第5話
彼女の生物学上の母親である佐奈は、海上都市に三つのエステサロンを構える社長だった。離婚の原因も、社会に出て自分の可能性を試してみたい彼女の生き方と、子供である怜奈の面倒と中心に見て欲しいという一平の思いとの相違からだった。離婚からほどなくして、佐奈はエステサロンを開業して、小さいながらも三つのチェーン店を経営するにまで至った。そういう独立心が旺盛な女だった。
佐奈の自宅は、海上都市の中心街にほど近い、高層マンションだった。怜奈がやって来る第一土曜日の前夜に急いで部屋を片付けた後が毎回窺える、少し散らかった場所だった。
「忙しいのはわかるけど」と、怜奈。
リビングの食卓には、雑誌と朝飲んだであろう飲みかけのコーヒー。その隣には、口が開きっぱなしのコーヒー豆がある。
「うるさく言うほどでもないでしょう」
佐奈は飲みかけのコーヒーが入っているカップに口をつける。冷めていてもお構いなしだった。
「不味くないの?」
「不味いよ」
いわるゆ正反対の二人だった。見た目は良く似ていても、思考回路は全く逆といえるほどだったかもしれない。これが親子として離れることなく過ごしていたら、怜奈も独立心と好奇心旺盛な母親、佐奈の性格を受け継いでいたかもしれない。
「だったら飲まなくちゃいいのに」
四十七階の部屋だった。泥棒の心配はないので窓は開きっぱなしである。海と空がその窓の先には限界なく続いていた。
「もったいないじゃない」
一平は女性に女性らしさを求める、そういう人だった。だったらどうして佐奈と結婚をしたのだろうか、とは思うが、それが人生の面白いとこであり謎でもある。
怜奈はそんな一平と育ったからか、見かけ上は非常に従順そうに見えるし、実際話してみてもそれに近い印象を相手に与えることが多い。「このまま捨てるのも」
だが佐奈とこうして月に一回会うことで、そんな一平の思いとは逆の方向性にいる自分の姿にも気づいていた。彼女は佐奈とは正反対の性格とはいえ、それは意識的なものであり、つまり内なる本当の声を押し殺す、そういう犠牲の上に立っている自分を最近ではもどかしく思うこともある。
二人は会っても最近では特に何をする、という訳でもない。小さな頃は、近所の海底水族館や動物園、映画館などに毎回のように行ったか、歳を重ねるにつれて段々とその機会は減っていった。代わりに増えたのは、ショッピングと、どうでも良いような会話をあれこれする時間だが、思春期、そして成人していく過程にあった怜奈にとって、同性の先輩である佐奈とのそういった過ごし方は非常に有益なものだった。特に恋愛において。
「目玉焼きでいい?」
キッチンに立つのは、怜奈だった。月に一回程度しか使われていないことがわかるような美しいキッチンだった。
「なんでも」
料理の出来ない母親のために、怜奈は自慢の腕を揮う。「あれ? 卵あったっけ?」
怜奈は冷蔵庫を開く。卵が並んでいた。
「お父さんはどうなの?」
カウンターに肘をつきながら、身を乗り出してキッチンに立つ怜奈を佐奈は見る。
「変わらないよ」
「女の気配は?」
「全然」
「昔はもてたんだけどね」
「ママに?」
「あたし以外にも、よ」
「あ、そう」
温めたフライパンに油を垂らすと、香ばしい音がした。だがまだその鉄板の上には何も乗っていない。卵を割り、黄身が落ちると、さらにその音は大きくなる。
「ママは? 良い人はいないの?」
「三人くらい、いるよ」
「相変わらずだね」
「独身だから。あんたは?」
「実は昨日ね――」
タイミングを見計らって、フライパンに蓋をした。
「お、恋の予感?」
父の一平とは絶対に話せない内容だったし、もし佐奈が未だに家に居ても話せなかっただろう。離婚して家を出て、紙の上では一番近い他人のような存在だからこそこういった話も出来た。
「うん」
「聞かせて、聞かせて」
「これ出来たらね」と、怜奈。
「もったいぶるなよー」
「いいじゃない」
「もー。まあいいや、オレンジジュース取って」
怜奈は冷蔵庫を開くとコップと一緒に出したオレンジジュースを生物学上の母親に渡した。
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