Epizodo 7

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 姉妹共同の広い談話室は、今は亡き母が暮らしていた居室。


 白を基調とした内装。その壁面には二十を超える扉が丁寧に設えられ、十人各々の部屋にも繋がっている。


 祖母が粘土から自作した――と母に聞いた赤煉瓦の暖炉に火を焼べ、向かい側のソファに坐るミドゥは細い指先で針を動かした。


 ザラザラと柔肌を引っ掻く荒布に、慈しむ手付きで糸を通す。袖を絞り、裾を上げ――愛しい主の寸法に合わせる地味な作業。


 その途中で背後に気配を感じたミドゥは、手を止めて振り返る。


「あら、姉様。今から湯浴み?」


「うん」


 褐色の肌に黒翼を生やした小さな少女――長女のミューヌは、全てミドゥとは正反対。


 ミドゥの肌も、畳んだ二枚翼も白の色彩。加えて銀の長髪に、灰の双眸。初雪を粧かし込んだ草原に寝転んでも、見分けはつかない。


 唯一朱の差した唇を姉に向ける。


「そう。……あら、でも今はミクミク達が入っているわよ」


「げっ」


 その名を聞いたミューヌは、露骨に顔を顰めた。


「うぅぅ~……。そっか、じゃあ後にする」


「ふふっ」


「……なに? わたし、今そんなに面白い顔してた?」


「いいえ」


「じゃあ何よ」


「姉様の拗ねた顔が可愛くって」


「……何よ。そりゃ、拗ねたくもなるわよ」


 ミドゥから顔を逸らし、ミューヌは頬を膨らませる。


「わたしが湯浴み好きなの、知ってるでしょ」


「ええ。でも、だったらあの子達と一緒に入ってくれば良いのに」


「イ・ヤ・よ! 煩いんだもの」


「叱ってあげれば、直ぐ大人しくなるわよ」


「……それは、アンタだから出来る事よ」


「そうかしら?」


 しらばっくれた顔は一瞬で、その後に直ぐ吹き出した。


「ふふっ。私、そんなに怖いかしら」


「自分で分かってる癖に」


 溜息を吐いたミューヌは、浴室に向けた足を諦めてソファの前に揃え――腰を下ろす。


「で、今度は何縫ってるの?」


 ミドゥの再び動き始めた手許を顎で指し、ミューヌは小首を傾げた。


「エスペロ様の服よ」


「ふぅ~ん。……――え? ええぇエスペロ様の――っ?」


 ミューヌがグイッと身を乗り出し、ミドゥは針が刺さらないよう身を引く。


「なんでっ!」


「何でって、お出掛けなさるからよ。その時の服、寸法が合ってなかったようだから」


「……」


「……姉様?」


「……わたしがや――「ダメよ」と、ミドゥの拒否は早かった。


「まだ最後まで言ってないのにっ!」


「ハァ。姉様、エスペロ様の服を血だらけにする気なのかしら?」


「……わたしだって、裁縫くらい……」


「――裁縫〝くらい〟……?」


 ミドゥが目許だけで静かに笑う。その表情を見たミューヌは、冷汗を流して乱暴に首を振る。


「ち、違うのよミドゥ! そうじゃなくって……そうじゃないのっ! だから、その……そうっ! そういうことよ……っっ」


 姉の必死な弁明は、それこそ面白かった。


「……ふふっ。分かってるわよ」


「……はぁ」


 ミドゥの口角が上がり、ミューヌは漸く身に纏った黒翼を解く。


「でも、姉様」


「なに?」


「そういう台詞は、陶器を割らずに洗えない女が言う台詞じゃないわね」


「だ、だってあれは脆過ぎるのよ!」


「布だって柔らかいわ」


「で、でも割れない……でしょ?」


「……」


「……え? え? 割れないわよね? そう……よね? ねぇっ?」


 ミドゥの無言に焦ったミューヌが言葉を募る。対して次女は、神妙な面持ち。


「……割れないわよ。でも、姉様だったら破りそうだなって思っただけよ」


「それって結局割るのと同じじゃないっ!」


「姉様、昔から躰を鍛えてばかりなんだもの」


「うっ……。し、仕方ないでしょ。エスペロ様が、まさかわたし達の代で目を覚まされるなんて思わなかったんだもの」


 躰を鍛え、血を伝え――〝魔王〟エスペロの復活に備える。それこそが、ネコナータの家系に生まれた者の役目。


 まさか、その本分を自分達が担うとは――ミューヌは夢にも思わなかった。


「今からでも、花嫁修業しましょうか」


「は……はな、よめ……っ?」


 短く尖った耳の先まで朱く染め、ミューヌが頭から煙を噴く。


「――なぁに想像してんねやろなぁ。なぁ? お・ね・え・ちゃん?」


「みっ……ミトリっ」


 ソファの背凭れ越し――ガバッとミューヌの首に回された小麦色の肌は、三女ミトリの腕。そのまま姉の顔に頬を寄せた。


「こぉんな熱ぅして、真っ赤っ赤やでぇ? で、夢の中で花婿さんは誰やったん?」


 金髪に覆われた耳をピンと立て、尻尾を振り――ミトリは興味津々で話を続ける。


「もっ、ちょ……ちょっと! 早くこの手を放しなさいっ!」


「えぇ~ん。もう、教えたってぇな。うちが色々教えたるで?」


「……い、いろいろ?」


「そ。色々」


「いろいろ……」


「……お姉ちゃん、何想像しとん?」


 もはや林檎を並べても分からないミューヌの赤面に、ミトリは若干身を引いた。


「もちろん、料理の事やで? 花嫁修業の話しとったんやろ?」


「……、……え? ……あ、そ……そうよ、そうそうっ! 料理! わたしだって、料理の一つや二つできるわよっ」


「あら」


「ほぉ~、そら初耳や。どんな料理なん?」


「……えぇ~……っと……」


 基本的に、魔族はヒトと違って日々の食事を要さない。必要な場合は――ヒトと同じく、必要以上に躰を鍛える場合。娯楽の場合。


 ミューヌ達は前者に該当し、鍛錬の後には食卓を囲む。その皿は基本的にミトリが彩り、稀にミドゥも包丁を握る。


 しかし――ミューヌは、未だ包丁と小太刀を使い分ける意味が分からなかった。


「……わたし……考えたら、エスペロ様に何もしてさしあげられない……」


 落ち込むミューヌを見、妹二人は『ああ、またか……』と表情で呟く。


「そんな事ないやん? なぁ、ミドゥ姉さん」


「そうよ。姉様は、私達の中でいっち番強いんだから」


「時間を限定すれば、ミナゥが一番でしょ」


「あぁ~……」


「そう、かもしれない……わねぇ」


 大鍾乳洞の絶対防御を担う九女の長身を頭に浮かべ、ミトリとミドゥは首を傾げる角度で頷いた。


「でも、ミナゥはここから出られないでしょ」


「せやせや! 空を飛べるお姉ちゃんは、外での護衛にピッタリや!」


「……エスペロ様みたいに姿を変えられないわたしが、護衛に付いていいと思うの?」


 ミューヌの立派な四枚翼を見、二人は『あー……』と声を濁す。


「エスペロ様は、静かな視察を望んでいらっしゃる。それなら、適任はミセスでしょ」


「あー、まぁ。せやなぁ……。あの娘なら、見た目まんまニンゲンやしなぁ」


「……ほら。わたし、なにでもできない」


「そ、そんな事ないわよ姉様。……あ、ほら。そうよ。私達が甘えられるのは、姉様だけよ」


「おっ、せやせや! お姉ちゃん在っての、うちら姉妹やで!」


「え? わたくし、ミューヌ姉様に甘えた事なんて一度もないですけど」


「げっ、ミデク!」


 割って入った声の主は、末っ子のミデク。普段は外見通り〝猫らしい〟彼女も、今は運悪く〝真面目〟な様子。


「それに、わたくし――ミドゥ姉様やミトリ姉様がミューヌ姉様に甘える姿も、今まで見た事ありません」


「な、何言うてんねん。今正に甘えてるやん」


「それは〝じゃれ付いている〟だけです」


「ぐっ……」


 こりゃあかんで、とミトリがミドゥに耳打ちする。ミューヌは益々項垂れた。


「大体、ミューヌ姉様の本領は殲滅戦です。人間を全て圧し潰す。エスペロ様が目覚めた今、それこそがミューヌ姉様の仕事では?」


「おっかないなぁ、ミデク」


「?? 何故ですか?」


「エスペロ様は、そのような事は望まれないわ。ミデクも分かっているでしょう?」

「はい。だからこそ、わたくし達の手でやるのでしょう? 人間を一匹でも残していては、この世界に平和は訪れませんから」


『……』


 ミューヌもミトリも、ミデクに返す言葉が見つからなかった。しかし、一人だけ明るい声を上げる。


「……わたし、エスペロ様の役に立てる?」


「何を言っているのですか? ミューヌ姉様以上に更地を造る能力に長けた者は、姉妹の中にはいません」


「……そっか。そっか……そうよね! うん、わたし今から鍛錬に行ってくるっ」


「え? でも、姉様湯浴みは」


「帰ってから!」


「わたくしもお供します」


「うん! いくわよミデクっ」


「はい」


 意気揚々と談話室を出る二人を見送り、空いたソファに坐ってミトリが溜息を吐く。


「止めんでよかったん?」


「……鍛える分には、良い事だわ」


「でも、今回は止めたが良かったと思うけどなぁ。前回の戦争で、エスペロ様が誰一人も殺しとらんの知っとるやろうに」


「それ以上に、人類の歴史も知ってるからよ」


「それでも、決めるんはエスペロ様や。……ミューヌ姉さんも見たやろ? エスペロ様は、全然変わっとらん」


「ええ」


「甘いくらい優しいまんまやで、あれ。声や言葉変えとっても分かるわぁ。うちの心の奥で、ネコナータが笑っとったで」


「そうね。私もよ」


「お姉ちゃんが本気出したら、うちら誰も止められへんで?」


「姉様は、エスペロ様に黙って何か行動を起こすような事はしないわ」


「でも、ミデクは分からん」


「……大丈夫よ、きっと」


「ハァ。ミドゥ姉さんは、そればっかやな」


「知ってるでしょ。私は、信じる事しか出来ない」


「もちろん、知っとるで。月に一度は、お姉ちゃんと一緒に寝とる事もなぁ」


「――っんな……っっ」


 今まで微笑を浮かべていたミドゥの表情が、一瞬で凍りついた。


「……な……な、ななな……な、なんで……」


「知っとるやろぉ? うち、耳が良いんや。――姉様、今日は一緒に寝てもいい……? って……あ――」


 ゆらりと立ち上がったミドゥの右手が迫り、ミトリを頭からソファに押し倒す。


「ちょ、ちょちょちょっっと待ってぇな! うちが悪かったからっっ!」


「大丈夫よ、記憶を消すだけだから」


「あ、あかんっ! あかんよ! その目は、記憶だけやなく感情も全部消す目ぇやって! あかんてミドゥ姉さん、お願いやめてっ!」


「さよなら、ミトリ」


「さよならはあかぁぁーんっ!」

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