第30話 火影

 泉にしがみついて、冷たい水で顔を洗った。


 コッラードがあの男に立ち向かおうとしたのかどうかわからない。突進してくる修道服を見て、泡を食ったことだろう。つかまえろなんて叫ぶべきじゃなかった。

 あの新入りに止められるはずもないのはわかっていたのに。


 若い警吏は大聖堂から運び出され、数時間後に死んだ。


 家に帰ってひとりで怒りと向かいあう勇気がなかった。


 ラウラとの約束を思い出したのは深夜だった。言うべきことをなにも考えられないまま、真っ暗で埃っぽい階段をあがった。


 ややあって、ラウラが扉をあけた。


「行けなくてすまなかった。大聖堂で騒ぎがあったんだ」


 女は驚いた顔で凝視している。レンツォは自分の格好を見おろした。血だらけだ。コッラードを助け起こしたときについたらしい。


 部屋はこぢんまりしていた。家具調度は少なく、小さなテーブルと椅子があるほかは、洗い場のくぼみに数枚の皿と大きさの不揃いな器、布類が並べられているだけだ。

 女は後ろを向いて扉を閉めた。が、閂はかけなかった。警戒しているようだ。


「どうして家に入れる気になった? おれに愛想よくしたって、八人委員会は便宜なんかはかっちゃくれないのに」

「そんなもの、あてにしてない。八人委員会なんか行かなければよかった。だって、訴えたって無駄だから。ただの娼婦扱いされるだけ」


 ラウラは窓際の小さい蝋燭から角灯に炎を移した。燃えさしは芯がつぶれていたが、しばらく傾けると、勢いよく燃えはじめた。


「近所の女も、わたしを淫売だと思って近づいてくる男どもも、みんな地獄へ行けばいい」



 *



 下で扉の音が響いた。

 続いて聞こえてきた大声に、ラウラの顔がこわばった。


「おい、おれだ。いるんだろ? このあま、返事をしやがれ」


 赤い布の帽子をかぶった男が入ってきた。背負った袋の口から直角に折れたリュートの上部が突き出している。


「なんの用?」

「つれないこと言うなよ、おまえ」


 少なくとも3カ月は髭の手入れをしていないように見えた。おぼつかない足取りで進むごとに、ぶらさげた酒瓶がゆらゆら揺れる。


「よう、おまえ、ピエロ・ランフレディのせがれをたらし込んだんだってな。そのうえ強姦で訴えたって? やるじゃねえか。どうせおまえから誘ったんだろ? 脅して金をふんだくる魂胆なら、おれも混ぜてくれねえかなと思ってな」

「黙ってよ、下衆野郎」

「その言いかたはなんだよ。このあいだやった金はどうした? おれが市場で買った肉は? 山うずらは?」

 焦点のさだまらない目がレンツォを見た。

「また別の男をつくったのか?」


 ラウラが肩越しに振り返って見つめてきた。目にはなんの感情もなかった。むしろ出て行ってほしいと言いたげだった。


「おい、あんた、気をつけたほうがいいぜ。この女は淫売で、悪知恵が働くんだからな。おまえみたいな女は身の程を思い知らせてやる。さあ、くるんだ」


 男が腕をつかんでラウラを部屋の奥へ引きずっていった。


 屈辱で頭にかっと血がのぼった。いきなり視界が狭くなった。自分の足が床を蹴る音は聞こえなかった。すべてが耳の奥の高音にかき消されていた。


 気づいたときには男につかみかかり、両手で首を絞めていた。


 ラウラが悲鳴をあげている。

「やめて!」


 リュート弾きの顔は真っ赤になり、破裂しそうだった。手を放した。立ちあがった瞬間にめまいがした。

 他の住人が顔を出して、階段の上から見おろしていた。男は通路の床に転がって激しく咳き込んでいる。


「出て行け。にどと戻ってくるな」


 ラウラが扉を閉めようとしている。その戸をつかんで、体をねじ込んだ。ここで閉め出されるのはごめんだ。女を振り向かせて、強引に唇を重ねた。ラウラは後ろにさがって壁にぶつかったが、抵抗しなかった。


 部屋の奥に寝所があった。手をとって連れていくと、ラウラは自分から敷布に腰を降ろし、足をふって靴を脱ぎ去った。自分だけ服をつけているのはずるいとでも言いたげに、彼女の手が伸びてくる。剣をはずして胴衣の前をはずすのに手間取っていると焦れたようにまさぐりだした。たまらなくなって残りの留め具を引きちぎるようにして取り、肌着も脱ぎ捨てて、ひといきに女の中に入った。寝台が激しく軋むのもかまわず、汗まみれでひとつになったまま動いた。

 その瞬間を少しでも先延ばしにするために、壁に貼られた小さな聖母子の銅版画に意識を集めた。女は悦びのうねりをつかもうとするように腰を押しつけてくる。そのうちに痺れるような感覚が背中を駆けあがった。彼女の頭を手で支え、叫びながら果てた。ラウラが首に両手をからみつかせてきた。


 息を弾ませて抱きあっていると、耳慣れない響きが遠くから聞こえてきた。どこかの教会の真夜中の鐘。


「なにか食わないか?」

「なんて人なの!」


 ラウラは跳ね起きて怒ったように叫んだ。それでも笑いながら、肉を煮たのが入った鍋を持ってきた。それをふたりでつまみ、汁までたいらげてからまた睦みあった。



 *



 室内は居心地がよく、小さな蝋燭があたりを柔らかく照らしていた。寝所は薄い布地で他の部分とへだてられている。布に織り込まれた葉とあざみの花の模様は、炎がまたたくたびに仄暗い赤や黄色に染まる。


 ラウラは孤児だった。施設にいるのは育ての母親らしい。70歳に手が届こうという老女で、近ごろは誰を見ても自分の息子に見えるらしく、そう思い込んで話しかける。幼くして死んだのに。


 レンツォはあの酔ったリュート弾きや、金をもらったとはどういうことか知りたかった。亭主が死んだというのに、どうやって生活しているのかわからなかった。娼婦だというのはほんとうなのか。聞けなかった。代わりに自分の話をした。旧市場の宿でどんなふうに賭博が行われていたかを話したが、掛け金を没収して懐に入れたことと、牢獄でルカをぶちのめしたことは黙っていた。

 庁舎の押収品保管庫から金になりそうな物品を頻繁に持ち出し、こっそり骨董屋に売っていることも。


 それから自分の生い立ちを話した。父親のジュスティーノは海に出てあちこちに女をつくり、ギリシアのヴォロス出身の歌手を妻にした。その後、ラグーサ(※)で貸し船業をはじめ、失敗し、フィレンツェに戻って失意のまま死んだ。居酒屋〈XANTOクサント〉は叔父との共同経営だが、父親が死んだあと、レンツォと母親、今はフィレンツェにいない兄は冷遇され、経営から遠ざけられている。


 話すうちに、とろとろと眠くなった。まぶたを閉じた。

 血まみれのコッラードが目の前に現れた。


「大聖堂に引っぱっていかなければ、コッラードはまだ生きていた。八人委員会を出し抜くことにおれがこだわりさえしなければ、やつはまだ生きていた」


 いったん口を開くと、言葉は奔流のようにあふれてきた。


「男は逃げた。絶対にさがす。見つけ出してやる」


 下手人は修理にきている石工のひとりだ、と兵が噂していたのを思い出した。あの僧服姿は石工には見えなかったが。疲れ果て、目を閉じた。今度はなにも見えなかった。

 低い声で引き戻された。


「さがす必要はないわ」


 意識を半分だけ保って、聞き返した。


「どうして?」

「やったのはあいつだから」

「あいつ?」

「そう、あいつ」

「誰?」


 ラウラは起きあがった。が、答えない。


「どうした? あいつって誰だ」

「ピエロ・ランフレディの息子」


 誰のことを言っているのか。ようやく思い出した。ピエロ・ランフレディの息子・・・・・・ラウラを強姦したという男か?


「なぜそう思うんだ」

「知ってるからよ」

「ラウラ、なにを知ってる?」

「あいつが殺したの。大聖堂でなにがあったか、あなたも見てきたんでしょう」


 体から眠気が吹き飛んだ。


「死体のことか? あの、吊された男を殺したのがやつなのか」

「ええ」

「まちがいないか?」


 ラウラは自分の指の爪を観察している。


「まちがいないわ」

「いつ知った?」

「そう言ってたから。なんとかっていう人を殺して、いっそ大聖堂から吊してやりたいって。じゃあ、あいつはその通りにしたのね」

「誰を殺すと言ったんだ」

「そこまでは聞こえなかった」

「どうして黙ってた?」


 人影は大柄だった。マウリツィオ・ランフレディも長身だ。遊び人で、人生をどう転んでも修道服など着そうにない男だが、体格はぴったりあう。


「あいつはけだものよ」


 炎がはぜた。燃えている金糸のような髪がかかり、ラウラの顔は見えなかった。


「あいつを殺して」





〈第1部 1545年9月7日 了〉


※現クロアチア共和国のドゥブロヴニク。

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