Epizodo 18
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『ミセスに、頼みたい事がある』
ジュヌヴィエーヴの中心街を歩きながら、ミセスはエスペロの言葉を何度も何度も――何度も反芻させていた。
「……」
頬が僅かに上気している。
アンヌの市長邸から帰り道。エスペロから離れ、ミセスは一人歩いていた。足先が向く方は、往路で話に挙がった奴隷の露天商。
ミセスの接近に気付いた奴隷商人は、鼻下をだらしなく伸ばして歓迎した。
「これはこれは、お美しいお嬢サマ。本日は、どのようなモノをお探しで?」
「……」
両膝を地面に付け、両手を忙しなく揉み合わせ――奴隷商人の男はミセスを舐め回す様で見上げる。長身の腰を態々折って。
その仕草を見、ミセスは顔を顰めた。
「それ以上近付かないで下さい。汚らわしい」
「これはこれは、申し訳ございません」
男は頭を下げ、そのまま器用に後退する。そして再び顔を上げ「して、ご用件は?」と相も変わらず媚びた笑顔を張り付ける。
「この奴隷を貰います」
簡易的な木枠で囲まれた檻。その中には、一人の少女。ボリスが〝客引き〟と称した美の容貌に恵まれた――美少女。
白い肌は、月光を映し出す鏡。宵闇の空を編み込んだ黒髪。そして未だ、満月の蕾を思わせる華奢な体躯。
己の手で育て上げる――男の欲望を十二分に満たす素材の少女。
その少女を、ミセスは指差した。
「おやおや、流石お嬢サマ。お目が高い」
一番目立つ場所に置いて〝お目が高い〟と言われ、ミセスの顰め面に皺が増えた。
「しかしコチラの商品、既に予約されている方がいらっしゃいまして」
「そんなの関係ありません。我が主が、これを所望です」
『あの娘を助けたい』と、エスペロは言った。
『いや〝助けたい〟っていうのは大袈裟か。ヒトの流儀に合わせるなら、あの娘が欲しい』
『……、私達だけでは不満ですか?』
『不満? 何が?』
『……、いえ。話の腰を折ってしまって、申し訳ございません』
『いや、構わないよ。ただ、これから必要になるかもしれないってだけの話だ』
『……、〝必要〟ですか』
『ああ。いや、その前に確認したい』
『……、はい。何なりと』
『私達の中に――今隠れ家に住んでいる魔族の中に、ヒトの世界で暮らした経験を持つ者はいるか?』
『……、いえ。多少の接触はありますが、暮らした者はおりません』
『そうか。だったら、やっぱり欲しい』
『……、分かりました。それで、私への〝お願い〟というのは』
『ああ。私はヒトの流儀を知らない。モノが欲しければ力で勝ち取れ、といった考え方は無駄な余波を生む』
勇者と戦っていた頃は良かったが、と話を続ける。
『これからこの街で暮らす以上、余計な問題は起こしたくない。平和的に解決できれば、それが一番良い』
しかし、とエスペロは恥ずかしそうに頬を指で掻いた。
『言った通り、私はヒトの流儀を知らない。その点、ミセスなら心配ないだろう?』
『……、何故……そう思われるのですか?』
『それこそミセスが選ばれた理由だろう? それに、私は君を信頼している。懐かしい匂いに、頼ってしまうんだ』
頼む――と、それ以降の言葉はミセスの耳に届かなかった。
「へへっ、そう仰られても。……幾らほど出せます? 額によっては、お嬢サマにお譲りしない事もないんですがね」
「……ああ。あの〝お金〟ですか」
「へへへっ。まあ、こっちも商売なもので」
「では、これで」
ミセスは懐から太った布袋を取り出し、傍の木机に中身を――文字通り、ぶちまけた。
「お、おおぉ……」
金貨が机に転がる様を、男は惚けた目で追いかける。
「これで全部です。文句はありませんね」
山と成った金貨は、奴隷商の隣で露天を広げる商人の男達の目も丸くさせた。
「さ、流石お嬢サマ」
男は惚けていた表情に再び媚び顔を浮かべ、今まで以上に揉み手を繰り返す。
「しかし、予約されている方の提示金額には今一歩及ばないようでして」
この〝嘘〟が、男の破滅を呼んだ。
そもそも、最初から〝予約している客〟も存在しない。値段を釣り上げる方便。交渉の主導権を握る為の布石。
そして今、カモがネギを二本も三本も背負って現れた。そしてミセスの金貨の扱い方を見、男は〝金に頓着しない客だ〟と考えた。
搾り取れる。そう確信した。
しかし、
「そう」
ミセスは、男の予想と反して素直に金貨を袋に戻し始めた。
「お、お嬢サマ?」
「私はミドゥではありませんので、確信は持てませんが」
「……はぁ?」
「やはり人間。信用できませんね」
「あ、あの――「〝黙りなさい〟」とミセスの言葉が凛と空気を打った。
「……っ……、……っ」
男は必死に口を動かす。しかし、唇が魚を真似るだけで何も音を出さない。
「最初から、こうしていれば良かったですね」
声の自由を奪われた男は、その目に涙を滲ませながらミセスを見る。
ミセスは、瑞々しい唇を大きく開き――赤く熟れた舌を出した。その舌には、一対の赫い小さな翼が生えている。
「……――っっ、……っ」
目の前に立つ少女が人間ではない。男が気付いた時には既に遅く、躰が見えない糸で縛られてしまっていた。
「〝貴方こそ、私の奴隷。そうですね。返事をしなさい〟」
舌先だけ動かし、ミセスは言葉を紡ぐ。
「……はい。わたしはあなたさまのどれい」
「〝この娘は貰います〟」
「……はい」
「〝奴隷を売るには許可証が必要らしいですね。持っていますか〟」
「……いえ」
「〝そう。でしたら、今直ぐ出頭しなさい〟」
「……はい。いってまいります」
男はフラフラと覚束ない足取りで、その場を後にした。
「〝貴方達も、何も見ていませんね〟」
『……はい』
周囲の商人達が揃って頷く。
「……さて」
ミセスは声で檻の鍵を開け、漸く舌を仕舞った。
「出なさい」
中の少女に声を投げる。しかし、少女の目は焦点が合っておらず――どこか夢見心地な様子で躰が揺れていた。
「……二度目です。早く出なさい。これ以上、エスペロ様を待たせる訳にはいきません」
「……? ……――っ、っ! は、はいっ」
正に脊髄反射の様子で声を上げた少女は、慌てて檻から出て――小首を傾げた。
「……あれ? ……あの、わたし……」
状況が掴めない。少女は細い眉根を下げて訴える。しかし、ミセスは取り合わない。
「我が主がお待ちです」
「……っ。……はい」
立てば、ミセスより少し背の高い少女。丈の短い服は目立って汚れてはいないものの、布一枚と薄い。
小振りな胸の成長を隠す猫背で、ミセスの後に続く。
「ありがとう、ミセス」
「……、いえ」
戻ったミセスに感謝一つ。エスペロは彼女の成果に目を遣った。
「……私は、怖いか?」
僅かに震える少女を見、エスペロはミセスに小声で確認する。
「……、いえ。あの男ほどでは」
「……あの男?」
「……、ボリスとかいう男です」
「ああ……。いや、あれは私から見ても極端な部類だと分かるぞ」
「……」
「……ミセス?」
口許を寄せたミセスの耳から赤い熱を感じ、エスペロは首を傾げた。
「……、はぁ……ふぅ……。……いつも通りなされば、問題ないかと」
「そうか?」
「……、はい。ネコナータの記憶では子ども好きだったかと」
「しかし、それは魔族だ」
「……、魔族も人間も子どもは子どもです」
「……そうか。それなら――」
エスペロは膝を落とし、少女の目線に自ら合わせる。
「顔を上げてくれ」
「……っ、は……はい……」
両手の拳をギュッと握り締め、少女は恐る恐る顔を上げた。
その顔を見、エスペロは苦笑を浮かべる。
「私は、そんなに怖いか?」
「い、いえ……っ。そそ、そんなことは……」
「だったら落ち着こう」
エスペロは――少女の両手を、ゆっくり包み込む様子で握った。
「冷たいな。緊張しなくていい。ゆっくり手を解して……そうだ。出来るじゃないか。次は胸を張ってみろ」
「む、胸を……ですか……?」
「ああ。君は美しい。何も恥じる所はない。胸を張って、私の目を見てくれ。私は、君と対等に話がしたい」
「……はい」
それでも、少女は頬を紅潮させて背筋を伸ばした。成長過程の胸がチクリと痛む。
「ああ。やっぱり、君は美しい。私の目が見えるか?」
「……はい」
「何色に見える?」
「……黒、です」
「ああ、そうだ。君と同じ色だ。髪も同じ黒だし、私達は仲良くなれるかもしれないな」
「なか、よく……ですか?」
「ああ。私の名はエスペロという。君の名も、教えてもらえるか?」
「……わ、私の……名は……」
言葉尻と共に少女の顔は落ち込み、やがて持ち上がった表情も色褪せていた。
「私は、ご……ご主人さまの……もの、です。だから、その……名も、ご主人さまに付けていただきたい……です」
如何にも覚えた台詞。対してエスペロは、目を丸める。
「何というか、やはり私は何も知らない――という事か」
「え……?」
「いや、此方の話だ。しかし、私は言った筈だな?」
「……ご、ごごめんさないっ」
少女は慌てて頭を下げた。
「いや、怒ってないし叱ってもいない。君は、何も悪い事などしていない。私が言ったのは、仲良くなりたいという事だ」
「……なかよく」
「そうだ。私は君と友人になりたい」
「……え? ゆう、じん……ですか?」
顔を上げた少女はキョトンと小首を傾げ、初めて年相応の反応を見せた。
「ああ。恥ずかしながら、私は友人と呼べる者が一人しかいない。寂しいと思わないか?」
「えっと……。でも」と、ミセスに少し目線を向ける。
「ああ。ミセスは大切な家族だ。だが、もし家族と喧嘩した時はどうする?」
「え?」
「私がミセスと喧嘩した時、今の私には相談に乗ってくれる友人がいない」
「でも、さっき……」
「ああ。たった一人いた友人は、もう死んでしまっているだろう」
「……そう、なんですか」
「だから、君が友人になってくれると嬉しい。勿論、君と喧嘩した時は――その時はミセスに相談するだろう」
「……、……はい」
色々言いたい事を呑み込んでくれた事は、エスペロにも分かった。
「だから、自己紹介だ。朋の名を知らない事は悲しい事なんだと、分かったからな」
「……わたしは……」
エスペロの掌の中で、少女の小さな拳が再び握られた。
「わたしは、奴隷です……。奴隷がどんな扱いを受けるか……今まで、見てきました……。――どうして、そんな事を言うんですか?」
「そんなこと?」
「友人とか……名を教えてほしいとか……。そんなの、後で辛いだけです……。わたしは奴隷。だったら、奴隷として扱ってください」
「――と言われても、私は奴隷の扱い方を知らないからな。欲しいと思った事もない」
「……やっぱり、わたしはいらないんですね……」
少女が落胆する。この反応にはエスペロも戸惑った。
「み、ミセス。私は、何か間違ったか?」
「……、違ったとすれば。それは価値観かと思われます」
「ヒトの価値観か……」
身に沁みる、とエスペロは嘆息した。
「分かった。それなら、一つ約束してくれ」
「……約束、ですか?」
力無く顔を持ち上げた少女が、疑問符を浮かべる。
「ああ。今後、君が私を友人と認めてくれた時に――君に名を教えてくれ」
「……」
「それまで、私はヒトの流儀に従おう。名は……そうだな……〝ネィジョ〟でいいか?」
「……え?」
「〝雪〟という意味だ」
「……ゆき……」
「ああ。君は美しい。それこそ、一晩で世界を白く染め上げる雪に負けないくらい」
エスペロは自信満々の表情で少女を見る。しかし、彼女の反応は薄く――途端に表情が崩れた。
「だ、ダメか……?」
「……いえ。……あの……」
「何だ?」
「……いえ、何でもありません」
「そ、そうか」
少女が一瞬だけ――真剣な、そして探る様を見せる。エスペロも身構えた。しかし結局、その真意は知れなかった。
「わたしは、ネィジョ……。はい。これから、宜しくお願いします」
いつの間にか、少女は落ち着いた表情。頭を下げても、直ぐに上がった。その僅かに零れる微笑が、エスペロの心を絡め取る。
「……いいなぁ、子ども」
自分の子が欲しい、と小声で呟いた。
「……あ、そうか子どもか」
「? どうかしましたか? エスペロ様」
「うん。やりたい事が見つかった、というか……やっぱり〝様〟は付けるんだ」
「はい。わたしは奴隷ですから」
「……そっか。……いや、いいんだ。呼び易い呼び方で……。じゃあ、帰ろうか」
「はい」
そして、ネィジョの長い夜が始まった。
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