。最近は犯罪組織が激減している割に、犯罪率はほほとんど変わらんらしい――きな臭いな」


「俺は信じる。お前だってそうだろう」


「俺だって仲間を疑うような真似はしたくない。いずれにせよ、情報収集は続ける」


「わかった」


 フェリーは、ドーバーの発着場を抜け、海峡の中央あたりを進んでいた。バルタサールが目を細めると、遠くに大陸が見える。フランスのカレー地方だろう。北上すれば北海があり、デンマークやフィンランド、スウェーデンがある。中南米生まれに北欧の寒さはきつい――そう思っただけで鳥肌が立った。


「アレクシアの件だが」


 カルロスは再び葉巻を口にくわえながら言った。

 バルタサールがアレクシアを殺す理由はひとつ――裏切り者だからだ。約半年前、満月の夜に彼女は家を抜け出した。いま思えば、飛行機内での言動で察するべきだった。機内ではしきりに新しい生活のことを話していた。あれは、アレクシアが自分自身を勇気づけるための意志表示だったのだろうか。

 渡英すると知ったアレクシアは目を輝かせながら、バルタサールに同行を申し出た。あまり見せなかった純粋な笑顔に、バルタサールの顔も綻んだ。

 多くの愛人を持ち、交わったバルタサールだが、伴侶と呼べる存在はいなかった。妻を持たぬ彼にとって、アレクシアは大切な娘であり妹で、深く信頼し、愛していた。


「腹を撃ったのはわざとか」


 カルロスは黙々と葉巻を吸い続けた。バルタサールは体を甲板のほうに向ける。サングラス越しに、乗客のなかに紛れて日光浴や海の見物に夢中な仲間たちが映る。


「かもな」


「子どもの頃から育てた構成員なんてあいつくらいだしな。愛娘は殺したくない」


 それでも、組織を危険に晒す可能性があるなら排除しなくてはならない。そこに私情が我が物顔で入り込む余地などないのだ。


「戻ってこなかったらどうする」


「そのときはそのときだ。しばらく様子を見よう」


 カレー地方がいよいよ目前に迫った。砂浜では水着姿の人々が海水浴に興じている。これからフェリーはUターンし、ドーバーに戻る。

 バルタサールは髪をかき上げ、空を見上げた。アレクシアはどうしているだろうか。殺そうとした自分を憎んでいるだろうか。

 


 ドーバーに戻った一行は、バルタサールの指示で別々のルートを辿りながらスコットランドのエルギンへ帰ることになった。バルタサールはカルロスの運転する車に乗り込み、陽が落ちて暗くなった海岸沿いを通り西へ向かう。アシュフォード地区を抜け、田園地帯から伸びる道のひとつを曲がり、木造の民家に近づく。玄関付近に車を止め、辺りを見回した。緑が生い茂り、地平にはわずかな家々と丘が見えた。カルロスが運転席を降りて助手席を開けると、バルタサールは杖をつきながら砂利道に立った。ふたりで未舗装の道を歩いていく。

 小さな森に入ると、ほんのわずかだが出っ張っている草が見えてきた。バルタサールは杖をつかんだまま片膝をつき、草のなかをかき分けながら隠れた取っ手を握ると、立ち上がりながら上に引き上げた。木造のフタはきいと軋みながら、下へと続く穴を晒した。白いハシゴが伸びていて、底は浅い。だいたい4メートルほどだ。カルロスに杖を預け、ハシゴを降りる。さきには通路が伸びていて、最奥に両開きの鉄製のドアが見えた。カルロスは降りてきて杖をバルタサールに渡す。

 ドアを開けると、そこにはコカインの精製にいそしむ仲間たちがいた。床や天井、壁はコンクリートで覆われていて、天井からつるされたランプがときおり上下左右に振れ、辺りを不規則に照らしている。働いていたのは四名。長方形の机のうえでコカインを袋詰めしている。ここで働いている者は全員で十人。残りの6人は自宅にいるか、あるいは顧客・・のもとへ行ったのだろう。


「ボス、久しぶりだな」


 ドアの開く音を訊いてこちらを見たひとりが、バルタサールの元へ歩み寄って来た。ベルナルド・ルエンゴ。ふくよかだが野心的な目つきをした彼もまた、バルタサールの古き友人である。


「ちゃんと働いているか見に来たぞ」


 ボスの来訪を、彼らは歓迎した。バルタサールとカルロスは、すぐに奥の休憩スペースへと案内された。コンクリートだらけの無骨な作業場とは打って変わって、フローリングの床に、革のソファー、木製のテーブルなど、設備は充実している。バルタサールは周囲をくまなく見て回ったが、テーブルの前方、部屋の最奥で止まった。テレビがある。五十インチはあるだろうか。半年前に来たときはなかったものだ。


「休憩時に退屈だったから、ベルナルドがアシュフォードまで行って買ったらしい」


 カルロスが言った。


「前々からここにもテレビが必要だと思ってたんだよ」


 するとバルタサールは、


「いくらだった?」


「だいたい五千ポンド(約73万円)」


 予想外の値段に驚いた彼は、さっそくテレビをつけた。男性アナウンサーが話している。男の口が動くたびに刻まれる皺も確認できる。画質はいいようだ。少しすると、男は明日上映の映画の話を終え、バルタサールたちのことについて取り上げ始めた。その顔に緊張が走った。


『バーミンガム内の廃墟となった工場で、四日前に襲撃がありました。この廃墟では、同地区内で犯罪活動を行っていた小規模な組織が出入りしていたとのことです。警察が駆けつけたところ、二十一名の死体があり、リーダーと思わしき男の亡骸には頭部と胸部に撃たれた跡があったと判明。メキシコから渡英してきたバルタサール・ベネディクト一味の仕業だとみて、捜査を進めています。彼らは麻薬組織として活動するかたわら、犯罪組織や悪質な顧客には容赦なく攻撃を加えており、無関係な人々への被害は現在までほぼゼロ。そのダークヒーローじみた姿勢に、一部の市民からは支持の声も出始めています』


 顔を向けると、ソファーに座っていたカルロスは満足げにうなづいた。


「麻薬組織を支持する人間がいるとは信じられないな」


 バルタサールが言った。


「メキシコでも、軍隊や警察より自警団が支持されている州もあった。公的機関の対応がおざなりなら、代わりに戦ってくれる連中を応援するのは珍しくない」


 カルロスはそう言いながらワインボトルのコルクを抜き、六個のグラスになみなみと注注いだ。リモコンを置いたバルタサールも、カルロスの隣に座る。六人はそれぞれのグラスを手に持ち、ボスの合図を待った。バルタサールは、右手の杖を置いてグラスを持ち、座ったまま天井に向かって掲げた。ここにいない者たちの顔と名前をひとりずつ思い浮かべた。


「イエス・キリストは、悪事を止めない愚者に正義の鉄槌を下されるだろう。その日まで、我々は地面を這いつくばりながら生きる。死が訪れる、そのときまで」


 六つのグラスが互いに重なり合い、六つの口に、神の血と呼ばれた真紅の液体が運ばれていく。六人の男たちは今日を生き延びたことに感謝をしつつ、いずか訪れる死を感じ、その苦しみから逃れるかのように酒を飲み始めた。


 ※


 二日酔いで頭を痛めていたバルタサールは、大きなあくびを立てて寝ている四人を無視して、カルロスとともに休憩部屋を出た。エルギンに戻った仲間たちへの土産にするため、部屋の外に置かれていたワインボトルを数本手に取る。バッグにつめると、ハシゴを上って地上へと出た。朝日を受けて金色に光る木々を見ながら、新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。ふたりで民家のところまで戻る。


「おいくそったれ! そこでなにしてやがる!」


 怒鳴り声が訊こえて民家の玄関を見た。ドアが勢いよく開き、スコップを持った男がやってきた。男はふたりの顔を見ると、怒り狂った表情が嘘のようになりを潜めた。


「ボスか。びっくりさせないでくれ」


「地下でベルナルドたちと飲んでいた。セフェリノ、顧客のリストを」


 セフェリノは回れ右をすると、走って家に入っていった。バルタサールとカルロスは玄関手前の階段に腰を下ろして彼を待った。少しすると大きな足音が訊こえ、彼が数枚の紙を手に戻ってきた。セフェリノが顧客リストを管理しているため、顧客情報は彼に訊くのがもっとも早い。バルタサールは手に取ると、中身を確認していく。氏名と性別、年齢に住所、家族構成、経歴、身体的特徴、麻薬の摂取による症状の有無が、顧客ごとに記されている。紙をめくっていたバルタサールは、最後のページのある人名に目を留めた。三か月前に顧客になった人物だ。


「改めて、すごい客だな」


 セフェリノは書類を覗き込むと、


「ええ。最近、求められる量が増えてます。なるべく抑えてはいますが」


「そうしてくれ。長生きしてほしいからな」


 ――マクシミリアン・ヒューズ。男性、九十三歳。元イギリス陸軍狙撃手。

 バルタサールはもう一度顧客の名前を見た。

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