第114話 再生
ジャンニが庁舎に顔を出すのが遅れたのは、農場で多くの時間を過ごしたからだ。
1週間前の晩、兵をすぐには動かせないと分かると、ジャンニは馬に飛び乗り、警吏を2人だけ連れて農場へ向かった。
ミケーレ・ランドは殴られた顔に冷たい布をあてていた。
工房でミケランジェロを発見し、素朴な農夫は仰天した。使っていない貯蔵庫に人が転がっていようとは思わなかったのだ。人を呼びに、慌てて彼は外へ出た。そこで待ち構えていたブルーノに拳を見舞われた。
最初に農場を訪ねた時に銃が壁にかかっているのを見て、ジャンニは物騒だと思ったものだった。誤作動で命を落とした話は多い。レンツォが引き金を引いた時も、あいにくそれが起こった。ぶつかった衝撃で歯輪が回転し、遅れて火を噴いたのだ。
ラーポが工房の外で聞いた破裂音はそれだった。
そこに古い貯蔵庫があるのを彼は知っていたが、あまり近づかないようにしていた。地下牢を思い出させるからだ。
*
「やあ、レオナルド」
かつて彫刻職人だった男は、ジャンニからその名前で呼ばれても驚かなかった。
「あなたは全てご存じだろうと思っていました。でも、どうして分かったんです?」
「あんたが描いた聖母子の素描だ。たまたま別の場所でも見かけてね」
丘に続く道だった。ブルーノに殺された作男の死体があったのもその辺りだが、暗いので正確な場所はもう定かでない。遠くに見える糸杉も薄紫色の空に沈んでいる。
ジャンニはアレッサンドラが昔の素描をとっておいた事まで言うのはやめておいた。レオナルドはしばらく黙り、納得したようにうなずいた。
「一度、あの施療院の前を通ったんです。石がまだあるのを見て、ふと続きを彫りたくなりました。ここに運ばせたらどうだろう、と。すぐに思い直しましたが。私はもうそのための道具を使えませんから」
「でも、あんたは菜園で、斧を使って扉を叩き壊したそうじゃないか」
「あの時は必死で、痛みも感じませんでした。八人委員会の尋問で体はだめになりました。もう、普通の男がする簡単な仕事もできませんよ」
本当にそう信じ込んでいるわけではなさそうだったので、ジャンニはそれについてはもう言わないことにした。
「どうして王水なんかを作ったんだ?」
「硝酸が不純な金を溶かし、純金は濃硝酸と濃塩酸の混合液にしか溶けないのは知っていました。親方の工房で、金の純度を検査するのを見ていましたから。思うように手が動かないと分かって、私は卑屈になっていたんです」
同業者と言いながらも、彼の工房には完成した作品は1つもなく、あるのは道具ばかりだったことにはジャンニも気づいていた。
「王水に金が溶ける様子には、奇妙な満足を覚えました。不思議でした。優越感とでも言えばいいのか。体が不自由になった自分が、力を取り戻したような気分になったんです。私は錬金術を研究しようと思いはじめました。ブルーノは気味悪がっていましたが」
「菜園で矢を射かけてきたのも、ブルーノだ」
「分かってます。私が頼んでやらせた、とあなたは思っているのではないですか。フィレンツェで事件が起きていると知って、もしやと思いました。ブルーノが夜中に地下室で何かやっていたのは知っていた。妙な音が聞こえてくる事もあった。そこで覗いてみたんです。あの器械があることはその時から知っていました」
ジャンニが駆けつけた時、全ては終わっていた。ブルーノは大人しく縛り上げられていた。
「話し合わなければ。そう思いました。リナルデスキ氏やあの葡萄酒運搬人を殺したのがブルーノだとはっきりしたら、あなたに言うつもりでした。本当です。でもその前にどうしても2人だけで話す必要があった。しかしその時間がなかったんです」
「あんたはすぐに知らせるべきだったよ」
「その通りです。そうすればあなたの徒弟をもっと早く見つけられた。ライモンド・ロットが命を落とすこともなかったかもしれない」
とはいえ、銃声を聞いて真っ先に駆けつけ、ブルーノを止めたのは彼なのだ。
鉛の弾丸はレンツォの脇腹をかすめた。まともにあたっていたら命はなかった。農場でしてやれる手当ては何もなかったので、同行した警吏がフィレンツェに戻り、外科医を叩き起こして連れて来た。
銃弾で裂傷を負い、さらに肋骨を2本折っていたものの、レンツォはブルーノを自分でフィレンツェに連行すると言い出し、翌朝に到着した警吏隊と危うく喧嘩するところだった。外科医によれば、ミケランジェロの方がよほど重傷だった。
警察長官の調べにより、ライモンド・ロットが襲われた1時間ほど後、ブルーノがピンティ門を通っていたらしいことが判明した。農夫は血だらけのミケランジェロにマントを被せて、酔った仲間を介抱するかのように支えて歩き、きちんと2人分の通行税を払っていた。門衛に渡した銅貨は、いずれも溶けて変形していた。
そのミケランジェロも数日後には工房に戻ってきた。
*
公爵はマウリツィオ・ランフレディの拘束を命じた。
両手を縛られたマウリツィオを、兵が連行して行った。ヴァレンシア人のベルナは集落に潜んでいるところを捕らえられ、バスティアーノの殺害をすでに拷問の末に自白している。
呆然とした顔のピエロが館から出てきた。見物人の中にジャンニを見つけると、彼は近づいてきた。憎まれ口でも叩くかと思ったが、評議員は疲れた声で短く尋ねただけだった。
「君には息子がいるかね?」
「いいや、息子はいない」
「そうか。なら、ろくでなしの倅を持った父親の気持ちは分かるまいな」
それ以上は何も言わず、ピエロは肩をいからせて兵の後を追って行った。
*
それから1カ月が経った頃、サン・ニコーラ施療院の取り壊しが始まった。残っていた孤児は別のもっと大きな施設へ行き、病人はサンタ・マリア・ノヴェッラ教会付属の施療院に移された。
取り壊しのために人が入って行くのを見て、ジャンニは中庭をのぞいてみた。
あの大理石の塊がなくなっていた。
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