第63話 革表紙の本

 フェデリーコは熱を出していた。矢は深く刺さってはいなかったが、一度は臨終の告解のために司祭が呼ばれる事態になったらしい。


 ミケランジェロは自分が危機を回避したのを神に感謝し、すぐに恥ずかしく思った。フェデリーコはまだ苦しんでいるじゃないか。彼が生き延びるよう祈るべきなのに。


 見舞いの言葉を述べ、館を辞した。通りを左へ進めば、ライモンド・ロットの館はすぐそこだ。


 下図を描くことを親方には許してもらえなかった。


 構うものか。


 描き溜めた図案をアレッサンドラに見せたい気持ちと、掻き立てられた自負心とを抑えきれなかった。


 もしかしたら、彼女は母親の宝飾品の手直しを親方ではなく、僕に依頼するかもしれない。あの生意気なリージを出し抜いてやれる。



 *



 ところが、館に着くと、女主人は気分が優れないので休んでいると小間使いに告げられた。


 ミケランジェロは落胆した。

「分かった。ここへ来るよう言われてたんだけど、今夜は遠慮しよう。お大事になさるよう伝えてくれ」


 帰ろうとしてためらい、懐から素描の束を取り出した。

「具合が良くなったら、これを渡してほしい。奥方がご所望の宝飾品の下図なんだ」


 小間使いは少し待つように言い、下図を持って立ち去った。しばらくすると彼女はまた階段を降りてきた。


「お会いになるそうです」



 *



 アレッサンドラは炉のそばにいた。

 柔らかそうな深紅の椅子に腰を降ろし、しどけない姿でくつろいでいる。読書をしていたのか、革表紙の本を伏せて太腿の上に乗せていた。今は素描を1枚ずつ見ては膝に置いているところだった。


 彼女は微笑みかけてきた。

「ようこそいらっしゃいました、お若い彫金師の方」


 ミケランジェロはまともに顔を上げられなかった。


 いつもはきちんと結ってある髪がほどかれ、肩や胸に散っている。寝所から羽織ってきたのか、ゆったりした絹の化粧着をかけているが、とうてい体の輪郭を隠す役には立っていない。

 盗み見るように、ミケランジェロはちらりと目だけを上げ、女がまとっている布地がごく薄いことを知った。


 黙っていると、女はからかうような目でじっと彼を見て、どの図案もとても気に入った、と言った。


「身に余る光栄でございます、奥様」


 アレッサンドラは笑った。


 飲み物が運ばれてきた。どういうわけか、館には女主人と小間使いの他は誰もいないようだった。何か話をしてほしいと促され、ミケランジェロは午後にエネア・リナルデスキの菜園でおかしな男に狙撃され、危うく死ぬところだった顛末を語った。

 

 女は目を丸くして聞き入った。ミケランジェロは嬉しかった。自分が、アレッサンドラのような貴婦人の関心を引いているのだということが。


 次の酒が運ばれてくると、女は膝の上の本を手に取り、解釈を求めてきた。


 ダンテの『神曲』だった。


 サン・ニコーラ施療院で孤児に読み書きを教えていたのだから、このくらいの教養はあって当たり前だろう。


 ちょうど地獄篇第5歌の頁が開かれていた。



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 恋の炎は、我ら二人を一つの死に導いた。

 カイーナは待つ、我ら二人の命消した者を。

 これらの言葉が二人から投げられた。

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 よく見るために、ミケランジェロは椅子を引っぱって近づいた。気づくと、アレッサンドラのなめらかな頬がすぐ目の前にあった。


 ライモンド・ロットが酔って口走った言葉を思い出した。



 性悪しき亡霊が地獄の業風に吹かれる……



 はっと身を退こうとした。その手を女が掴んだ。アレッサンドラは目を見つめ、詩人はここで、この歌で何を伝えようとしているのかと尋ねた。ミケランジェロは腕を掴まれたまま、震えながら答えた。


「ここで唄われているパオロとフランチェスカは、淫欲に溺れました。2人は確かに、か、か、姦通を……犯しました。ですが、地獄に堕ちなければならないのは、あまりにも酷です……詩人は、恋人たちの末路に胸を痛めているのだと思います」


 火に照らされた女の唇が動いて、よく分かったと呟いた。つややかな唇。彼は目が離せなくなっていた。すると、それがふっと目の前から消えた。


「宝飾品をお見せする約束でしたわね。こちらへいらして」


 隣室は支柱つきの寝台がある寝所だった。炉には火が入れられ、背の高い燭台も柔らかな光を投げかけている。


 アレッサンドラは彼の手をとったまま歩み入った。床に2つの影が躍った。女は蝋燭に息を吹きかけて消した。


 中央にある寝台は少し前まで誰かが寝ていたように敷布が乱れ、上掛けが折り返されていた。脱いだばかりに見える絹の肌着が無造作に置いてある。室内は芳しい花の香りがしたが、振りまかれた香油なのか、はたまた女の息なのか、もうミケランジェロには分からなくなっていた。


 女は立ち止まり、彼の頬に片手を這わせた。


「宝石はあとにしましょうか」


 そして自分から寝台に腰を降ろし、首が露わになるように後ろを向いて片手で髪をかきあげた。


「ほどいて下さいな」


 ミケランジェロは1歩近づいた。背中を締めている細い紐を震える手で引っぱる。女が息を吐き出した。


 街のどこかにいるであろう彼女の夫のことなど、ミケランジェロの頭からは消えていた。

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