第一部 四
グロヴナーホテルに差し掛かる直前、カーティスは突然立ち止まり眉をひそめた。
ここはイギリスの中心・ロンドンだ。最近はテロ事件こそ起こっているが、紛争地帯ではない。というのに、なぜ自分は緊張しているのだろうか。
非常時に備えてジャケットに忍ばせている小型のナイフに手を伸ばしつつ、ホテルの前を横切った。ハイド・パークの側の通りを直進し、左の路地に入る。
鉄の臭い。手前の十字路を右に曲がったさきに、鉄か、あるいは血の臭いを漂わせるなにかがある。ゆっくりと歩を進め、臭いの元を辿っていく。首から一筋の汗が流れた。少しずつ
人の手が見える。彼は走り出した。茶髪の女性がうつ伏せに倒れていた。紺のブラウスに白いデニムをまとっており、腹部が赤黒く変色している。
撃たれたに違いない。背後の壁に血が飛び散っている。側に落ちていたショルダーバッグからは中身が乱雑に飛び出ていた。カーティスは彼女の手首をつかみ脈があることを確認し、スマートフォンを取り出した。
◆◆
「白昼堂々とは恐れ入るな」
ウィンブルドンにある小さなアパートの一室で、クライヴは死体を見下ろしていた。左右にわけた茶色い髪が前に垂れる。
死亡推定時刻は四日前の四月十四日十三時頃である。過去一週間で怪しい人物が出入りした情報もなく、犯人の行方は分からない。確実に言えるのは、この事件にバルタサール・ベネディクトが関わっているということだった。
「こいつも薬中か」
錠剤型のコカインを透明な袋に入れながら、ブレンドン・ラングフォードがつぶやいた。クライヴよりも身長が高く、体格もいい。角刈りの容姿も相まって不審者と間違われ、警察を呼ばれそうになったこともあったが、本人は真っ当な男だった。
彼が遺体の側を通って外に出ると、冷蔵庫を調べていたアーロン・フレミングは顔を引っ込め、扉を閉めた。調べ物をするのが特に好きで、難しいことほど熱中しやすい男だった。クライヴたち同僚をよく自宅に招いては、備え付けのワインセラーを振るっている。
「不審は物はとくになし。ああ、スコッチウイスキーがありましたね。グレンエルギンです」
「部下が酒が好きで持っていっちゃいましたなんて始末書は書きたくないからな」
クライヴは苦笑いしながら言った。
捜査が一区切りしたので、クライヴはバリケードテープを潜りアパートを出た。通りでは数名の警官が周囲を見張っている。現場から少し離れると、煙草を一本取り出して口に咥え、ライターで火をつけた。青空に吐いた煙が消えていく。ハイヒールの音を耳にして右を向くと、キャロルが近づいてきた。
「どうだったの」
「錠剤タイプのコカインは、ベネディクトがメキシコにいたときからよく捌いていたものだ。それに――仏には二発の銃痕があった。頭部と胸部にな」
錠剤のコカインと二発の銃弾はセットのようなものだった。二年ほど前から国内で麻薬に絡んだ事件が増加し、現場に死体が出ると必ず頭部と胸部に弾丸が撃ち込まれた跡があった。胸部の弾は心臓を的確に射抜かれている。
麻薬は許さない。必ず奴を法廷に引き出す。クライヴの意志は、昔から微塵も変わっていなかった。
「聞き込みはどうだった」
「全然ダメ。アパートを出入りしている人を見たって声はあったけど、特徴まで答えられる人はいなかった。意識してないと、さり気なく見た相手の服装なんて覚えてないよね」
「そうだな。四日前に警視庁付近で見かけた一般人のひとりがどんな柄の服装を着ていたかなんて、僕も覚えてない」
クライヴは苦々しく笑いながら言った。
ふたりして空を見上げた。重大組織犯罪局に勤め始めてからお互い九年。急速なグローバル化がもたらした人物、文化の融合は、長所と短所を浮き彫りにしている。さまざまな人が自由に生きられる社会が形成される一方で、価値観の違いによる人種や宗教間での衝突、外国人の犯罪、テロリズムが、世界中で噴出している。
「そういえば」
キャロルが言った。
「カーティスって、いつからあんな感じなの? いっしょにご飯食べたり、談笑してるときは普通なのに」
「実を言うと、僕もわからない」
彼女は眉をひそめると、
「高校時代からの親友なのに」
「少なくとも、イラク戦争が始まる前まではそんなことはなかった」
「イラク戦争ね」
二〇〇一年九月十一日。アメリカで、世界貿易センター、国防総省ペンタゴンを狙った同時多発テロ事件が発生した。核兵器を使ったソ連との
アメリカは、当時のフセイン政権率いるイラクを始め、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼称し、圧力を強めていった。挙句の果てにイラクが大量破壊兵器を保有していると発言すると、フランスやロシア、中国といったほかの常任理事国の反対を押し切り、イギリスなどの参加国と攻撃の準備を進めた。圧倒的な軍事力を誇る連合軍の前に、イラク軍は蹴散らされ、開戦から半年も経たずしてフセイン政権は崩壊。「イラクの自由作戦」は成功した。二〇〇三年のことだった。
「いつかは聞かないと」
クライヴはうなづいた。
「あいつを理解するのに必要なことだ。そのためなら、僕はよろこんで火中に飛び込む」
「みんなそう思ってるわ」
「チームなんだからね」とキャロルが最後に付け加えた。
アパートからドアが開かれる大きな音が訊こえた。クライヴが顔を向けると、ブレンドンとアーロンが外に出てきた。クライヴたちを見つけ、こちらに歩いてくる。
「どうだ」
ブレンドンは首を横に振った。
「薬莢はおろか、皮膚組織も髪の毛も落ちちゃいねえ。遺体の前にあった椅子には衣類の繊維が見つかったが、確認できただけで5つある。これじゃ手掛かりにはならないだろうな」
「……ご苦労だった。ひとまず、今日は解散――」
「クライヴ、あそこにいるのって」
キャロルが通りを挟んだ反対側を指さしながら言った。クライヴたちの視線が重なる。頭の禿げあがったスーツ姿の中年男性が、事件現場を見つめていた。スマートフォンをいじっているようだが、顔はアパートと画面を行ったり来たりしている。
「僕が話を聞きに行く。3人はここにいてくれ」
クライヴは年男性と距離を置いてから通りを横断した。本人を刺激しないよう、ギリギリまで目線を合わせず、一般人を装う。三メートルほどの距離に迫ると、クライヴは笑顔を浮かべた。足音に気付いた男が顔をこちらに向ける。ジャケットから警察手帳を取り出そうとしたクライヴを見ると、彼の表情が強張った。
クライヴは手帳を前にかざすと、
「重大組織犯罪局のクライヴ・エインズワース警部です」
「ああ、警察か。てっきり銃で脅されるのかと」
ジャケットから銃を取り出すと勘違いしたのか。
「いらぬ心配をさせたのなら申し訳ありません。さきほどからあのアパートを見ていらしたようですが、住人の方ですか」
「違うよ。ただ、あそこに友人が住んでるんだ」
「なるほど。失礼ですが、あなたとあなたの友人の名前をうかがっても」
「私はオスカー・エイベル。友人の名前は、アントン・コーベット。彼とは四年前に近くの酒場で知り合ったんだ。少し前に連絡を取ろうとしたんだが、携帯がつながらなくてね。心配になって自宅を尋ねようと思ったんだけど」
クライヴは開こうとした口をつぐんだ。しばし考えに耽ると、
「……コーベットさんは、亡くなられました」
男の顔が凍り付いた。
「亡くなった? そんな……まさか、じゃあ、あのテープが張られているのは」
「コーベットさんの遺体が発見されたためです」
エイベルは震える手でスマートフォンをポケットに押し込むと、青ざめた表情のままこちらを見た。目線が泳いでいた。
「ご友人の無念を晴らすためにも、捜査にご協力ください。最後にコーベットさんを見たのはいつですか?」
「……一週間前。彼とはニューマーケットでいっしょに競馬を観戦してた。ふたりとも運に見放されてたのか、清々しいくらい当たらなかったよ」
彼はそう言いつつ笑った。作り笑いだった。
カーティスが死体袋に入れられてイラクから帰って来たらと思うと、クライヴはその悲しみが理解できる気がした。
「本人にどこか変わったところは」
「顔色が悪かったことくらいかな。誰にでもあることだし、とくに気にしてなかったけどね。あと、競馬を見たあとに、近場のレストランで昼飯を食ったんだけど、アントンはあまり手を付けてなかったな。ダイエットするほど太ってるわけでもないのに」
コーベットが麻薬を常用していたことは知らないのかもしれない。エイベルに負担をかけないためにも、黙っておくべきだ。クライヴは口から出かかった言葉を飲み込んだ。
「ご協力、感謝します。ほかになにか不審に思った点がありましたら、警察に連絡を」
クライヴは礼を述べると引き返した。キャロルたちのもとへ戻ろうと振り返った寸簡、車が前を横切った。わずかに見えた車窓が、アパートを見つめながら茫然と立ち尽くすエイベルの姿を映した。
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