覚書《リコルディ》~フィレンツェ宝飾職人の事件簿~

橋本圭以

第1部 最初の死体

第1話 あの男の目的

 エネア・リナルデスキは天井からぶらさがっていた。額から汗がにじみ、顎を伝わる。両手首は縄で縛られている。


 なぜこんなことになったのか。


 朦朧とする頭をしぼり、彼は考えようとしている。


 菜園にいたはずだった。祖父が近くの修道院から買いあげた土地だ。丹念に手入れさせ、花が咲けば広間や窓辺に飾った。この愛すべき庭を見るのが毎日の楽しみだった。

 納屋に入ろうとする。

 鍵を忘れてきてしまったことに気づく。

 書斎の机に置き去りだ――いつもの箱に入れたままにちがいない。うっかりしていた。昨晩は少し飲み過ぎたな。


 苦笑し、引き返そうとした。そこへ突然、目の前に立ち塞がった男に顔を殴られた。


 夜道で強盗にあったという人の話が頭に浮かんだ。しゃべれるよう、顔をあげた。


「金か? 金がほしいのか? あんたの好きなだけあげよう。どんな契約書でも書く!」


 丸めた布を口に詰め込まれ、体を抱えあげられた。


 次に気がついたときには、狭い一室にいた。暗がりに目を凝らすと、大型の装置があった。土台に横棒が張り渡され、縄が巻きつけられている。天井の滑車から、縄が垂れている。


 ――裁判官を務めていた頃に見た拷問道具とよく似ている……


 起きあがろうとした。拳が顔に飛んできた。


 天井からぶら下がる、別の若い男が脳裏に甦ったのはそのときだ。8年前、彼が拷問に立ち会った囚人だった。教養を感じさせる話しぶりで、落ちついた声で容疑を否定し続けていた。


 度重なる拷問で痛めつけられると、人間の体はぼろきれのようになる。


 エネアはその記憶を心の底に押し込め、忘れようとつとめた。苦悶に歪む男の顔はしだいにぼやけ、遠くなった。ついぞ消えることはなく、ときおり夢に現れて冷たい汗をかかせることはしたが。


 これは報いなのだろうか? いや、そんなはずはない。


 8年といえば、忘れるに充分な時間だといえる。しかしエネアは忘れなかった。


 あの男が無実だとわかっていたから。


 1537年の冬だった。


 リナルデスキ商会は有数の大企業だ。祖父の時代は小さな織物会社だったが、今では地中海沿岸はおろか内陸にも拠点を置く一大国際貿易会社であり、支店はイタリアの主要都市はもちろん、海を越えてコンスタンティノープルやラグーサ、北は遙かロンドンにまで及ぶ。


 妻との間に息子が3人生まれた。時期がきたら息子らに事業をまかせ、自分は隠居してもよい。死や遺産の分配については常々考えている。が、こんな場所で死の恐怖に脅える日がくるとは予想だにしていなかった。


「あの男」の目的は、財産ではない。


 エネアの人差し指にはまだ指輪がはまっている。オリエント産の純金製で、金めあてなら、とうに奪われているような品だ。なのに今も右手の人差し指にはまっている。


 金ではないのなら、何が目的なのか。


 

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