第46話 宮殿での再会(1)
ミケランジェロは槍を持った兵に囲まれて歩いた。仕事用の前掛けをつけ、手にはペンを持ったままだ。
懐には前の晩に寝ないで描いた素描の束が入っている。
菜園での散々な数時間のあと、ミケランジェロは工房に戻った。宝飾品の図案の続きをやるつもりだった。
ジャンニ親方の頭からはきれいさっぱり消えているに違いないが、ライモンド・ロットの妻が古い宝飾品の手直しを希望したことをミケランジェロは忘れていなかった。
アレッサンドラの、あの
前の晩、寝床でそれを考えはじめ、ついに起き出してペンを取った。朝までに描き上げた素描は指輪や首飾り、髪飾りなど合わせて20点以上になった。あとはアレッサンドラの母親の宝飾品にどの程度の石がついているかによる。
女は宝石に特別なこだわりをもっている。母親の形見の品なら、それを生かしたいと思うのは当然だろう。
燃えるようなルビーだろうか、それともあの瞳に映えるであろう淡い緑のエメラルド?
*
だが、続きに取りかかることはできなかった。
昼過ぎには常連客が集まり、大聖堂に死体が吊り下げられた騒ぎについて話しはじめたからだ。
1人は神への冒涜だと言った。
悪徳に染まったフィレンツェに神が下した罰だ、と嘆く人もいた。
もう1人の客は東の空に彗星を見たと言い、この騒ぎも天変地異の前触れだと主張した。
各々が自説を述べ、どう思うかとミケランジェロにもたずねた。議論はいつまでも終わりそうになかった。彼らはジャンニの意見も聞きたがったが、親方が姿を現さないので喋りながらどこかへ行ってしまった。
入れ替わるように押しかけてきたのが、メディチ家の紋章をつけた十数名の兵士だったのだ。
*
公爵の宮殿は、路地を抜ければすぐ目の前だ。宮殿とは言っても、狭間胸壁を備えた外観はいかめしい。
中に入ると、汚れた前掛けをつけた中年の男が近づいてきた。ミケランジェロは緊張した。
「ジャンニ・モレッリの徒弟ってのはあんたか?」
牢に入れられるのだ。恐怖が心臓をわしづかみにした。
「はい」
「おれはジャンニ親方がくるって聞いたんだけどね。どうして徒弟のあんたがきたんだ?」
「あの、それが、ぼくもよく分かりません」
「公爵閣下は、あんたが彼の徒弟なら工房を見物していってもいいと仰せだ。ついてきな」
男のあとについて、ミケランジェロは3階にあがった。
*
そこが工房だった。
粘土の雛形や浮き彫り彫刻、大理石の塊が並び、床には平鑿や穿穴具を突っ込んだ壺が置かれてある。
絵入りの衣装箱の前に細工師が座り、金箔を磨いていた。
2人の職人が得意げに説明してくれた。
彼らは宮廷工芸家であり、パトロンたる公爵から依頼された仕事に取り組んでいるのだと。
公爵閣下は彫金師のジャンニ・モレッリも召し抱えているが、ジャンニはなにかと言い訳しては逃げている。腕はフィレンツェで並ぶ者がないというのに、なんとも残念な話だ。
そうだろうか?
ジャンニの工房に入ってしばらくたつが、ミケランジェロは親方が仕事しているところをまだ見たことがなかった。名を知られた工匠と聞いていたが、期待したのとは別の意味だったのかもしれない。仕事はほったらかしだし、工房を経営していることすら忘れているように見える。
*
ひととおり見物したあとは館の中を歩き回った。
大広間があった。1人の男が足早に歩いていく。禿げ頭に小さい帽子をのせた男はアレッサンドラの夫、ライモンド・ロットだ。
なぜか分からないが、身を隠さなければいけない気がした。ミケランジェロはとっさに壁に身を寄せた。
話し声。
会話の相手は公爵だ。熱心に話しかける法律顧問に顔も向けず、あまり興味をそそられていないのは見ればわかる。話の内容は聞きとれない。
耳をそばだてようとした。後ろから誰かが来る気配があった。驚いて振り向く前に、聞き覚えのある柔らかい声がかけられた。
「おや、まあ、彫金師のかた。こんなところで奇遇ですわね」
ミケランジェロは飛びあがり、声の相手に向かって腰を折った。
「再びお目にかかれて光栄でございます、奥様」
アレッサンドラだった。大きく微笑んでいる顔には、夫が口汚くジャンニを罵ったことを後ろめたく思っているふしは伺えない。ミケランジェロは、かえってそれを嬉しく思った。
「大仰な挨拶は不要だと言ったはずですよ、お若い彫金師のかた」
「奥様の美しさを前にして、この身がひとりでに跪いてしまうのです。どうかお許しを」
2人は同時に笑った。明るい光のもとでも、アレッサンドラの美貌は変わらなかった。街で彼女に色目をつかってライモンド・ロットに斬りかかられたという騎兵の話は、まんざら嘘でもないのだろう。
彼女の目には、どことなく男に問いかけるような光がある――
あなたはわたしをどうしたいの? と。
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