烈の旗の下に ――A7M2空戦記――

中岡潤一郎

第1話

 声をかけられて、菅野直かんのなおし大尉は振り向いた。

 第二種軍装の士官が青い顔で歩み寄ってきた。頬の肉は落ちていて、目の輝きにも力がない。

 額の皺は深く、一気に十歳も年を取ったかのようだ。

「どうしました、少佐。夏風邪ですか」


 菅野の軽口にも、士官は笑わなかった。暗い表情で彼の前に立つと、低い声で語りかけてきた。

「行くのか」

「当然です。敵が来ていて、迎え撃つ機体がある。ならば、地面に這いつくばって空を見あげている理由はないでしょう。私は戦闘機乗りですから」

「帰って来られないかもしれないぞ」

「かまいません。むしろ、こうして生きていることが信じられません。本当だったら半月、いや、もっと前にグラマンに叩き落とされて死んでいたのですから」


 菅野は頬を撫でる。

 整った顔と人には言われるが、正直なところよくわからない。あまり関心がないし、事実だとしても戦闘機乗りにはさして影響のないことだ。


「今日は天気もいい。空の彼方に行くにはふさわしい日ですよ」

 夏の空は果てしなく青く、世界の彼方まで広がっている。陽光は力強く、飛行服を着ていることもあって、じっとといるだけで身体が焼けてしまいそうだ。

 吹きぬける風も、さながらストーブであぶられているかのように熱い。

 まさか、厚木の暑さを体験することになるとは思わなかった。


 菅野が、海兵を卒業して戦局が悪化する南洋に出たのがおととしのことで、以後、彼は苦しい局面での戦いを余儀なくされていた。

 パラオでは米軍の四発爆撃機を相手に死闘を繰り広げたし、フィリピンでは米陸軍機との戦いに明け暮れた。

 B-24の垂直尾翼に自分の主翼を引っかけて撃墜したこともあるし、双発の九六式陸攻で移動中、P-38に追いかけられて、自らの操縦桿を取って脱出したこともある。

 松山の三四三空では、新型の紫電改で敵を落としたものの、こちらも撃墜されてしまい、落下傘降下で危うく命を落としかけた。

 敵にも、そして味方にも怨まれており、いつ死んでもおかしくなかった。まさか昭和二〇年八月十二日の厚木飛行場に立っているとは考えもしなかった。


 菅野はなおも語りかけた。

「どうしたんですか、少佐。いやに弱気じゃないですか。昨日までとは別人だ」


 濁った瞳で菅野を見ていたのは、海軍航空技術廠飛行実験部員の小福田租こくふだみつぎ少佐だった。菅野の大先輩であり、海軍航空のエリート街道を突っ走ってきたパイロットだ。


 空母加賀や龍驤で経験を積み、その後、空技廠の飛行実験部に所属して、新型機の開発に携わってきた。優秀なテストパイロットであり、小福田の評価が戦闘機の性能を左右したとも言われる。

 一時は空技廠から離れて横須賀で飛行教官を務めてきたが、最後までやり遂げたい仕事があると申し出て六月に空技廠に戻った。


 七月以降は厚木で、技術者とともに新型機の開発にいそしんできた。

 精魂傾けた結果がようやく実を結ぶという時に、思いのほか弱気だ。

 なんとなく理由に察しはつくが、菅野はあえて一押しした。


「何かありましたか?」


 小福田は視線をそらした。濃い影が舗装された大地に伸びる。

 口を開くまでは、わずかながら時を要した。


「東京が慌ただしい。終戦に向けて本格的に動いているようだ。ここ二、三日で結果が出るだろう」

「そうですか。負けましたか」

「まだ終わっていない! 我々はまだ戦える……」

「やめましょうよ、小福田さん。この状況じゃ、どうやったって勝ち目はありません。特攻で海軍の将兵を全員殺したところで、何も変わりはしませんよ」


 もはや日本の空は日本人のものではなく、B-29は我が物顔で、町や工場を焼いている。東京、大坂、名古屋、横浜といった大都市はもちろん、静岡や岡山、青森といった地方の町も餌食となっている。

 先日には、広島と長崎に新型爆弾が投下された。町がすべて消し飛び、多くの犠牲者が出たと言う。

 空母部隊のグラマン戦闘機が跳梁し、逃げ惑う民に機銃掃射をかけるような現状で、いったい何ができるというのか。


 戦力の温存? 馬鹿馬鹿しい。

 ほんのわずかな飛行機を残して、何を守るつもりなのか。

 決まっている。

 小さな誇りだ。海軍は、自分を守るために、特攻を強い、戦力をかき集め、阿呆な本土決戦のために備えている。


「無駄死にをすることはないんだぞ」

 小福田は、菅野と視線をあわせなかった。その手は強く握られている。

「貴様は、先々の日本に必要な男だ。生きていれば、新しい未来をつかむこともできよう。いや、つかまなければならない。大和魂を語り継ぐことができるのは、我々は戦場を知る軍人だけだ」

「遠慮しておきます。俺の同期はとっくに向こうに逝ってしまいました。悔いは残したくないんですよ」


 菅野は視線を転じた。

 その先には、濃緑のレシプロ戦闘機が待っている。


 大きい。


 全幅は一四メートル、全長も一一メートルに達する。零戦より二回りは大きく、天山艦攻にも匹敵する。とても艦上戦闘機とは思えない。


 だが、ひとたび空に舞いあがれば、これまでの日本機にはないスピードと、華麗な旋回性能で、グラマンと互角以上に戦うことができる。


 待ち望んだ新型戦闘機。烈風一一型である。


 零戦の後継機として開発がはじまったものの、開発方針の食い違いや発動機のトラブルで戦力化は遅れて、いまだ実戦の空で飛んだことはない。

 一時は開発中止になりかけたが、三菱の工場が爆撃をうまく免れたこともあり、四月以降、開発が急ピッチで進んだ。


 菅野が開発を手伝うように命じられたのは、四月半ばのことだった。激戦がつづく中、横須賀に異動して新型機のテストをおこなうように命じられた。

 最前線を離れるのは心苦しかったが、司令官の源田実大佐に説得されて、菅野は横須賀に赴いた。


 その後は、小福田や技術者とともに烈風の開発を進める毎日だった。

 新型のハ43エンジンはいまだトラブルを抱えているものの、懸命の努力でようやく実戦で使うことのできる水準まで仕上がった。

 機体も細かい改修を行ない、突然、横滑りする癖は消え去った。

 驚くほど扱いやすくなっており、零戦の後継と呼ぶにふさわしい機体だ。

 開発は最終段階に達し、あとは実戦の空へ飛び出すだけだ。

 ならば、乗らずにはいられようか。


 菅野は、終戦という現実を目の前にひどく心が醒める一方で、子供のように興奮していることにも気づいていた。

 自分はやはり戦闘機乗りなのだ。


「じゃ、行きますよ」

 菅野は烈風に足を向けたが、わずかに進んだところで足を止めて振り向いた。

「もし生きて帰るようなことがあれば、一杯、おごってください。その時、烈風がどれだけ素晴らしい戦闘機であるか話をしますよ」

「今から行っても間に合わんかもしれんぞ。敵は相模湾上空だ。そろそろ第一陣が接触する」

「大丈夫ですよ。あいつは速いんでね。ぱっと追いついて、グラマンを叩き落としてくれますよ」

 菅野は右手を振ると、烈風に向かった。その足取りにためらいはなかった。


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