第一部 九



 中条の抜いた刀身が、カーティスの振るうコンバットナイフと当たり火花を散らせた。暗がりで鍔迫り合う、ふたつの影が点滅する。四十代とは思えぬ力にカーティスはたじろいだ。いったい、これほどの力がどこから出てきているのか。

 カーティスは体を一気に沈めると、右手のコンバットナイフを水平にして中条の刀を流した。右脚で中条の胸を蹴り上げる。

 後ろへ跳び蹴りの勢いを殺した中条は、鞘を捨て日本刀を正面に構え直したかと思うと、突きの体勢になった。地面を蹴り、顔を上げたばかりのカーティスに向かって突っ込む。黒茶色の瞳に、鋭利な切っ先が映り込んだ。顔を右にずらし、突きをすんでのところで回避する。美しい刃紋が輝いたかと思うと、中条は刀をカーティスの首を狙って右に薙いだ。刀の勢いに合わせて右へ転がるが、顎に浅い線が浮かび上がった。右手で拭うと、わずかだが血が付着していた。

 間髪入れずに突きをくり出したカーティスだが、体を翻した中条によっていなされた。構えた日本刀がカーティスの背中に振り下ろされる。痛みが走った。勢いを止めなかったおかげで傷は浅かった。

 彼は中条に向き直った。


「戦い慣れていな」


 中条は刀を構え直しながら言った。


「侍と戦った経験はないが」


 中条はにやりと笑うと、刀を振り上げ、突進しつつ左から斜めに振り下ろした。カーティスはとっさに右へ避けたが、勢いのまま体を回転させ、刀を横にして振り払った中条により脇腹を裂かれた。わずかな衝撃がカーティスの身体に伝わる。だが、皮膚を裂かれていなければ、血も出ていない。防弾チョッキが身代わりになっていた。防弾チョッキに気を取られていた中条に向け、カーティスは持っていた得物を突き出した。中条は体を回転させたものの、太い刃が背中を浅く切った。茶色いレザージャケットが裂かれ、下に着ている白いシャツがわずかに見える。カーティスはそのまま肘で相手の背中を打って突き飛ばした。床を転がってショーケースにぶつかった彼を殺すため、カーティスはナイフを持ち直して走る。起き上がろうとした中条の心臓にナイフを突き立てようと構えたとき、彼の懐からなにかが光った。

 本能は回避を求めたが、肉体は間に合わなかった。上体をわずかに左へずらしたが、鋭く迫り来るなにかはカーティスの左肩に刺さり、鋭い痛みと衝撃が走る。彼は右手にナイフを握ったまま、崩れる体勢をものともせずに斬りかかった。中条が刀を振るうより早く、カーティスのナイフが相手の胸部を裂く。手応えがあった。中条のシャツからは鮮血がにじみ出ている。

 中条は空いている左手でカーティスの右手をつかむと、足を引っかけて地面に仰向けに倒した。コンバットナイフが絨毯の上を滑る。そのとき初めて、カーティスは自分の左肩に刺さっている刃物の正体を見た。小太刀だ。少なくとも五センチは刺さっている。肩が思うように動かない。

 中条は流れるような動きで立ち上がると、下に構えた日本刀を、カーティスの胸に向けて突き出した。左腕を無理やり動かし、カーティスは両手で刃の側面を挟んだ。両手で押し込もうとする中条の圧力に耐えきれず、じわり、じわりと、切っ先が彼の胸へ落ちていく。中条は息を切らしながら、


「死んだ身なら痛みもないだろう。なにを恐れる」


「そうであればいいんだけどな――」


 カーティスは中条の左腕に向けて、右脚を思い切り蹴り上げた。左手が日本刀を離れ、圧力が弱まった。

 左手で日本刀の刃をつかんだ。指先に触れた刃から、血が滴り落ちた。刃が一気に沈み、胸を浅く突いた。歯を食いしばりながら右手で小太刀を引き抜いた瞬間、意識が飛びそうになった。だが、壮絶な痛みが彼を現実に戻した。抜いた勢いのまま小太刀を横に薙ぐ。ふたりの隙間を通過した刃は、さきほどカーティスが蹴り上げた中条の左手に斬り込んだ。人差し指と中指が切断され、絨毯を転がった。

 中条の顔は苦痛に歪んだ。右に跳んで距離を取る。カーティスはその場で起き上がり、右手の小太刀を握りしめた。互いに息を荒げ、眼前の敵を睨みつけている。

 ガラスの向こうの展示品たちは、ふたりの日本人が戦う姿を黙って見ていた。


「旗色が悪いな、侍」


「どうかな」


 額に大量の汗を浮かべた中条は、日本刀を前に構えながら、左手に残った三本の指で腰のベルトを外した。

 いまがチャンスかもしれない。そう思ったカーティスはすぐに動きを止めた。中条は中段の構えを取っていた。どんな状況にも対応可能な構え。正面から飛び込んだところで返り討ちにされるだろう。

 中条は右手でベルトを柄に挟みながら、左手で一回転させ、最後に両手を巻き込むと留め金できつく縛り付けた。血まみれの左手は、右手とともに日本刀の柄を無理やり握っている。圧迫された患部からは血が滴り落ちていた。


「なぜ、こんなことを」


 カーティスが言った。


「日本刀が好きなだけだ。民衆の目に晒され、話題の種となった存在に、もう一度光を当ててやりたかった」


「なら人気の少ない場所を狙う必要はない」


「知名度のためではない。刀のために・・・・・振るったのだ・・・・・・


「狂ってるな」


「お互い様だろう」


 波打つ刃紋、反り返った峰、切っ先は非常灯の明かりを鋭く返した。中条は刀を見つめていた。その目つきは、公園で走り回る我が子を見つめる親のようだった。黒色の瞳は、際限なき優しさをたたえていた。

 カーティスは自分の左肩を見た。血が脇を通り、Tシャツを赤く変色させている。


「最初からこうなることはわかっていた」


「わかっているなら――」


「私には進みたい道があった。だから、刀に惹かれて学芸員になった。ここに至るまでの人生すべてが私の意志だ。そしてこれも・・・。誰にも文句は言わせん」


 中条は黙った。刀に注がれていた優しい視線は、カーティスに向かうにつれて獰猛さを取り戻していく。日本刀の柄を左の頬の高さまで上げると、そのまま動かなくなった。張り詰めるような空気が流れ、カーティスと中条の周囲を取り巻いた。

 カーティスは地面を蹴り、全速力で中条へ突っ込んだ。中条も走り出した。日本刀の間合いに入ろうとした直前、カーティスは腰を屈め、力の入らない左手で床に落ちていたコンバットナイフを拾い上げると、振り下ろされた日本刀に向けて斬り上げた。コンバットナイフは振り下ろされた刀に当たるとことごとく弾かれ、カーティスの顔を横切って飛んでいく。刀の軌道がずれたことで左腕を斬りつけられたが、代わりに機を得た。日本刀と交差するように、右手に持った小太刀を中条の胸に思い切り突き立てる。刃は深く沈み込み、中条の右の肺を貫いた。刃と肌の接合部から血が滴り落ちる。

 それでも、中条は倒れなかった。彼は力を振り絞って日本刀を持ち上げると、膝立ちの状態から立とうとするカーティスの左肩を、間髪入れずに刀身で打ち叩いた。刃でも峰でもない、日本刀の側面による殴打。傷に衝撃が走り、思わずうめく。カーティスは右手で中条のジャケットをつかみ、自身の身体を引き上げるようにして立ち上がると、中条の右胸に刺さった小太刀を思い切り引き抜いた。そのまま彼の左の鎖骨に斬り下ろす。中条の刀はカーティスの脇腹を裂いたが、浅かった。胴体を真っ二つにできるような勢いはない。肩に深く斬り込まれた小太刀から血が飛び散り、絨毯の一部を真っ赤に染めた。

 絶叫が辺りにこだました。中条は目を見開きながら、ついに倒れた。縛っていたベルトが緩んだのか、衝撃で日本刀が両手からこぼれ落ちた。

 カーティスは全身を走る痛みに耐えながら、側のショーケースに手を当て、どうにか姿勢を保った。中条は焦点の定まっていない瞳を天井に向け、浅い呼吸をくり返している。カーティスは、ショルダーホルスターにかけていた手を収めた。


見世物・・・はどうだった」


 中条が、声を震わせながら言った。

 カーティスは小太刀でTシャツを裂き、右手と口を使って左腕の肩を思い切り縛った。彼は黙って最期の言葉を訊いていた。


「小太刀を、持ってきてくれないか」


 カーティスは握っていた小太刀を、自身のTシャツの切れ端できれいにふき取った。中条の胸元に置くと、彼は懐をまさぐり、装飾の施された黒い鞘を取り出した。小太刀の刀身をゆっくりと納めていく。彼は満足げな顔をしていたが、さきほどまで懸命に続けていた呼吸は視認できぬほどに弱っていた。虚ろな視線は周囲の展示品を逡巡し、やがてカーティスに向けられた。目が合った。中条の目には死への恐怖もなければ、さきほどまでカーティスに向けていた殺意もない。ただ彼が持つ、黒く、優しい瞳があった。


「悪くない」


 カーティスは大きく息を吐くと、血まみれになっていたフラッシュライトを取り出し、中条の目を照らした。瞳孔は縮小せず、まばたきもしない。右手で首元の脈を計った。

 離した右手を左耳に回し、インカムを強く押した。


『中条宗則を始末した』


『なんだって? もう一回言ってくれ』


 カーティスは疲れ切った顔で口角を吊り上げると、すぐに英語・・で場所と状況を簡潔に説明した。通信を終えた彼は右手を地面に垂らすと、そのまま意識を失った。

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