第一部 六

 円卓を囲み、カーティスを含めた六人は椅子に座って黙々とパンを食べていた。エドワード局長がわざわざ全員に連絡を取り、朝食を抜いてくるよう伝えていたからだ。

 グロヴナーベーカリーは八時に開店するので、シンディーに早めにパンを焼いてもらい、一足早くもらってきた。SCO0も、グロヴナーベーカリーにとっては密かなお得意様なのだ。

 両手にパンの入った大きなビニール袋を引っ提げ、香ばしい匂いとともに内務省を歩くのは少し恥ずかしかったが、パンを食べているとそんな羞恥心は消し飛んだ。


「グロヴナーベーカリーのパンを食うのは久しぶりだが、やっぱりうまい」


 ブレンドンが大口を開けながら、ベーコン入りのベーグルを頬張った。


「局長の飯に付き合うのも、たまにゃ悪くないですな」


 エドワードはシナモン・バンズを口にしたまま、


「そうだろう」


 「その通りだ」と言わんばかりに、キャロルもアーロンも笑いながらパンに手を付けていく。カーティスの隣に座っていたクライヴもおいしそうに食べていた。会議室にたちまち香ばしい匂いが立ち込める。

 エドワードはハンカチで手を拭うと、椅子の下に置いてあったバッグから数枚の書類を取り出した。立ち上がり、円卓を時計回りに歩きながら、面々に1枚ずつ渡していく。


「今回の標的だ。まずは目を通してくれ」


 カーティスに最後の一枚が渡され、エドワードは席に座った。同僚とともに、書類に視線を落とす。そこには、生きた年月を感じさせる皺が適度に刻まれた、男の顔写真が添えられていた。髪は黒く角刈り。目尻が少し下がっていて人が好さそうに思えたが、目は据わっている。どことなく外国人のように見えなくもない。カーティスはその下にある短めの文面を読み始めた。


 中条宗則。東京生まれの四十四歳。帰化イギリス人で現在はカンタベリー在住。刀剣に強い興味を抱いており、高校時代に近場の道場で剣術を学ぶ。日本大学芸術学部を卒業した後、渡英し、大英博物館を始めとする国内各地の美術館などで二十年間学芸員として勤務。半年ほど前から大英博物館に展示されていた日本刀とともに姿を消した。以降、サウスダウンズ国立公園を始めとするイギリス南部、とくに人口の少ない地域で、鋭利な刃物により斬られた死体が八人発見される。いずれも成人男性のみ。警察が自宅を訊ねたところ、イギリス南部に関する詳細な資料、および容疑者の皮膚組織を確認。現場に落ちていた皮膚組織とDNAが一致した。訪問時に本人はいなかったが、一週間前、彼がロンドンにいることが判明。大英博物館内に貯蔵されているほかの日本刀の奪取、ならびに殺傷事件が起こす可能性がある。


「ひとつ質問してもいいでしょうか」


 クライヴが言った。


「いいぞ」


「チュウジョウは、界隈でそれなりに名の売れた人物のはずです。なぜ、二十年以上も経ってからこのような凶行を?」


 中条宗則という名は、カーティスにも聞き覚えがあった。実際に会ったことはないが、十五年ほど前に初めて大英博物館を訪れたとき、なかにあったパンフレットに顔つきで紹介されていた。日本の帰化イギリス人で、日本文化の造詣が非常に深いと。


「目下調査中だ。現在、ブルームズベリー地区、とくに大英博物館周囲は私服警官が固めている。二十四時間体制でな」


「中条宗則」


 カーティスは思わず呟いた。周囲の視線が集まる。彼の流暢・・な日本語に驚いたのだろう。エドワードは彼を一瞥すると、


「犠牲となった八人の遺体は、胴体か、あるいは首、太ももがきれいに両断されていた。傷口を合わせればくっつきそうなくらいにな。一撃必殺だ。想定される武器は、日本刀」


「で、私たちはどうすれば」


 キャロルが言った。


「大英博物館付近で車内に待機し、奴が現れるのを待つ。なかに入ったら、カーティスが後を追い、仕留める。室内での戦闘が予想されるため、ドローンはなしだ。インカムで連絡を怠るなよ」


「任せてください」


 カーティスは中条宗則と戦う場所を想定していた。

 大英博物館は広い。広間で戦うべきか、地形を利用できるような、展示品の多い場所で戦うべきか。日本刀のリーチはコンバットナイフよりもはるかに長い。安全策で間合いを取るよりは、一気に近づいたほうがいいだろう。


「カーティス」


 心配そうな顔をしながらクライヴが声をかけた。


「くれぐれも無茶はするな」


「ああ」


「作戦開始は明日。各自、今日中に準備をしておけ」


 細かい質問を挟んだ後、面々は残ったパンを持って会議室を出た。残ったのは、カーティスとクライヴのみ。カーティスは中条宗則について書かれた書類をずっと見ていた。


「残りは外で食おう」


 カーティスはクライヴに続いて内務省を出ると、テムズ川付近の喫茶店に入った。テラスの席に座り、バッグからパンを取り出す。時刻は九時。若干だがうすら寒く、だが陽の光が心地いい。晴れた空のおかげか、ビッグ・ベンも、ロンドン・アイも、光を受けて反射するテムズ川も、一段ときれいに見えた。


「そういえば、この前言っていた女性は大丈夫だったか?」


 クライヴには、前に起きた強盗事件のことを話していた。まだ犯人は捕まっていないようで、警察が現在も行方を追っているという。


「昨日目を覚ました。医者が言うには、一ヵ月くらい安静にしてれば大丈夫らしい」


「それはよかった。ちなみに、どんな人だ?」


「髪は長めで茶髪。背丈は俺より小さいな」


どうだった・・・・・?」


でかかった・・・・・


 ふたりは歯を見せながらにやついた。


「お前も、そろそろふたり目を見つけたほうがいいんじゃないか」


「考えておく」


 カーティスは、高校生のときにジェーンという女性と付き合っていた。カーティスがイギリス陸軍に入隊した後もふたりは変わらず愛し合い、イラク戦争中まではメールのやり取りもしていたが、帰国後に関係がこじれて別れた。それ以来、カーティスに恋人はいない。暇なときは、筋トレをするか、映画を観るか、散歩をするかのいずれか。スケジュールが合えば、クライヴたちSCO0の同僚と酒を飲む、という日々だった。

 クライヴは内務省から拝借してきたインデペンデント紙をテーブルに広げながら、喫茶店で買った紅茶に口をつけた。カーティスが目を向けると、例のウィンブルドンで起こった殺人事件の見出しが書かれていた。昨日スマートフォンで読んだのと同じ号だ。


「……ベネディクトはまだ見つからない」


 クライヴが言った。


「そうかんたんに見つかったら麻薬組織のトップなんてやってられないだろう」


「まあ、それはそうなんだが」


 メキシコでは、政府と麻薬組織による戦争が長引いている。密輸ルートを経由して世界に売りさばかれる大麻やヘロイン、コカインの量は凄まじく、治安の回復は困難を極めているようだ。大西洋を挟んださき、アメリカ合衆国の下敷きのように位置する国・メキシコ。クライヴの口から語られるのを耳にするたび、カーティスは麻薬組織の脅威を強く感じていた。

 汽笛が訊こえ、ふたりはテムズ川を見た。大きなクルーズ船が航行している。甲板ではたくさんの人々が手すりにつかまり、ロンドンの街並みを眺めていた。その後ろでは、子どもたちが元気よく駆け回っていた。

 そんな子どものひとりと、カーティスは目が合った。カーティスが片手を軽く振ると、子どもは笑いながら、幼い両手を思い切り振って応えた。この広い世界のほんの一部しかしらない、純粋な笑顔。久しく忘れていたその表情を見て、カーティスの顔も綻んだ。

 同時に緊張感を覚えた。

 このロンドンに、中条宗則が潜んでいる。八人の死者が全員成人男性だったのは、本人なりの流儀なのだろうが、乱世ならともかく、太平の世で人斬りなど受け入れられるはずもない。


「紅茶が冷めるぞ」


 カーティスは紅茶のカップを持ったまま硬直していた。カップに触れると、さっきよりも冷めたくなっていた。一気に飲み干した。


「中条って、どんな奴なんだろうな」


「僕が知る限りでは、温厚な人だ。かなり前だが、大英博物館に行ったとき、入場者と話す彼を見たことがある。丁寧な物腰でしゃべっていたよ」


 ますますわからない。そのような人物が殺人鬼になる理由はなんだ? カーティスは考えを巡らせた。そうだ、奴に話を訊く絶好の機会・・・・・がある。温厚な学芸員だった男が、なぜ犯罪者に堕ちたのか、直接確かめればいい。

 目の前のクライヴは新聞を読みふけっていた。新聞越しに、青い瞳が左右を行ったり来たりしている。

 ポケットからスマートフォンを取り出したカーティスは、明日の天気を確認した。ウォルターを始末したときとは違い、曇りのようだ。スマートフォンをポケットに入れ直し、もう一度テムズ川を見た。さきほどまでのクルーズ船は消え、巡洋艦ベルファストが凛々しく佇んでいる。少し強い風が吹いたと思うと、カーティスたちのテーブルを覆っている傘がわずかに揺れた。


「そろそろ行くか」


 クライヴはこちらを見てうなづいた。ふたりは立ち上がると、喫茶店を後にした。

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