第一部 三
カーティスはケンジントン公園のベンチに腰かけていた。時刻は七時。週末ということもあってか、人はまばらだ。散歩好きな彼だが、雑多な都会を渡り歩くのはあまり好きではなかった。視界の隅では、朝日を受けて輝くピーターパン像が佇んでいる。耳をすますと、側を流れる川のせせらぎも聞こえてきた。
肌寒い空気が顔を刺す。カーティスは流れゆく雲を眺めながら、生まれ故郷である日本を思っていた。
カーティスは日本の神奈川県で生まれた。日本人の父、
地元の幼稚園に入れられたカーティスは、周りの子たちとすぐに仲良くなった。朝は父とともに元気よく「いってきます」と母に告げ、昼には幼稚園で友達と小さな園庭を元気に走り回り、服を泥まみれにして帰ってきては、夜は両親に挟まれてぐっすり眠った。自分という存在をつかめていない子どもたちは、なんでもあるがままに受け入れ、大人たちの言う通りになにかを得て、なにかを失った。人の笑顔を見るのが好きだったカーティスは、困っている友だちをよく助けた。その経験が、彼の正義感と優しさを育んだ。
小学校に入ってからだった。アイデンティティーの萌芽が見え隠れしていた子どもは、カーティスをほかとは違う目で見始めた。彼が自分たちと違うことに気が付き始めていた。顔の造形に、身体の骨格に、くっきりとした二重に。多様性を認めるには、みな幼かった。カーティスの回りには、幼稚園からの友だちしかいなかった。
「母さんの故郷をこの目で見たい」という、カーティスから出たひとつの言葉がイギリス行きを決めた。十二歳となった彼は、テレビやインターネットで世界を知っていくにつれ、母の故郷に行ってみたかったのである。疎外感を感じていた学校から逃げたいという思いもあった。
カーティスが生まれてから一度も帰国していなかったこと、そして
羽田空港を発ち、初めて目にする海外。降り立ったグラスゴー空港に、カーティスの心は弾んだ。歴史的な建築物は日本も多いが、数ではイギリスに及ばないと思った。遺産が点々とする日本に対し、イギリスは、国全体が歴史を継いでいた。
世界の自由主義を導いてきた国には、毎年多くの外国人が訪れる。中学校、高校では友人に恵まれた。日本人はもちろん、イギリス人にアメリカ人、インド人やエジプト人の友達もできた。その中にはクライヴもいた。イングランド生まれのロンドン育ち。立派な
ある日、隣の席だったクライヴが休み時間中に話しかけてきた。
「日本ってどんなところだった」
「よく言われてるけど、宗教に関してはすごく寛容だな。初詣、ハロウィン、クリスマス、いろいろ混ざって混沌としてた。楽しかったし、全然気にしなかったけど」
友だちとの付き合いで文化や価値観の違いを肌で感じ始めたカーティスは、世界に興味を持つようになった。世界中の歴史や情勢を学び取っていくうちに、いつしかイギリス人としての自覚を強く持つようになった。風にはためくユニオンジャックに敬意を抱き、「神よ女王を護り賜え」も覚えた。
生き生きとした毎日を過ごすカーティスを見て、泰とカミラはイギリスに永住することを決めた。
カーティスの家には、カミラの祖母であるアミーリアと、祖父のブライアンがいた。カーティスはブライアンに惹かれていた。と言うのも、彼はかつて、第二次世界大戦中に陸軍兵士として北アフリカ戦線にいたのだ。北アフリカでの戦いが終わると、今度は西部戦線へ送られたという。
当時のことを聞きたくてしょうがなかった。カーティスは、ブライアンが家にいるときはよく彼の話に耳を傾けていた。
「ドイツ軍は物量で連合国に劣っていた。だが、ロンメル将軍は、ドイツ軍の戦闘技術に加えて、気候や地形を利用して、我々を翻弄した。見事だった。我が軍の捕虜を丁重に扱っていたと知ったときは驚いたよ。報せを聞くまで、ドイツ軍はくそったれのケダモノばかりだと思っていた」
カーティスの目の前には英雄たちがいた。国籍や人種など関係なく、国家や家族、友人、恋人のために命を捧げ、戦い抜いた兵士たち。どんな資料よりもブライアンが語る話は貴重であり、カーティスの胸を打った。ロンメルがフランス侵攻でおこなった電撃戦、命令を無視して進撃したキレナイカ侵攻。その強者を破った我が国のモントゴメリー将軍のこと。北アフリカ戦線は、騎士道の残った稀有な戦場と言われていること。
祖父の影響を受けたカーティスは、自分の国の人々を守るため兵士になりたいと思うようになっていた。
「俺も爺ちゃんたちみたいになりたいな」
「なれるとも」
ブライアンはそう言った。
「本当に?」
「優しく、正しいことを為せる人になれ」
カーティスは面食らった。強くなるには、力や技術だけがあればいいわけではないのか。
「それより、爺ちゃんみたいな銃の名手になりたいよ」
「大事なのは心だ。技術は後回しでいい。仲間を思いやり、弱者の味方であり、卑怯な者たちの敵でいなさい。私が西部――」
「西部戦線で砲撃を受けて死にそうになったところを、味方に助けられた、だろ? だから仲間は大切にする」
「そうそう」
ブライアンは皺だらけの顔で笑うと、カーティスの頭を撫でた。
少し恥ずかしかった。それでも、かつて銃を握っていた無骨な手は力強く、心地いい。祖父の言葉はカーティスの糧となり、彼とこの世を繋ぎとめた。
カーティス・サカキバラは、このとき
祖父の言葉を受けた彼は、人一倍優しく、正義感が強い男になれるよう努めた。困っている人を助けるのはもちろんのこと、不当な暴力を振るう輩と戦った。高校ではちょっとしたヒーローになり、彼を快く思わないものも少なくなかったが、些細なことだった。頬や腕にできた痣は勲章であった。
イギリス陸軍への入隊を決めたのは、高校を卒業する二ヶ月前のことだった。泰は歓迎した。カミラは反対していたが、カーティスの強い願いを尊重し、やがて首を縦に振った。クライヴたちも彼の決断を称え、賞賛した。
「こいつを持っていけ。お前を守ってくれる」
カーティスが陸軍の入隊式へ向かう前日のことだった。棚から
ブライアンは、現在、妻のアミーリアとともにグラスゴー大聖堂の墓地で眠っている。
ポケットにスマートフォンを突っ込んだカーティスは立ち上がった。東へ向かう。高級ホテルのグロヴナーハウスが見えた。左へ曲がり少し歩くと、小さなパン屋に差し掛かった。「グロヴナーベーカリー」と、可愛らしいフォントで書かれた木製の看板が外に立てかけられている。二階建ての木造建築で、一階の窓からは棚に陳列されたパンが見える。カーティスはそっとドアを押した。真鍮のベルが渇いた音を立てる。後頭部だけを出してカウンターで作業していた若い女性がこちらを見た。
「おはよう」
「カーティスさん、おはようございます。まだ開店前だよ」
日本訛りの英語でカーティスを出迎えると、村上舞は微笑みながら軽く会釈した。黒髪のポニーテールがわずかに揺れる。イギリスに長期滞在している日本人で、パディントン地区に住んでいる。旅行が好きで、これまでも欧州各国を渡り歩いてきたらしい。彼女にとってイギリス、とくにロンドンは居心地がようで、グロヴナーベーカリーを気に入ってからは、就労ビザを取得し、アルバイトを始めた。二年前のことだ。彼女と知り合ったのも同じくらいだった。丸みを帯びた顔に、くっきりとした目が印象的で、きれいよりも可愛いという言葉が似合う。
「朝っぱらから年下の女の子を口説くなんて、あんたもずいぶん大胆だね」
カウンターの奥のドアが開き、店主のシンディーが顔を出した。舞とは打って変わって、しおれたレタスのような顔をしている彼女は、今年で六十八歳になる。年の割には背はしっかりと伸びており、真っ白になった頭髪は後ろでまとめられていた。一九六〇年、当時ロンドンに住んでいたブライアンによって建てられたこのパン屋に、シンディは友人として出資していた。ブライアンとアミーリアの訃報を訊いてからはここの店主を継いでいる。カーティスは毎週日曜日、お客様として足を運び、金を落としては、簡単なパトロールをするのが習慣になっていた。
「そんなつもりはないって」
「どうだかねえ。それはいいとして。今日も買っていくんだろう?」
「ああ」
「貧相な食卓に少しでも花を添えてやりな」
シンディーの言葉にムッとしたが、言い返せない。カーティスは料理が得意ではなかった。
「冷凍保存してもいいですけど、あまり買い込み過ぎないでくださいね」
舞が言った。
ここでパンを大量に買い込んで冷蔵庫に放り込み、少しずつ食うのはどうかと考えたこともあった。冷やして保存すること自体は大丈夫なようだが、グロヴナーベーカリーのパンは生産数が少ない代わりに防腐剤を使っていないの、保存可能な期間が短い。一ヶ月分買うとシンディーに冗談交じりで話したら、怒鳴られたのを思い出す。
「選ぶならとっとと選びな」
ドアが開いて一組の男女が入って来た。ふたりとも軽装だ。ケンジントン公園かハイド・パークでピクニックでもするのだろう。「いらっしゃいませ」と言いつつ頭を下げた舞に、ふたりは笑顔で答えた。日本流のおもてなしに驚かないのは常連だからか。
カーティスは入口付近に積まれていたトレイとトングを持つと、ふたりに続いた。パンの香ばしい臭いに吸い寄せられるように、トングで適当なパンをつかみながら、棚に沿って歩いていく。
「私が前に言ったこと、忘れたわけじゃないだろうね?」
舞の隣に立ったままのシンディーが言った。
カウンターに置かれたトレイには、パンが十個乗っている。朝に食う量としてはたしかに多かった。
「んなわけないだろ。一日で食べる」
舞が勘定を済ませ、パンを詰めた白いビニール袋をカーティスに差し出す。彼は受け取ると、店を出た。
最近はロンドンも物騒だ。いつどこでなにが起こるか、わかったもんじゃない。
ビニール袋を引っ提げながら、カーティスは周囲を歩き始めた。
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