第一部 十ニ


 退院してから数日後。

 自宅で荷物をまとめたカーティスは、慣れた手つきで杖を操りながら、ヴィクトリア駅に到着した。十時だった。カンタベリー行きの電車に乗り込み、日曜日の雑踏に埋もれるようにして席に座る。ロンドンからカンタベリーまでは約二時間かかる。目的地に着くころには昼時だ。

 まずは適当な店でも見つけて腹ごしらえをするべきだろうか、いや、行けば昼飯には必ずありつける。その必要はないだろう。

 日曜日ということもあってか、カンタベリー駅の辺りは人でごった返していて、あまりの多さに自分の位置を見失いかけそうだった。人の隙間を縫うように移動し、ローダウス・タウン通りに出る。タクシーを拾い、目的地であるカンタベリー大聖堂を目指した。約束したアレクシアとの旅行の前に、やるべきことがあった。



 タクシーから降りると、目の前には巨大なゴシック様式の聖堂がそびえ立っていた。五九七年に建造され、一度ロマネスクからゴシック様式に姿を変えても、一四〇〇年以上に渡って、この地に生きる敬虔な子羊を招き入れ続けてきた、カンタベリー大聖堂。数年前までは、修復作業のために用意された鉄骨や機材でその景観を邪魔されていたが、いまではすっかり本来の姿を取り戻している。SCO0の一員になってからカーティスがここを訪れたのは、今回で十三回目となる。

 バッグを担ぎ直し、カーティスは大聖堂の荘厳な入口をくぐった。ふだんなら観光客で溢れているはずの内部は静かだった。それもそのはず、今日は礼拝が行われているのだ。礼拝堂の席はほぼ満員で、奥では祭服を身にまとい、十字架のネックレスを首に下げた神父、ローレンス・アンカーソンが、厳かな声で説教をしている。カーティスはほかの参拝者の邪魔にならないよう、入口にいちばん近い席に座った。

 ローレンス神父は、イエスのたとえ話をテーマに教えを説いていた。新約聖書・ルカの福音書に記されている、いわゆる「放蕩息子」である。

 父より財産を分けてもらった弟は、旅立ったさきの街で贅沢に暮らし、あっという間に金を使い果たしてしまう。飢饉が重なり死にかけた彼は、恥を忍んで父のもとへ戻る。使用人として使ってもらおうと思った弟は、彼を見つけた父に抱きしめられる。散財したことよりも、無事に帰って来たことをよろこんだ父は、息子のために宴会を開く。

 これには父親、つまり神の尊大な愛が現れていると、カーティスは解釈していた。どれほど罪に溺れようとも、心の底から改心すれば、神は罪人を天国に受け入れて下さる――自分はどうだろうか?

 カーティスは神を信じている。だが、存在を信じているのではない。信じたいから信じているのだ。自らの心に巣食う闇を祓うために。罪を吐き出すため、心の依り代となるための存在を用意するために。神を利用する人間を、神は許されるのだろうか。

 パイプオルガンによる演奏が始まると、カーティスは周囲の人たちとともに聖歌や讃美歌を歌った。回ってきたカゴには二十ポンド札を一枚入れた。



 礼拝が終わった。参拝者たちはローレンスの周囲に集まり、なにやら話し始めた。ひとり、またひとりと、相談を受けてもらった者たちが笑顔でカンタベリー大聖堂を後にしていく。二十分もすると、大聖堂に残っているのは、関係者以外ではカーティスのみとなった。ローレンスは彼を見るとにっこりと笑い、祭服をなびかせながら近づいてきた。彼は右腕を差し出すと、


「お久しぶりです、カーティス」


「久しぶり、先生」


あなたが生きてい・・・・・・・・てくれてなによ・・・・・・・りです・・・。こうして再び会えたことを、神に感謝します」


 ローレンスはカーティスのことをすべて把握している。祖父母はカトリックだったが、母は日本でプロテスタントに改宗したため、カーティスも、カトリックのグラスゴー大聖堂ではなく、わざわざ、イギリス国教会の総本山であるカンタベリー大聖堂を訪れるようにしていた。初めてローレンスと出会ったのが二十年前。神に仕える男は、あのときとなんら変わらぬ穏やかな顔でカーティスを歓迎した。少年だった頃のカーティスの目線はやがて神父と並び、いまでは少し見下ろす形になっている。

 温厚な顔に刻まれたしわは、訪れる信者たちを笑顔で出迎えてきた証であり、口角の皺は、その口で迷える子羊たちを導き続けてきた証だった。


「少し歩きましょう」


 ふたりは身廊を進み、聖歌隊席を左に進んで北東の翼廊に出た。図書館を通って、グレート・クロイスターの回廊に出る。映画『ハリーポッター』でもロケ地となった有名な場所だ。回廊に囲まれた中庭は整備の行き届いた芝生が広がっており、開放的なつくりだが、思わず身構えてしまいそうなほどに神聖な空間を生み出している。陽の光を一身に受け、露が輝いていた。

 杖をつきながら歩くカーティスを、ローレンスは心配そうに見ていた。灰色のジャケットにベージュのデニムと、こじゃれた服に身を包んではいるが、左の肩から二の腕まではギプスと包帯で覆われていて、スーツ越しでも違和感が強い。中条の刀を握った右手にも包帯が巻かれていた。退院直後よりも痛みは引いていたが、運動は到底できない。エドワードの話では、完全復帰ができる日まで仕事はこないよう取り計らっているらしい。


「傷の具合は」


「一ヵ月くらい安静にしてれば問題ないって言われたよ。今度はちゃんと参拝しにくる」


 並んで回廊を歩いている最中、カーティスはローレンスを見た。前を向いているが、その顔には取り繕った明るさが見え隠れしている。彼は少しばかり考え込むように顔をうつむけると、


「辞めるつもりはないのですか」


「自分で選んだ生き方なんだ。誰の目から見てもおかしいというのはわかってる。それでも、答えが見つかるまで退くつもりはないよ」


 カーティスは大きく息を吐いた。


「あれから五年経つけど、ますますわからない。答えから遠ざかっている気すらする」


「正義の心を見失わずにいれば、きっと見つけられます」


 回廊を二周したふたりは大聖堂に戻り、奥のトリニティチャペルへ向かった。赤い絨毯が引かれたさきには、白い布で覆われた台座。その上には三本のロウソクが立っていて、風にあおられることもなく、灯火を天に向けて突き出していた。さらに奥に佇む一本のロウソクは、大司教、トマス・ベケットの遺体の埋葬場所を示している。

 チャペルの奥では、色とりどりのステンドグラスとなったトマス・ベケット大司教が、空から差し込む光を室内へ運んでいた。ふたりは両手を結んで目を閉じると、祈りを捧げ、死んでいった者たちの冥福を願った。

 今日、カーティスが偲ぶ者たちのひとりに中条宗則が加わった。どれだけ残忍で、非情な相手であろうが、変貌するきっかけがあったはずであり、その出会いは本人の意志に関わらず起こる。


「けっきょく、クライヴたちには過去のことを話せてない」


 カーティスは振り絞るように言葉を紡いだ。


「話せば受け入れてくれますよ。あなたから訊く話のなかでは、同僚の方たちは素晴らしい人たちです」


「互いを知った仲だから、いまさら言いにくいんだ」


「……誰もが過ちを犯します。私も、あなたも、イスカリオテのユダも。大切なのは、間違いをしないことではなく、してしまった後にどうするかです。カーティス。あなたは戦地から戻り、そこから一歩踏み出してはいるが、足取りは重い。隠された過去が足枷になっているのです」


 CWCの腕時計が時を刻むなか、神父の言葉一言一句を、カーティスは訊きこんでいた。

 死と隣り合わせで戦う勇気はあっても、友だちには過去のひとつも話せない。そんな自分を心の底から恥じながら。

 カンタベリー大聖堂を出たカーティスは、ローレンスの自宅に招かれた。妻のアマンダとともにテーブルを囲み、談笑しながら昼食をとる。

 日が暮れ始めた頃、ローレンスたちとわかれたカーティスは、鉄道に乗ってカンタベリーの地を後にした。

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