第62話 ヴィート老人

 ジャンニは家の外に出た。閉まった戸の向こうから声が聞こえた。



――ふん、役人どもめ。どうせ金目当てにおれたちを強請るつもりだろうが。



「まあ、こんなふうに嫌われるのも分かるよ。おれだって、お前さん方のことを袖の下に目がない禿鷹連中としか思ってなかったもの――この行政職につくまでは。でも、ヤコポにどんな手紙が届いてたかはちょっと興味があった」



 *



 通常は日暮れの鐘と共に閉ざされるピンティ門は、まだ開いていた。


 だが、通ろうとすると門衛は夜間の通行税を要求した。開いている門から出るのに税がかかるなんて聞いたことがない、とジャンニは反論した。

 押し問答をしても無駄だった。ジャンニは2人分の通行税をしぶしぶ払い、帳簿に記名した。


 脇の小屋で驢馬と角灯を借りた。詰め所の兵は、夜間料金を上乗せしてきた。


「あの連中は、人殺しのヴァレンシア人みたいな奴らを通す時は逆に金をもらうに違いないぜ」


 ジャンニは驢馬にまたがり、ガブリエッロに向かって怒りをぶちまけた。



 *



 ヴィートなる男は市壁から少し離れた掘っ立て小屋にいた。


 60歳を少し過ぎているであろう老人だ。黄ばんだ肌着によれよれのズボンという格好で、たるんだ腹肉の重量を蟹股の短い脚が支えている。

 両手には、いつでも相手に向けて撃てる角度で長銃が一丁握られている。


「なんだ、あんたがたは? そっちの酒臭いのはお巡りか?」


 そろそろ、ここらで「温かく迎えられる」という待遇に預かってもよさそうなものだとジャンニは思った。


「おれもフィレンツェの警察に関係がある身でね。八人委員会なんだ」


「ふん、じゃあ懲りてないんだな。このあいだ役人どもが来て、うちの家財はもう公爵閣下の所有物になったなんて抜かしやがるもんだから脳天に一発お見舞いしてやったのに。今度は金玉を引っこ抜いてもらいたいのか?」


 老人の吐く息も酒の臭いがした。長い髭にはゴミがからまっている。


 家の中にも外にも、差押える価値のありそうな家財は見あたらない。が、ジャンニはくたびれて、老人の思い違いに冗談で返す気力もなかった。

 雨に濡れた頭のてっぺんを袖で拭いた。


「おれは公爵の役人じゃない。何にも没収しようなんざ思っちゃいないよ。ちょっと尋ねたいだけだ。あんた、昔トレッビオの城にいたんだろう?」


「それがどうした?」


「ピエトロという葡萄酒運搬人があそこで死んだ。覚えてるかい?」


「なんだって八人委員会がそんなことを聞きに来た? もうずいぶん昔だぜ」


「事件で証言したヤコポって男が死んだ。その件で気になることがある」


「あんた、ほんとに八人委員会から来たんだろうな?」


 老人は訝しげにジャンニを眺めまわしていた。身なりが自分と同じくらい汚れてみすぼらしいことに、ようやく気づいたらしい。ジャンニは前の晩に大聖堂の丸天井の中を這い回ってから、まだ服を替えていなかった。


「あいにくながら。でなけりゃ、こんなとこには来ないよ。まるで家畜小屋だぜ」

「まあ、確かにそうだ」


 老人はにやにや笑い、銃口を少し下げた。


「ジャンニ・モレッリっていったな、何をやってるんだ?」

「彫金師だ。工房はキアッソ・デル・ブーコにある」

「ほう、あの路地にゃ〈ブーコ〉っていう安宿があるだろう。主は元気か?」

「元気だ。いまだにかみさんを孕ませてるよ。つきあってくれる気があるのかないのか、どっちなんだい、ヴィートさん」


 老人は脇へどき、銃を振って小屋の中を示した。

「入りな」


「申し訳ないんだが、ここでゆっくりしてる暇はないんだ。今からトレッビオの城へ行くから一緒に来てほしい」


「は?」


「おれが気になったのは、ヤコポが下手人の顔を見たってとこだ。事件があったのは夜だ、なのに、なぜ、彼は下手人がレオナルドだと断言できたんだ、辺りは暗かったのに。それを確かめようにも、もうヤコポはいない。あんたはあの場所をよく知ってるそうだから、力になってくれるとありがたいんだが」


「そんなの確かめるまでもないさ。だが、そんなことを知ってどうするんだ。つきあったらおれにどんな見返りがある?」


「見返りなんか、肥溜めにでも落ちろ!」


 ジャンニは布をくしゃくしゃにして地面に投げつけた。


「徒弟の盗みにも気づかない馬鹿な金細工師を裁判官なんかに選んだ野郎は呪われろってんだ。最初から大人しく公爵閣下のルビーでも磨いてりゃよかったよ。機械弓で狙われるし、豚の丸焼きになりかけたし、おまけに明日はリッチョの野郎がおれを縛り首にしにやってくる。そうだな、ヴィートさん、あんたは正しい。何の得があるか、もうちょっと考えるべきだった。ヤコポがなぜ死んだかなんておれには関係ないし、知っても何にもならないのにな」


 ジャンニの肩を、老人が後ろから掴んだ。振り向くと、ヴィートは嬉しそうな顔をしていた。


「つまり真実を知りたいってことか? トレッビオのことがでっち上げで、奴らが嘘つきだって分かってるから来たんだな?」


 ジャンニは口ごもり、まあ、そうだと答えた。それはジャンニが予想したのとは別の、思ってもみなかった方向だったが。


 ヴィート老人は戸を大きく開け放ち、銃を振った。


「さあ、入った、入った。おれはあんたのような人間を待ってた。この話ができる日が来るのをずっと待ってたんだよ」

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