第一部 五



 ロンドン中の建物から見える明かりが、まるで星空のように暗闇でたゆたっている。イギリス内務省の大臣執務室で、アーサー・エルドリッチは机の脇に積まれた書類に目を通していた。


「あとはアーサー次第だ」


 エルドリッチの机の前には、応接用のソファーとテーブルが置かれていた。ソファーではスーツを着たエドワードが、座って蔵書の一冊を読んでいる。

 走らせていたペンを置き、エルドリッチは椅子を回転させてロンドンの夜景を見渡した。ロンドンに注ぐテムズ川が、街の光を不規則に反射している。対岸には、カンタベリー大主教の住まいであるランベス宮殿が佇んでいた。

 大英帝国として七つの海を治めていた力は、いまのこの国にはない。エルドリッチは目を細めた。だが、生き残るのは強い者ではなく、変化に対応できる者である。テロ対策の予算や、ロンドンに設置する監視カメラの数が増えたのも、重大犯罪対策チームSCO0が生まれたのも、その変化にほかならない。

 技術の発達で国境線は曖昧になり、世界は物理や電子でできた血管と神経によってつねにつながっている。より複雑に、過激になっていく国内犯罪に対応するために暗躍するSCO0は掃除人であり、しがらみに絡めとられた警察のための潤滑油でもある。

 カーティスの異常な戦い方に驚いたのは、エルドリッチも同様であった。危険も承知で投げかけた取り引きに、あの男は応じた。仕事自体はそつなくこなすゆえに、誰も口を挟めない。静かな狂気の下、静粛に、忠実に仕事をこなす姿勢に、エルドリッチは尊敬を通り越して恐怖を覚えていた。


「アーサー」


 エドワードが言った。エルドリッチは振り返った。


「なんだ」


「感傷的になってるのは構わないんだが、渡した書類、一枚目にはサインしてくれ。じゃないと俺たちはなにもできなくなっちまう」


 積まれた書類の側にエドワードが置いた二枚の書類。一枚はSCO0の予算申請書、二枚目は文字通り始末書・・・・・・・・だ。エルドリッチは椅子に座ると、右手で持った万年筆を走らせ、予算申請書に自身の名を署名欄に記した。エドワードは固い表情のまま、


「さて、どうするんだ」


 二枚目の書類には署名欄は三か所用意されていて、そのうちふたつはすでに名前が入っている。市長公室、ロンドン警視庁の代表者の名前だ。残りのひとつにエルドリッチの名前が書かれれば、対象の人物は断頭台に頭を乗せることになる。

 十三回も経験していながら、エルドリッチはこの瞬間に馴染む気がしなかった。

 いや、それでいいのだろう。この仕事に携わっている人間の誰もが汚れている。自覚があるだけマシというものだ。

 エルドリッチは目の前の男を見た。現場で働く者の意見を大事にし過ぎたエドワードは、上から不評を買い、出世コースから外された。三十五年前、ともに警察に入っていながら、互いの変わり過ぎた境遇を重ねても、エドワードはなにひとつ不満を漏らすことはなかった。


「お前も物好きな奴だ」


「いきなりどうした」


 エドワードは笑いながら言った。


「SCO0の局長なんて聞こえはいいが、実質左遷だ。潔く年金生活を送ればいいものを」


「むしろ現場に近くなってせいせいしてる。それに、お前よりさきに辞めるつもりはない」


「ならその腹をどうにかするんだな」


 エドワードは自身の丸い腹を見て顔をしかめた。


「それより、どうすんだよ」


 エルドリッチは再び書類に視線を落とした。万年筆を走らせ、ムネノリ・チュウジョウの処断を問う書類の署名欄に自らの名をしたためた。


◆◆


 椅子に座ったカーティスは、スマートフォンの画面をスライドさせながら、インデペンデント紙に目を通していた。「ウィンブルドンの一画で殺人事件 麻薬カルテル関与か」という見出しに目を引かれた。内容を読んだ限りでは、重大組織犯罪局が捜査しているようだった。クライヴたちも現場に出動しているだろう。

 彼はスマートフォンをポケットに突っ込み、ベッドで寝ている女性を見た。腹部を撃たれていたが、運よく弾は貫通していた。三週間の入院後、さらに一ヵ月安静にしていれば問題ないという。

 彼は脳裏で現場の光景を思い出していた。グロヴナーホテルの側の路地で血だまりに倒れていた女性。すぐ側には散乱したショルダーバッグ。なかからは財布が抜き取られていた。たちの悪い強盗にあったことは想像に難くない。

 気がかりなのは彼女の銃創だった。犯人はなぜ急所を狙わなかったのだろう。自分が強盗なら、近づいて銃を手に脅迫し、バッグを奪って逃げる。よほど切迫した状況にでもならない限り発砲はしないはずだ。捜査技術が発達した昨今で、わざわざ証拠を残すのはおかしい。撃つならば、頭部か胸部などの急所を狙い、確実に仕留めるのが安全だ。銃声が訊こえなかったのは、サプレッサーを付けていたからだろうが、それでも攻撃するメリットはほぼない。

 深く考えてもしょうがない。カーティスは立ち上がり、大きく伸びをした。

 かすかな声が耳に入り、カーティスは彼女の顔を見た。長いまつげがかすかに揺れている。程なくして、ふたつの目がゆっくりと開かれた。病室の窓から差し込む光が、碧の瞳を優しく照らす。天井を見つめていた視線は室内を一巡し、やがてカーティスのところで止まった。


「おはよう。いや、こんにちはか」


「……ここは?」


「パディントン地区にある、セント・メアリー病院。すべて税金で賄われてるから、金の心配はしなくていいぞ」


 カーティスは笑った。


「私、どうしてここに」


 上体を起こそうとした彼女の顔が苦痛に歪んだ。


「腹部を撃たれていた。それで、俺が車を運転して君をここまで運んだんだ。医者が言うに、丸一日寝ていたらしい」


 彼女は少しばかりカーティスを見つめていた。


「助けてくれてありがとう」


「怪我人を運んだだけだ。そうだ、俺はカーティス・サカキバラ。君の名前は?」


「アレクシア、アレクシア・ハバート。サカキバラって、英名じゃないよね?」


「日本人が使う苗字ファミリーネームのひとつだ。イギリス人と日本人のハーフなんだ」


 アレクシアはベッドに体を預け、深呼吸した。財布が盗まれたと聞いた彼女はショックを受けていたが、すぐに穏やかな顔に戻った。

 窓際に行き、カーティスは窓を開けた。穏やかな風が室内へと流れ込み、アレクシアの茶髪を撫でる。


「家族は国内にいるのか」


「イギリスには旅行で来てるの。家族はアルゼンチンにいる」


 カーティスは、アレクシアと近しい人間と連絡を取るため話を聞いた。イギリスに知り合いはいないらしい。パディントン地区に居を構えているようなので、カーティスは彼女が退院したら家まで送っていくと約束した。

 彼女が目覚めたこと、シンディーと舞にも伝えておくか。


「そろそろ行くよ。せっかくの縁だし、来週になったらまた見舞いに来る」


 アレクシアは微笑みながら、


「ありがとう。あと三週間も寝てるなんて退屈だし、今度はなにか話を聞かせて」


 ※


 夕陽がロンドン中をオレンジ色に染め上げる頃、グロヴナーベーカリーでは、舞が外に出て店じまいの準備を進めていた。木製の看板を手に室内へ戻ろうとする舞を、カーティスが呼び止める。シンディーに会うため、片付けを終えた舞とともに階段を上っていく。二階の一室で、シンディーはしおりを挟んだ本を机に置いた。読書中だったようだ。

 シンディーに促され、カーティスは舞とともに、テーブルの側に置かれた椅子に腰かけた。


「どうしたんだい」


 椅子に座ったシンディーが言った。


「昨日病院に送った女性が目を覚ました」


 隣に座っていた舞は嬉しそうな顔をすると、


「それは良かったです。血まみれのあの人を見たとき、死んでしまうんじゃないかって思いましたから」


「あんたもお人好しだねえ。ますますブライアンに似てきた」


 ノッティングヒルへ移住したとき、ブライアンとの話を思い出し、グロヴナーベーカリーを尋ねた。そのときのシンディーは、歓迎とも拒絶とも取れない、複雑な表情をしていた。

 シンディーがブライアンに恋をしていたと分かったのは、彼女に祖父のことを聞きだしてから間もない頃だった。近所付き合いで知り合ったこと、グロヴナーベーカリーでブライアンとともに働いていたときのことを話すシンディーの顔は儚げで、しかし幸せに満ちていた。口には出さなかったが、ブライアンに思いを寄せていたことは明らかだった。彼と、恋敵であるアミーリアのあいだにできた孫が目の前に来れば、あの初対面のときの反応もうなづける。


「そう言えば、警備会社の仕事は順調なのかい」


「ぼちぼち。近頃じゃ国内も物騒だし、給料も上がったんだ。職員のつなぎとめに必死なんだろうな」


「それなら問題ないね。これからもうちをごひいきに」


 カーティスはスマートフォンの振動に気付き、ポケットから取り出した。画面にはエドワードの名が表示されている。ふたりに失礼して廊下に出ると、通話ボタンを押した。


『カーティスです』


『エドワードだ。明日の朝8時にSCO0のオフィスに来い。つぎに仕事のミーティングを行う』


『わかりました……そうだ、いまグロヴナーベーカリーにいるんですが、要り・・ますか?』


『……ひとり分、いや、全員分買ってきてくれ。領収書忘れるなよ』


 カーティスは通話を終えると部屋に戻った。職員分のパンが欲しいことを告げると、ふたりは満面の笑みで応えた。


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