第72話 服に血をつけた男

 ジャンニは工房に戻った。誰もいなかった。向かいの居酒屋の主人が客と立ち話をしている。


「やあ、ジャンニ。今日はあの新入りのぼうずがいないじゃないか。もう逃げ出したのか?」


「分からん。それより、昨日の晩に怪我人が見つかったって話は聞いてないかい?」


「いや、聞いてないが、どうしてだ?」


「うちの徒弟は逃げ出したんじゃなく、ひょっとしたらどっかで倒れてるんじゃないかと思ってね」


 2人は怪訝な顔をした。妙なことを言うもんだ、と思ったようだ。

「思い過ごしだ。今ごろはそのへんで遊び呆けてるよ」


 徒弟が姿を消しても、ジャンニはあまり気にしなかった。数日で辞めてしまうやつは時々いる。行方をくらまして戻って来ないこともある。


 だが、ライモンド・ロットの家で起きた騒ぎを聞いたあとだ。ミケランジェロが姿を現さないのは逃げ出したからだとは思えない。


「そういや、服に血をつけた男がいたって話を聞いたよ」


 と、客の1人が言った。


「どこでだ? いつ?」


「昨日の夕方だ。カルミネ広場の近くにある畑だそうだ。けど、どうもあんたの徒弟じゃなさそうだ。25歳くらいに見える若い男だったらしい」


「ミケランジェロはせいぜい16だ。それに、夕方ならまだおれと一緒に警察長官庁舎の記録保管庫にいたよ。違うな、それはうちの徒弟じゃない」


 椅子を持ってきて座ろうとし、ジャンニはと止まった。


「待てよ、今、何て言った? カルミネ広場のそばだって?」

「サンタ・マリア・イン・ヴェルザイア修道院の裏手だよ」


 ジャンニはその場所を思い浮かべた。レオーネ通りの骨董屋の店から歩いてすぐの場所ではないだろうか。


 だとすると、その血だらけの男というのはレンツォか、逃げたままで行方の分からないベルナというスペイン人だった可能性がある。


「そういや、昨日、あの辺りで事件があったって話を聞いたぞ。旧市場の警吏とスペイン人のごろつきが骨董屋で死んでるのが見つかったんだよな。その近くじゃないか?」



 *



 ジャンニは修道院の向かいにある安食堂を訪ねた。厨房から男が出てきた。熱気と、ドブのような悪臭をまとわりつかせている。ねずみでも煮ているのだろうか?


「ジャンニ・モレッリってもんだ。昨日、不審な男があんたの畑にいたそうだけど」

「そうだ」

「どんなやつだった? スペイン人か?」

「いいや、フィレンツェ人だ。うちの畑に勝手に入り、ふらふら歩いてぶっ倒れたあと熱を出した。いろんなうわごとを言ってたよ、バスティアーノのために医者を呼べとか、短剣のこととか、意味のないことを色々」

「今どこにいる?」

「あんた、知り合いなら損害を全額払ってもらうからな」

「彼が何か面倒でも起こしたのか?」

「面倒だと? 奴は畑の柵をなぎ倒し、キャベツをめちゃくちゃにして苗を踏み荒らしてったんだぞ」

「ここにはもういないってことか? どこへ行った?」

「知るもんか。叩き出してやろうと思ってのぞいたら、いなくなってた」


 数人の客が会話に聞き耳を立てていた。


 ジャンニは食堂を出た。


 店にいた男の1人が追いかけてきた。肌の浅黒い、ブラバント人の男だった。

「話を買わないか?」


「何か知ってるのかい?」


「あんた、ジャンニだろ。八人委員会に選ばれた彫金師の。2日前、おれが経営してる宿に旧市場のお巡りがきて、ある男を捜してると言った。うちの宿に泊まってた、ベルナって名前のならず者をね。

 昨日、そのベルナがレオーネ通りの骨董屋で殺しをやって逃げたあと、ちょっとした噂を耳に挟んだんだ。ほんとは彼に売りたいんだが、あんたにとっても面白いと話だと思うぜ」


 ジャンニは懐から小銭を掴み出した。1ソルドほどが男の手の中に消えた。


「昨日の騒ぎが起こる少し前、ベルナを見た奴がいる。別のごろつきのビッチと一緒にカルミネ教会の向かいの家から出てきて、レオーネ通りの方へ歩いていったらしい。2人とも服の下に武器を隠してるのは一目瞭然だったそうだ」


「カルミネ教会の向かい? ランフレディ家で働いてたっていう婆さんの家か?」


「そうだ。しょっちゅうあの家に出入りしてるらしい。女を連れ込んで馬鹿騒ぎしてたって話もある」


 娼婦のリッピーナが、その家でマウリツィオともう1人の男の相手をしたという話を思い出した。とすると彼女が見たもう1人の男とはダミアーノではなく、ベルナだったのだろうか。


 それよりも重要なことがある。マウリツィオの家から出てきた武装した男というのが本当にベルナとビッチだったなら……


 ジャンニは腕組みをして考え込んだ。

 

 マウリツィオもあの事件に関わっていたということだろうか?


「もう顔を見なくて済むと思ってたけど、こりゃラプッチの野郎に教えてやったほうがよさそうだな」


 とはいえ、ジャンニ・モレッリはもう裁判官をクビになったのだ。ならばこのまま黙って胸にしまっておくというのも心惹かれる考えではあった。

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