第104話 日暮れ

 赤ん坊を膝に乗せた女の絵。描いたのは、ジャンニが言うにはサン・ドメニコの農場にいるあの男だ。8年前に殺人犯の濡れ衣を着せられた男と、彼は同一人物の可能性があるらしい。


 レンツォにはどうもぴんと来なかった。


 農場には、古い素描の紙が確かにあった。聖母と幼児が描かれていたのも覚えている。しかしそれが目の前にあるこの絵と同一だったかというと、自信がない。似ていると言えば似ているし、違うような気もする。

 この手の図像を熱心に観察したことはないので、はっきり言って全部同じに見える。



 *



 警察長官庁舎へ連行され、地下牢に入れられた後、倒れ込んで気絶するように眠った。目が覚めたのは、錠前が回る音を聞いた時だ。


 ジャンニ・モレッリが足を引きずりながら入ってきた。


 地下牢が不快な場所なのは知っているが、話を聞くのと実際に自分がぶち込まれるのとでは違う。ジャンニは空気をふんふんと嗅いだ。


「これを臭いと言ってるようじゃまだまだ青いぞ。女子修道院の肥溜め、ありゃこんなもんじゃなかった。お前さんも頭から突っ込む機会があるかもしれないから今のうちに慣れとけ」


〈黒獅子〉亭の主人はやっぱり手紙を隠してたよ、とジャンニは言った。頭ががんがんするし体も痛い。目の前で喋りまくられて迷惑なのだが、そんなことには無頓着にジャンニは一部始終を語っている。マウリツィオも逮捕されるだろうと聞いても、今は別に嬉しくなかった。


「ヤコポが死んでいたのは、確か月曜日だったよな。同じ日の早朝、エネア・リナルデスキが自分の家から姿を消してるんだ。息子のフェデリーコ坊やによると、彼はそれから2日間行方知れずだった」


 死体が発見された状況は知っている。その場にいたからだ。天井から逆さ吊りにされた亡骸を見たし、犯人と思われる男が通路を走って逃げていくのも見た。ジャンニの推測が正しければ、あれはラーポだったということになる。


「次の日、おれとミケランジェロが菜園で見た男もだ。彼は機械弓でフェデリーコを殺そうとし、おれたちにも矢を向けてきた」


「だけど、殺すつもりだったなら、どうしてその後で助けたりしたんだ」


「そう、分からないのはそれだ。ラーポは扉を壊し、ミケランジェロと一緒にフェデリーコも引っ張り出した。あれが彼だったとすると、確かにつじつまが合わないんだ。けど、気になることがある。あの時、ラーポは手に火傷を負ってた。おれはてっきり、火事が原因だと思ってた。ところがその後、彼は菜園に来る前すでに火傷してたことが分かった」


 だったら八人委員会に行けばいいのに、ジャンニはこんなところで何をやっているのか。


「サンタ・フェリチタ修道院のノフリオ修道士に会いに行く、とラーポは言ってた。さっきその修道士に話を聞いてきたよ。ラーポは彼に火傷の薬を所望したそうだ。薬品が手にかかったから軟膏が欲しいとね。ある種の液体は皮膚につくと火傷みたいに痕が残る。だったらわざわざフィレンツェに来たのも分かる。あの農場にはそういう薬はないだろう」


 ラーポの工房に怪しげな小瓶が並んでいたのは覚えている。彼の手に火傷があり、死体と一緒に見つかった銅貨や指輪にも薬品による腐食があったということは……


「もう1つ分かったことがある。あの硝酸や何やらの瓶、彼はどこで手に入れたんだろうと思って、旧市場で探りを入れてみた。すると、その手の物を扱ってる物売りがフィエゾレからフィレンツェに戻る途中、農園に立ち寄り、濃硝酸と濃塩酸の瓶を売った覚えがあると言うんだ。話を聞くと、買ったのはどうもラーポだったらしい。お前さんには話してなかったけど、エネアの指輪は純度の高い金で出来ている。溶かすにはこの2つを混ぜて作る特別な液が必要なんだ」


「で、どうするんだ。逮捕させるのか」


「その件でお前さんに頼みたくてさ。いっちょサン・ドメニコへ行って、彼に伝えてほしいんだ。おれが話をしたがってるって。できれば工房に連れてきてほしいんだけど」


「いっちょ行って……」


 何を考えているのか理解できず、レンツォは返答に迷った。彫金師は自分の片膝をさすりながら、あの相手を威嚇するような満面の笑みを浮かべている。


「ちょっと待て。連れてきてほしいって何だよ? それはあんたや八人委員会がやることだろ」


「まだ彼が下手人と決まったわけじゃない。ラーポは確かに、昔フィレンツェにいたと言ってた。けど、ヴォルテッラの牢にいたとは一言も言ってなかったんだ」


「そりゃそうだ、投獄されてたなんて誰にも言いたくないだろ」


「この事件に彼がどう関わってるのか、知る必要がある。それをしないでライオンの餌みたいに八人委員会に投げ与えたくない。ラーポが本当に3人を――大聖堂で死んだ警吏を入れれば4人を殺したのか、確かめなけりゃならない」


「そうだったらどうするつもりだ。あんたが裁きを下すのか?」

「人を裁けるのは神だけだ。おれはただの金細工師だよ」

「なら八人委員会に報告して警吏隊を派遣させろ。裁判官に戻ったんだろ?」

「冷たいなあ。この老いぼれを日暮れにサン・ドメニコまで行かせようってのかい?」


 この老いぼれは夜中にもっと遠いトレッビオの城に行くと言い出して看守を困惑させたそうだが、そんなことはきれいさっぱり忘れているらしい。


「おれは逮捕されてここにいるんだ。許可がなけりゃ出られない」

「そうだ、言い忘れてた。お前さんはもうここにいなくていい」


 ジャンニは丸まった1枚の紙を取り出した。


 フィレンツェ公爵の署名がある書状だった。レンツォ・ディ・ジュスティーノを収監しておく必要はなくなったので釈放するようにと述べられている。コジモがわざわざこんなものを書いたなんて信じられなかった。偽造ではないかと疑ったほどだ。後で分かったが、それは確かに公爵直筆の証文だった。


「おれが正しかったらいくつか頼みを聞いてくれ、ってコジモに言ったんだよ。なに、あの坊やはマウリツィオをどう吊すか考えるのに忙しくて、お前さんの処罰なんかに構っちゃいられない。鳩が豆鉄砲を食ったような顔してないで、さっさと出ろ。じゃないと日が暮れちまう」

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