第二十章 啓子の選択肢
家に帰ってきた母啓子の様子がおかしい。
すっかりしょげて……元気がない。父のアパートで何かあったのだろうか?
「愛美ちゃん、お母さんもうダメかもしれない……」
そういって、ため息をついて黙り込んだ啓子である。
「どしたの? ねぇー、何があったの?」
こんな沈んだ母の姿を見たことがない……。
いつも元気で天然だけが取り柄だった、あの母が深刻な顔で考え込んでいた。何を訊いても、「うん……うん……」と生返事ばかり、すっかり自分の殻に閉じ籠ってしまっている。
今日、幸恵の思わぬ
離婚届けには絶対に判子を押さないつもりだったが……あの幸恵の言葉ですべて
最後に幸恵さんを幸せにしてあげたい!
死に逝く人への
――そんな気持ちに啓子はなってしまった。
そして、今日も宏明の住むアパートを啓子は訪ねた。
トントンとノックをするが返事がない。しばらく戸口で待っていると、ようやくドアを開いた。やっと部屋から出てきた宏明は、かなり疲労困憊していた。
「昨夜から……幸恵が重体なんだ」
そういって、眠そうに目を擦った。今は強い鎮痛剤で幸恵は眠っているらしい。
「なにか食べたの?」
目の下に隈ができている、一晩中付きっきりで看病していたようだ。やっと幸恵の容体が落ち着いて、ウトウトと……仮眠していた最中に啓子が訪問したのだ。
「いや……何も……食ってない」
「そう、ちょっと待っててね!」
部屋に上がってきた啓子は、タッパに入ったものをレンジで温めた。それを食器に移してキッチンのテーブルに置くと、
「さあー、召しあがれ」
「おや、ビーフシチューじゃないか」
「食べてみて!」
宏明は大きなスプーンでビーブシチューを掬いあげて口に運んだ。
「…………」
黙って、味わっているようだ。
「……どう?」
「…………」
もうひと
「美味しい?」
宏明は静かにスプーンを置いた。
「……啓子……か?」
「あなた……」
「君は……啓子なのか?」
「そうよ」
「なぜだ……?」
――啓子のビーフシチュー。
それは啓子にしか作れない味だった。長い結婚生活で作りあげた家庭の味、そこには啓子の家族への愛が込められていた。ひと口食べれば分かる家族だけの味覚なのだ。
その後、啓子は若返った
「今日、あなたに渡すものがあって来たのよ」
ハンドバッグの中から、封筒を手渡した。
封筒の中身を取り出した宏明は、驚いて啓子の顔を見た。それは離婚届の用紙だった。きちんと啓子の署名と判子が押してあった。
「いいのか?」
「……はい」
「すまない」
「幸恵さんを籍に入れてあげてください」
「啓子……」
「若返ったことだし。わたしだって新しい相手を探します」
宏明を見て、啓子が薄く笑った。
「啓子、すまない……。なあ、分かってくれ……。人の生きる意味ってなんだ? 大事な人を幸せにすることじゃないのか? 俺はやっと気がついたんだ。金じゃない、物じゃない。――人は心でしか人を幸せにはできないんだ!」
「ええ……そうだと思う」
「俺は決めたんだ。この不幸な人生しか生きてこれなかった女を、最後に幸せにしてやるんだと……」
「…………」
宏明の熱い決意を、啓子は複雑な気持ちで聞いていたが――。
「幸恵さんにあなたが必要だと分かっています」
冷静な声で啓子は話す。彼女なりに人間として成長したのかもしれない。
「人生はリセットできないんだ。だから……今、この瞬間だけでも『幸せ』だと思って、幸恵を死なせてやりたいんだ。――これは俺の彼女への罪滅ぼしだから……啓子許してくれ!」
そういって、宏明は深々と頭を下げて詫びた。
今の啓子なら、宏明が幸恵さんを幸せにしてあげたい気持ちも分かってあげられる。
「そんなの認めないからっ!」
いきなり声が聴こえた。
宏明と啓子が驚いて振り向くと玄関に
「離婚なんて、あたしが認めない!」
「愛美……どうして、ここへ?」
「お母さんの様子が心配だったから……後をつけてきた」
「ゴメンね。もうお父さんと離婚するって決めたの」
「――そんな大事なことを、自分たちだけで決めないでよ」
「すまん! 父さんが全部悪いんだ」
頭を下げて宏明が詫びると、
「お父さんの過去の懺悔のために、わたしたち家族は捨てられる? そんなの自己中じゃない?」
「…………」
娘の言葉に
「イヤだよ! お父さんとお母さんが別れたら、あたしはどっちの親を選べばいいの? 親を選ぶなんて、そんなことできないよ!」
「愛美ちゃん……」
その言葉には啓子も切なくなった。
「あたしもお姉ちゃんも親がいなくても生きていける歳だけど……家族という
愛美が泣きだした。
離婚は自分たちだけの問題ではない。子どもの心まで傷つけるのはさすがに啓子には辛過ぎる。せっかく心を決めて、ここにきたのに……また心が揺れる。――どうしたらいいんだろうか? 宏明も愛美の言葉に衝撃を受けたようで、口を一文字に結んで押し黙ったままである。
「ダメだよ、お父さんもお母さんも離婚なんて……しないでよう……」
しゃくりをあげて愛美が泣いていた。
「……コウちゃん」
隣の部屋から幸恵の声がした。静かに立ち上がって宏明が様子を見にいく。
「幸恵、大丈夫か……」
「コ、コウちゃんのミニカー……」
幸恵は息も荒く苦しそうで、うわ言を喋っている。もうこれ以上は自宅での看護は到底無理だ。
「ミニカー買って……い……く……」
「おいっ、幸恵!」
「幸恵さん、しっかりして!」
いよいよ危険な状態だ。
このまま昏睡状態に陥ったら意識が戻らないままで逝ってしまうかもしれない。《どうか死なないで! 幸恵さん》啓子は心の中で祈っていた。
――その時、啓子はふとアレの存在を思い出した。
そうだ! アレを使うしかない。ダメ元でも試してみる価値がある!
「愛美、あんたスクーターできたの?」
「うん」
「今すぐ、家に帰ってあの薬を取ってきてちょうだい。お母さんのあの薬を……キッチンのテーブルの上に置いてあるから!」
「えぇー! あの薬って、まさか? お母さんどうするつもりなの」
「いいからっ! 今すぐ取ってきてちょうだい!」
いつになく厳しい口調の啓子に、愛美はそれ以上訊かずに「分かった」と家までスクーターで薬を取りに行ってくれた。
《どの道……このままでは幸恵さんは死んでしまう》もしかしたら、あの薬で奇跡が起こるかもしれない。――これは最後の賭けなんだ!
まだ幸恵の息がある内に急がないと……。
最後の希望〔若返りカプセル・リセット〕に賭けてみようと啓子は思った。そして、愛美が家から急いで持ってきた〔若返りカプセル・リセット〕を、幸恵の口に入れると、無理やり水で喉の奥に流し込んだ。
宏明は啓子が何を始めたのか、オロオロしながら見ていたが……。啓子の真剣な表情に何も言えずにいる。愛美も押し黙って、ただ母の行動を見ていた。
「幸恵さん、あなたの人生をリセットしてあげる!」
――ようやく呼吸が落ち着いて……幸恵は昏々と眠り始めた。
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