第29話 指輪(2)

「ここの状況を説明できる者は?」


 短い金髪の男が歩いてきた。ヤコポの死体が見つかったとき、ジャンニを捜しにきた旧市場の警吏だった。バスティアーノというらしい。


 埃まみれの顔で、彼はラプッチに向きなおった。声は緊張し、うわずっている。


「あの死体は天井から縄で吊られてるんです。頂上を調べましたが、縄は修繕用に組まれた足場の木材に結びつけられています。内部の階段を登り、縛って落としたのだと思います」


「下手人は取り押さえたのだろうな?」


「逃げられました。もともと、別件の容疑者を捕らえるためにここへきたんです。そいつを追って通路へ入ったところ、暗がりから妙な男が飛び出してきて――」


「妙な男だって? 取り逃がしたかと思えば、次は作り話か」

 八人委員会の兵が言った。こちらはリッポという名前だった。バスティアーノは言葉少なで、腹を立てているように見えた。

「何度も言ってるように、作り話じゃない」


「それについては警察長官にも報告したまえ。今は一刻も早くを降ろすのが先だ」


 リッポが前に進み出た。姿勢を伸ばし、おもねるような笑みを浮かべていた。

「閣下、私が思うに、梯子じゃ届きません。近くの建設現場で使われている起重機なら、あれを降ろすのに最適かと」


「なるほど、起重機ならばあの高さに届く」

 大司教が同意し、起重機を運ばせるよう指示した。


 ラプッチがうなずいて先をうながした。

「いい思いつきだ。それで、通路というのはどこにある?」


「あそこです、閣下」


 ラプッチは通路を覗き、すぐに出てきた。大枚をはたいて仕立てさせたのが一目瞭然の黒い外衣を着たまま、埃だらけの階段を登る気は毛頭ないらしい。


「全く由々しきことだ。書記官殿、このような冒涜行為を働いた不届き者を突き止めていただきたい。そのための協力なら惜しまないつもりだ」


「すぐに公爵に報告する。これは神聖冒涜であると同時に、君主の権威に対する挑戦行為だ。厳罰をもって処されなければならないだろう。通路を出入りした者を調べれば、この恥知らずの愚か者を突き止めるのに時間はかからないと思う。ここを通った可能性がある者の名前を一覧にして提出していただけるだろうか。できれば明日の朝……」


「そのことなんだけどね、やんごとなき旦那がた」


 ジャンニが横から口をはさんだ。


「石工連中が出入りするのはここじゃない。使われてるのは南側の通路だけで、こっちは封鎖されていたらしいんだ。ところが、今は鍵がかかってない。どういうことなのか調べたほうがいいと思うんだけどね」


 ラプッチは煩わしそうに手をふり、ジャンニを黙らせようとした。が、大司教はもっともだと思ったようだ。

「念のため確認したほうがいいのではないかね」


 死体を降ろそうとしていた司祭の1人が連れてこられた。司祭は恐縮し、石工に頼まれて通路を開けた、と説明した。


「修繕に使う器械の部品を取り替えるとのことでしたので、鍵を開けてやりました。そのあと騒ぎがあったので閉めるのをすっかり忘れていたんです」


「気が済んだかね、金細工師殿。分かったら口を挟むのを控えていただきたい。この件は重大さにおいて君の手に余る。そろそろ家に帰って本来の職務に精を出したらどうかと……」


 ジャンニは聞いていなかった。司祭にたずねた。

「そいつがきたのはいつだ?」

「確か、18時の頃です」


 ジャンニは北側の扉から外を覗いた。

 

 薄暗がりに荷車が横づけされていた。さっきも見たが、まだ同じ場所にあった。

 どこにでもある古い四輪の荷車だ。汚れた粗布が敷いてある。


「器械の部品? どんなものだ?」

「よくわかりません。何か大きなものを背負っていたということしか……」

「大きなもの?」

「ええ、粗布の包みです。縄で縛ってありました」

「いいかげんにしないか! 石工の道具などに意味はない。ジャンニ、この件に君の助力は必要ない。もう一度だけ言う。ここから出て行きたまえ」


 ジャンニはラプッチの外衣の襟をつかんで強く引っぱった。


「いいか、どあほう。18時にここにきたやつは石工じゃない。その時間、連中はとっくに引きあげてた。おれの親父も石工だったが、作業は17時には終わることになってるんだよ。威張り散らす暇があったら頭を使って考えたらどうなんだい」


 ラプッチはよろめいて後ずさった。顔が真っ青になり、次いで、真っ赤になった。あまりの憤りに唇が震えはじめた。

「この職人風情が、なんたる無礼な……」


 ようやくそれだけ口にしたときは、ジャンニはもう背中を向けて司祭に話しかけていた。

「どんなやつだった? 顔を覚えてるか?」


「頭巾を目深にかぶってたので、はっきりとは見えなかったんです。修道士みたいな長衣をまとっていたのですよ。荷物を背負い、荒縄の束を肩にかけていました」


 ごわごわした素材の衣服を、バスティアーノが持ってきた。ずだ袋のような形の僧衣で、頭巾がついている。

「おれたちが見たのもそいつだ、ジャンニ。やつはこれを脱ぎ捨てて逃げたんだ」


 死体を見あげ、司祭が蒼ざめた。

「あの縄と荷物は……まさか……?」


 木材に結びつけられているという縄は、軋みながら揺れている。ジャンニは巨人の握り拳のような結び目を見つめ、修道服姿の男が頑丈な手でそれを結んでいるところを思い浮かべた。


 部下らしい男が急ぎ足で書記官に近づき、何事か耳打ちした。ラプッチが顔色を変えた。押し殺した声で大司教と話しはじめる。何かが判明したのだろう。ジャンニは耳を澄ませた。


 見物人がひそひそ話す声が伝わってきた。


 死体は、フィレンツェ市内に住む、エネア・リナルデスキという名前の裕福な貿易商人とのことだった。

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