第2話

恋人の名前は、市ノ瀬新太郎といった。彼女の通っている大学の同級生だった。だが年齢は新太郎のほうが三つ上だった。彼はどういう訳か三年も留年をしているのである。一見すると身体の線は細そうに見えるが、実は柔道が強い。大学に入ってから辞めてはいたが、高校時代は全国大会に出るほどの実力者だった。

 三年も留年するだけあって、許す心というか、寛容性には非常に優れている。自分を許すように、相手を許し認める。そういう優しさに良く似た甘さを兼ね備えていた。

 二十二歳になったばかりの怜奈には、三歳年上のそんな新太郎の存在が頼もしく見えた。この頃の女性というのは年上というだけで、男の価値を大きく見積もってしまうもので、彼女もまたそんなありがちな過ちを犯した一人だった。

 怜奈と新太郎が出会ったのは、彼女が三年次にたまたま取った二十世紀のニホン史に関する講義だった。そこに新太郎がアシスタントとして参加していた。

 すぐに意気投合といったわけじゃない。二人が恋人としての二人になるまで四月にその講義が始まり、予定通り十回のプログラムを終えて、さらにそれから三週間の時間の経過を待たなくてはならなかった。季節は秋で、前夜に強い雨が降った日だった。

 怜奈と新太郎は、偶然入った怜奈の地元の喫茶店で再会する。怜奈が普段は利用しないが、ずっと気になっていた喫茶店だった。小さな頃からそこにあり、この歳になるまで一度も利用がしたことがない店。

 平日、講義のない木曜の昼下がり、冷蔵庫を空けたら何もなかったことがきっかけだった。どこかへ軽く食べに行こうか、と考えたとき、思いついたのがそのメアリという名の喫茶店だった。店の前には埃の被ったパスタとパフェの模造品が置いてある古風な店だった。主流の立体映像なども店頭になく、ただの電工看板が置いてあるだけ。少し不安にもなるが、何となく冒険したい昼下がりだった。

 自動ドアを潜ると、客が一人だけいた。異国のボードゲームをノートにメモを取りながら没頭しているその男が新太郎だった。

 珍しい客の来店に、新太郎は一瞬だけ視線を上げて姿を確認しようとする。もちろん怜奈も一人しかいない客の姿を本能的に確認しようとした。だから二人の視線が重なった。

二人とも、時計の秒針が動き出すのを感じ、それが長針、短針と少しずつ大きな単位の時間を動かす予兆だと感じた。お互い知らない仲ではない。

 最初は牽制し会うように挨拶をして、お互い連れがいないことがわかると、影の輪郭を交わらせるようにじれったい会話を始めた。すぐにテーブルの上にあった異国のボードゲームはお役御免となった。

 そうやって話していくうちに、怜奈の実家と新太郎の実家が意外に近所だということがわかる。それを知ると、二人は一気に心の距離を縮めていく。お互い、初めての恋愛じゃなかった。決してうまい訳じゃないが、予感に身体を委ねる術は知っている。

 そのうち、前夜の強い雨を思い起こさせるような雨が降ってきて、予定外の足止めを二人は食らう。だが嬉しい誤算でもあった。

 雨は二人に時間を作った。その時間で二人は、お互いを試すような質問を幾つかこなして、連絡先も交換した。偶然の出逢いに、予定外の雨。ロマンチックだと思ったのはお互い様だったし、恋の予感を確信に変えるには充分なシチュエーションだった。

 三回留年している事実でさえも、彼のキュートな一面と思わせるのに充分な力を持っていた。

「何か良いことでもあったのか?」

 その日、家に帰り、夕食を父親と食べていると父親の一平に尋ねられるほど、彼女はその奇蹟を楽しんでいた。

「ううん。なんでも」

 まさか男と知り合ったなどと、自分を一人で育ててくれた父親には言えない。

「そっか」

 一平はテレビジョンに映る野球を観ていた。火星のチャンピョンチームと地球のチャンピョンチームの試合だった。地球のチャンピョンチームは、遠くアメリカ東海岸のボストンにあるチームだった。ニホンのチームでないので、熱狂度はそれほど高くはないが、高校球児であった一平からしたらこの太陽系シリーズは欠かせないイベントの一つに変わりない。

「火星がやっぱり強いな」

「しょうがないわよ」

「しょうがないことないさ。小さな差だよ。一昨年は地球が勝ったんだし」

「三十年ぶりでしょ」

「まあな」

 食卓に並ぶコロッケとメンチカツが減っていく。

「今日はやけに食うな」

「別に」

「やっぱ何かあったのか?」

「だから何もないって」

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