第一部 十一



 カーティスとクライヴは病室を去った。

 ベッドに背中を預けたアレクシアは、両手を膝の上で組んだ。窓辺を見ると、喧噪とともにビルや車の光が踊っていた。

 最近は中南米も開発が進み、発達した都市が増えていた。それでも、蔓延した麻薬の脅威は一向に消えない。欧米のようになるには問題が山積みだった。

 メイフェア地区の北東、グロヴナー・ハウスの側にある路地で、アレクシアは撃たれた。本来ならあの場所で頭と胸部を撃ち抜かれ、彼女の骸は人気のない路地に転がっているはずだった。数日も経てば、組織の口なき看板として、裏の人間たちに恐怖をまき散らしていたはずだった。

 アレクシアはさきほどのふたりを思い浮かべた。カーティスもクライヴもいい人なのは間違いない。自分に差し向けられた刺客であるは薄かった。自分を殺しにくるのなら、カルロスが直接来るだろう。

 長期滞在でイギリスにいるなんて、どうしようもない嘘をついたものだ。アレクシアは下手くそな三文芝居に失笑した。アルゼンチンが故郷で、家族がいるのは本当だが、観光地を巡る快活な女性などここにはいない。


 酒癖の悪い父のせいでアレクシアの家は荒れていた。母や兄、妹の泣き声や怒声が絶えなかった。少女にとっての帰る場所は、学校か、悪友とつるむための路地裏のふたつだけである。淋しさを埋めようと悪事に走った。だが、街灯に光が灯る頃、友だちは決まって家に帰っていく。彼らの背中を見るのは淋しかった。ひとりだった。

 十三歳だったアレクシアは、ある日、路地裏でバルタサールと出くわした。まったくの偶然であった。左には金髪の男、後にカルロスと名乗る長身の男が立っていた。

 セブリアン・カルテルを潰そうと躍起になっていたバルタサールは、組織とコネクションの拡大を図るため、アルゼンチンのブエノスアイレスを訪れていた。

 アレクシアにとって暇つぶしの狭い路地が、途端に死に場所のように思えた。

 アルマーニのスーツを着ている男の顔は妙だった。輪郭は若いのに、目や口元は妙に老けていた。しかし威厳に満ちていた。寂れた一本の街灯の光を受け、鋭い眼光が光っている。敵意はなかった。強き者が弱き者に向ける優しさがあった。父からは一度も見たことがない目だった。


「帰れ」


 路地裏でたまっていたアレクシアたちに、バルタサールは言った。感情のない、平坦な声だった。三人の友だちは、上官から命令を受けた兵士のように一目散に帰っていった。アレクシアはしゃがみこんだまま、バルタサールに向けた視線を再び地面に落としたかと思うと、目下に転がった石で地面に絵を描き始めた。


「訊こえなかったのか。とっとと家に帰れ」


「やだ」


「子どもは大人のいうことを訊くもんだ」


「大人なんて嫌い」


「なぜ」


「子どもを選べるから」


 それがアレクシアにとっての新たな人生の始まりだった。いまの生活から抜け出したかっただけなのかもしれない。家事を手伝うから居候させろと言われたバルタサールは、カルロスとともに大声で笑ったが、持っていたライターで財布に入れていた家族の写真を焼き、燃えカスをふたりに投げつけた様を見て態度を変えた。アレクシア・ハバードという女と、カルテルを潰すカルテルとして勢力を拡大するバルタサール・カルテルのボス、バルタサール・ベネディクトの対等な取引であった。

 バルタサールはアレクシアにとってのよき父親であり、兄でもあった。決まり事にはとにかく厳しかったが、それは相手を思う優しさの裏返しだとすぐにわかった。バルタサールからは教養と交渉術を学び、カルロスからは護身術や射撃を教わった。周りの大人たちは荒っぽい性格だったが、不器用な優しさがうれしかった。

 そして、アレクシアは別の仕事・・・・も得た。


 いまさら普通の生活に戻れるわけないのにね。

 アレクシアは目尻から溢れかけた涙を拭うと、病室の扉に目をやった。あのふたりとのやり取りを思い出す。旅行の提案を受けたのは、彼らに助けを求めたからなのか。それとも、残された時間を好きに過ごしたいからなのだろうか。


◆◆


 猛烈な死臭を感じ、クライヴは吐き気を催した。思わず壁に片手をつく。左右の壁に等間隔で埋め込まれた小さな明かりが、ホールに広がる地獄を薄っすらと照らし出す。数十個の青いドラム缶が二列で二十メートルほどさきまで並べられていて、うちいくつかからは煙が出ている。側には、麻薬を精製するのに必要であろう琥珀色の液体が入れられたバケツが添えられていた。

 ホールに倒れているいくつもの死体。ハエたちが我先にと絶好の産卵場所を求め、すでに飛び交っている。現場にいる関係者たちは麻薬の吸引を防ぐため、全員ガスマスクで顔を覆っていた。


「ひどい有様」


 クライヴの隣で凄惨な光景を見ていたキャロルが言った。彼女もガスマスクをつけていたが、短い茶髪のおかげでどうにか判別できる。

一週間ほど前から怪しげな人物が出入りしているという話を受けたバーミンガム管轄の警察から、警官二名が廃墟となった工場に向かってから、三日戻らないという話が重大組織犯罪局SOCAにも届いた。麻薬らしきものを見たという証言から、クライヴたちが銃器専門指令部SCO19とともに現地へ到着した頃には、なかは血の海になっていた。規模は小さいが、昨今、バーミンガムやその周辺を悩ませていた犯罪組織が標的となったのだ。警官ふたりは工場に入ってすぐ、南京錠で施錠された部屋のなかで足枷をはめられたまま気絶していた。体中には切り傷や内出血が見られ、拷問を受けていたのは明らかだが、命に別状はなかった。バリケードテープと警官隊に群がるメディアの連中を背に、担架で運ばれていくふたりを見送ったクライブは、こうしてホールへと戻ってきた。

 クライヴは死体をまたぎながら奥へと進み、リーダーが座っていたであろうデスクへ向かった。キャロルも続く。椅子に座ったまま、全身黒ずくめの男が右手に拳銃を持ったまま白目を向いて死んでいる。肩まで伸ばしたボサボサの黒髪は後ろに束ねられていて、至るところにフケや汚れが溜まっていた。見たところアジアか、中東系の顔つきをしている。手前の机には大きな血だまりが広がっているだけだ。周囲にはとくに死体の数が多かった。銃を握っている者もいる。


「頭部と胸部に銃創があるわ」


 クライヴはふんぞり返っている死体を凝視した。ふたつの銃弾に貫かれているのはこの男のみであった。さすがに、数十人に二発ずつ撃つような面倒な真似はしなかったようだ。

 バルタサールがカルテルを立ち上げたのは、彼の家族を殺害したセブリアン・カルテルへの復讐のためという説が有力である。彼が組織設立のため動き始めたのと、家族が死亡した時期は一致している。メキシコの裏社会の秩序を築き上げ、その頂点に立っていた男が、なぜわざわざ玉座を降りてイギリスへやってきたのか。そして、このような犯罪組織を潰す理由はなんなのか。敵対しているならともかく、関係ない組織を潰すのは、むしろ味方を減らすだけのような気がしてならない。

 デスクを通り、クライヴは左の奥へ向かった。血だまりがそこかしこに広がっている通路では、ホールよりも狭いせいか死体の密度が濃い。鉄製の錆びた扉を開け、室内を確認していく。どこも簡易的なベッドや酒瓶、成人雑誌だらけで、大した収穫はなさそうだった。


「警部」


 ホールまで戻って来たところを捜査員のひとりに呼び止められ、クライヴはキャロルを置いてデスクの右奥、休憩室や個室が連なるエリアへ向かった。背中を追ってしばらく進み、通路の一角にあった部屋に入ると、なかにはブレンドンがいた。彼がベッドの下を指さしたので、這いつくばってみてみると、男が仰向けでぶつぶつ呟いている。頭髪は見事なまでに剃り上げられていた。顔は痩せこけていて、露出している腕はあちこちに引っかき傷がある。手首はとくにひどかった。


「生き残りだぜ」


「はい、もういないかと思っていましたが……」


 クライヴは立ち上がり、捜査員に外へ出るよう話した。ドアが閉じたことを確認すると、片膝をついて男に呼び掛けた。


「もう安全だ。私たちは君を保護しにきた」


 男はずっとつぶやいているばかりで、こちらの呼びかけに応じる気配はなかった。耳を澄ませると、どうにかその内容が訊き取れた。


「八発だ。あれは八発だった。なぜそんな……砲撃が」


 クライヴはブレンドンに内容を伝えた。


「砲弾? 八発? ここが砲撃されたとでもいいたいのか。おっさん、第三帝国はもうねえよ――」


「砲弾だ!」


 死にそうなくらいか細かった声は、途方もない力を帯びた。クライヴもブレンドンも驚いてベッドの下を見つめた。


「金色の死神が、骸骨の手下を従えてやってきた。奴ら、両手に弓を持っていた。死神がラッパを吹くと、逃げ惑い、泣いて命乞いをする者どもを手下が片っ端からぶっ殺していったんだ。世界の終焉が訪れたに違いない。四騎士のひとりが、犯罪者どもを見せしめに殺したんだ。G7によって秘密裏に創設された地球軍欧州支部の部隊が来るはずなんだが、間に合わなかった。地球軍元帥から無線でその話を訊いたとき、俺は落ち込んだよ。もうダメだと思った。そのときだ、ここに砲弾が撃ち込まれたんだ。死神たちは現代兵器をも手中に収めたのだ! んでもって嵐の中、死神たちは帰っていった。どうしてわかるかって? そりゃお前、砲撃が終わった後は、嘘のように静まり返ったからだよ。奴らは七つの海を支配している我が大英帝国の牙城を切り崩すため、東側諸国を利用したんだ。ロシア製の榴弾砲が使われたに違いない、いや、中国製か? 奴らは物量しか取り柄がない。北大西洋条約機構NATOはなにをやってる! 冷戦が終わればお役御免なんて思ってるのか? けしからん! さっさとワルシャワ・・・・・に集まって対抗策を練るべきだ! 破滅を平等にもたらすはずの騎士たちが、あろうことか赤どもと手を結んでいる! 国連は速やかに選りすぐりの駿馬を集めて騎兵連合部隊を編成し、ノルマンディーに上陸後は、マッカーシー殿の指揮のもと、西部戦線を速やかに突破、東側諸国に攻め込むのだ! マスタードガスの使用に備えマスクを新調しなくては。小便を染み込ませたタオルを口に巻くのは堪えるからな。おい、君たちの分も用意しておいてやろう」


 ブレンドンは苦笑交じりにため息を吐いた。クライヴも、こればかりは返す言葉を失った。


「クライヴ、こいつはどう見ても麻薬常用者だ。ヤク中の言葉なんざ詐欺師よりも信用ならねえ」


 彼の言う通りだ。

 それに、バルタサールが送り込んだ刺客が標的を殺し損ねるというのも考えにくい。もしかすると、捜査をかく乱するためにあえて残したのかもしれない。なにひとつとしてまともな証言もできないであろう、死んでいない・・・・・・だけの物体を・・・・・・


「人を呼んで、彼を病院に搬送させよう。僕たちは捜査を続ける」


 ブレンドンを連れてホールへと戻ったクライヴは、会話していたキャロルとアーロンのもとへ向かった。


「なにかわかったか?」


 アーロンは肩をすくめると、


「これがひとりの犯行ではないということくらいでしょうかね。種類の違う薬莢が三つ以上見つかりました」


 奇襲であったことは間違いない。麻薬の精製に忙しかった無防備な構成員たちの逃げ惑う姿が脳裏に浮かんだ。彼らの多くが奥に逃げ、そのうちの何名かは銃を手に戻ってきて抵抗したのだろう。


「でも、こんなことをする意味がわからないわ。バルタサールたちだって同じ穴のむじなでしょう」


 キャロルが言った。


「わからないことをいくら悩んでもしょうがない。生存者の健康状態が落ち着いたら話を訊こう」


「期待せずに待つとしましょう」

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