第一部 十


 紙のこすれる音にカーティスは目が覚めた。左に置かれたいかにも複雑そうな機械――病院だ。側に立てかけられたデジタル時計は午前十一時、日曜日を示している。全身は血まみれの服から、シミひとつない清潔な患者服に変わっていた。血はどこにもついていない。

 顔に差し込む陽射しを遮ろうとして左腕を上げた瞬間、激痛が走った。おもわず息が漏れた。


「お目覚めか」


 クライヴはベッドの右にある椅子に腰かけていた。コーヒーカップを片手に新聞を読んでいた顔を上げる。縦に折られた新聞の一文には「大英博物館が一日休館」と書かれていた。


「ここはどこだ」


「ミドルセックス病院」


 大英博物館の西にある病院だ。

 カーティスは身体を動かした。両足は問題ない。右腕も動く。だが、胴体と左腕が痛い。ひどいのは左腕だ。傷口を棒で突かれているようだ。彼は意識を失う前の記憶を頭から引っ張り出した。自分は中条と戦って、気を失ったのだろう。


「医者が言うに、上半身の怪我はひどかったらしい。左腕は回復に一ヵ月はかかる。三週間は入院し、問題なければ退院だそうだ。キャロルたちに礼を言っておけよ。手術室に入るまでのあいだ、つきっきりで応急処置を施してくれたんだからな」


 クライヴは続ける。


「……中条の遺体には、無数の裂傷、胸部には深い刺し傷があった」


 どうしてまた馬鹿げたことをしたんだお前は、と暗に批判されているようだった。

 殺されてもおかしくなかった。だが、こうしてカーティスは生き延び、中条は死んだ。

――たとえ万人から罵られようが、私には進みたい道があった

 刀剣に惹きこまれるあまり、あの男は道を踏み外した。刀で人を斬るよりも、世界中から訪れる人々に刀の魅力を伝え続けるほうがよほど理に適っている。

 中条宗則はそれでも日本刀にありのままの姿を求めた。時代や風潮など関係なく、洗練された刀身がもっとも輝ける場所を。


「当日警備を担当していた者たちは、気絶した状態で倉庫の中に閉じ込められていた。みな後頭部に打撃痕があった」


「殺されてなかったのか」


「話を聞いたところでは、みな十年近く前から警備をしていたらしい。中条のことを知っていたようだ」


 知人を殺すのは忍びなかったとでもいうのか。刀のために罪もない人々を八人も殺した男が。カーティスは深く息を吐くと、天井を見上げた。中条の着ていたシャツのように白かった。

 カーティスはアレクシアのことを思い出した。たしか、前に見舞いに行くと約束したはずだ。


「病院を移ることはできないか」


「できないことはないと思う。どうして」


「前に話した女性がセント・メアリー病院にいる。先週、彼女に見舞いに行くと約束したんだ」


 包帯にギプスを全身に巻かれた姿を見たアレクシアが、驚いたり笑う姿が目に浮かぶ。非常識極まりない行動だが、話のタネくらいにはなるだろう。


「わかった。とりあえず、こことセント・メアリー病院に連絡して、移れないか聞いてくる」


 クライヴは新聞を四つに折りたたんでバッグにしまい込むと、そさくさと病室を出ていった。白地のシャツに黒いデニムに身を包んだ彼を、カーティスは背中越しに見送る。ドアが閉まり、病室は再び静まり返った。ときおり車が走る音が聞こえる。カーティスは近くのかごに置いてあった自分のスマートフォンを手に取り、情報の海に駆りだした。散歩も、筋トレも、映画鑑賞もできない状況では、長方形の画面と睨みあうことが、いま彼にできる唯一の暇つぶしだった。



 三日後。

 自分を死の淵より救い出してくれた医師とナースたちに礼を言い、カーティスはクライヴが運転する車でセント・メアリー病院に向かった。上半身の痛みはまだ引いておらず、有刺鉄線できつく巻かれているようだった。ロータリーに停車すると、クライヴは一足さきに降りた。数分も経たずして車いすとともに戻ってくる。彼の肩を借り、カーティスは車いすに乗った。上半身の怪我の影響で、両腕が満足に動かせなかったのである。

 三十年以上生きてきて、車いすに乗るのは初めての経験だった。ただ座って相手に身を任せているのが、あたかもベビーカーに乗る赤ん坊のようで少し恥ずかしい。クライヴに表情を読まれないよう正面を向きながら、受付で合流したナースとともに自分の病室に行った。

 身の回りの品を置き、カーティスはクライヴとともにアレクシアの元へ向かう。エレベーターで二階へ降り、廊下を進む。道中、数人の医師や患者とすれ違い、カーティスは二〇一号室のドアをノックした。


「どうぞ」


 クライヴがドアを引くと、奥には先週会ったときと同様にベッドに寝そべるアレクシアがいた。日が暮れているため、輝く茶髪は拝めなかったが、優しげな雰囲気をたたえた二重の瞳や、くっきりと線の出た鼻、少し厚い唇は、カーティスの目を奪うには十分だった。


「あなたは……」


「少し遅れたが、約束通り見舞いに来た」


 アレクシアは呆気にとられたような顔をしたかと思いきや、声をあげて笑い出した。腹部の銃創に響いたのか、すぐに右手で腹を押さえて唇を結んだ。それでも白い歯は隠しきれていない。しばらくして落ち着きを取り戻した彼女は、息を吸い込んだ後、口を開いた。


「手の込んだ冗談ね! すごく面白かった」


「それが本当なんだな」


 アレクシアは目を丸くしてカーティスを見つめていた。クライヴが言葉を継いだ。


「僕は、カーティスの友人のクライヴ・エインズワース。こいつ、一週間前に交通事故にあって、全身強打、くわえてあばら骨を二本、それに左腕も折ってしまってね。三日前からセント・メアリー病院に入院してるんだ。今日病室を尋ねてきたら、君の話が出て、車いすに乗せてここまでやってきたわけだ」


 彼女は申し訳なさそうに眉をひそめながらカーティスを見た。


「……ごめんなさい。茶化してしまって」


「話のタネにしようと思って来たんだ。笑ってくれてよかった」


 車いすを押されたカーティスは、アレクシアのベッドの側まで来た。


「入院期間は、あと二週間くらいだったか?」


「ええ、相変わらず退屈」


「せっかくの長期滞在なのに、強盗に会うなんてついてない」


「パスポートは残されてたから、どうにか帰国はできそう」


 あの日に起こった事件は、カーティスの頭の中に黒い渦となって留まり続けていた。アレクシアが元気に笑って見せたので、彼はひとまず疑問を隅に追いやった。


「観光地は見て回ったのか」


 車いすの後ろからクライヴが言った。


「ロンドン周辺くらい。できれば、ウェールズとか、スコットランドも行きたいな……お金が足りればの話だけど」


「カードも奪われたのか」


「うん。再発行されるまでは節約しないと」


 アルゼンチンの通貨であるアルゼンチン・ペソが、ポンドに直すとどれほど価値があるのかはわからないが、母国の通貨を引き出せないのは精神的にもつらいだろう。イギリスにやってきたばかりの頃のカーティスも、円ではなくポンドでやり取りすることにはちょっとした不安を覚えていた。


「――カーティス、お前が観光地を案内してやったらどうだ」


「俺が?」


「どうせ暇だろう。金も有り余っているだろうし」


「そんな、迷惑はかけられないわ」


「そんなことない。こう見えて、こいつはけっこうお人好しだからね」


 クライヴはカーティスに耳打ちした。


「絶好のチャンスだ。貯蓄はそれなりにあるだろう」


 外はすっかり陽が落ちて、窓辺のすぐ外に植えてある木の幹も見えなかった。

 カーティスは少しばかり考え込むと、意を決したように顔を上げた。


「――君さえよければ、俺は大丈夫だ」


「でも……」


「カーティスは民間警備会社に勤めていて、それなりの給料をもらってる。療養生活を終えるまでは仕事にも復帰できない。こいつの暇つぶしに付き合ってやってくれないか」


 碧色のきれいな目が、カーティスの顔に向けられた。


「僕は警察の人間だから、こいつがなにか粗相を働けば逮捕できる。安心していい」


 彼女の顔が一瞬強張ったような気がしたが、すぐ笑顔になった。


「じゃあ、お願いしようかな……」


「僕に感謝しろよ」


 再び耳打ちしてきたクライヴを、カーティスは右手で振り払った。このような展開になることを望んでいたわけではない。

 だが、毎日同じことのくり返しだった生活に、少しは刺激をもたらすかもしれない。カーティスは、クライヴのお節介をうっとおしく思いながらも、そんな自分たちのやり取りをみて微笑む彼女との出会いを、密かに喜んだ。

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