第十九章 啓子の進むべき道

 マンションまで歩いて約一時間の道のりも、二十歳の啓子の足では丁度良いウォーキングコースだ。

 五十五歳だった頃の啓子は三十分歩くのもキツイ時もあった。関節を痛めてからは、さらに歩くのが億劫だったが、今、自分は健康を満喫している。《若いって素晴らしいわ!》健康も若さも失くしてみて、初めてその価値が分かるものなのだ。

 不思議な薬〔若返りカプセル〕で手に入れた。――この若さと健康に啓子は感謝していた。


 マンションに帰って、愛美に今日のことを話した。

 啓子にとって愛美は唯一の相談相手で、感情が先走る自分の良きアドバイザーでもある。 

 さすがに『コウちゃん』という異母兄弟の話をする時は話し辛かったが、「そうなの……」と以外と軽く受け止められた。その反応に《ホント、この子ってクールだわ!》啓子は呆れた。

 ……だが、それなりに愛美もショックを受けていたのだ。

 自分の中で父親像が崩れていくようで本当は悲しかったけど……自分が動揺すると、この天然母の感情に油を注ぐことになると思って、あえて平静を装っていただけで、弟がいたこと、そしてその子がすでに死んでしまっていることなど……仰天の新事実に、愛美もかなり動揺していた。


「結局、お母さんはどうしたいの?」

「お父さんのこと? 自分でも分からないの。でも心配だから様子を見にいく」

「一緒に居る女の人に嫉妬しない?」

「たしかに悔しいけど……病気が重くて死にそうだから……可哀相だと思う」

「その人が死んだらお父さんが帰って来ると思う?」

「それは分からない。幸恵さんが好きで家を出でいったのか、わたしが嫌いであっちにいったのか、どっちか分からないんだもの」

「お母さんも変な薬飲んで若返っちゃって、お父さんと普通に対面できないもんね」

 あまりにも若返り過ぎた啓子は、もう知り合いとは誰にも会えない。

「そうなのよ。わたしだって、この先どうなるか、分からないし……」

「その薬って、いつまで効果が続くんだろうか?」

「分からない」

 ――分からないことだらけで、母娘してため息をついた。


 翌日は、お昼過ぎに宏明のアパートを訪問した。狭いアパートで病人と、一日中一緒にいる宏明は、啓子の訪問をことのほか喜んでくれた。

 そして冷蔵庫から買い置きの缶コーヒーを渡してくれる。ちらっと覗いた冷蔵庫の中は缶詰やレトルト食品ばかりが入っていた。《ちゃんとしたもの食べてるのかなぁー?》妻の気持ちで啓子は心配になった。

「ケイちゃん、来てくれてありがとう。ヒロさんが退屈してるから、話し相手になってあげて……」

 隣の部屋から幸恵が言った。

 今日は薬臭いお部屋が、良い香りがするように、鎮静効果のあるローズマリーのポプリを持ってきたが、病人には、この香りが強過ぎないか少し心配だった。

「この香り、大丈夫ですか?」

「ローズマリーの香りね。シャンプーにも入ってるから好きな香りよ」

「良かったぁー」

「ケイちゃん優しい……」

「……いえいえ」

 幸恵に「優しい」と言われ、複雑な心境で曖昧に笑った。この人が夫の愛人でなければ、決して嫌いなタイプの人ではないと思うのだが……。

「ケイちゃん、実は頼みがあるんだが……」

 ひどく恐縮しながら宏明が、啓子に話しかけた。

「えっ? なんですか?」

「しばらく散髪にいってないんだ。散髪にいっている間、幸恵の様子を見ていて貰えないだろうか?」

 いつも身なりの良い、宏明の髪が伸びてボサボサになっている。きっと本人は気になってしょうがないはずだ。そういうところが昔から几帳面な男なのだ。

「はい。いいですよぉー」

「そうかい。それは有難い!」

 よほど気になっていたのか、宏明はすぐ様、支度すると急いで出掛けていった。


 狭い部屋の中で幸恵と啓子はふたりきりになった。

 なんだか啓子の方が緊張してしまう。自分は本妻なんだから、堂々としていればいいものを啓子はドギマギして身の置きどころがない。

 ……この沈黙が肌にピリピリと痛く感じてしまう。男女の修羅場しゅらばを経験したことがない啓子は小心者なのだ。

「あのー、喉渇きません?」

「……おねがい」

 目を瞑ったまま幸恵がか細い声でいう。

 ストローのついたマグカップを持って来て、幸恵の口に含ませる。少しだけ飲んでから、もう要らないとイヤイヤをした。

 見ているだけでも辛くなるほど衰弱した病人、本当は憎い女だけど……自分とさほど歳が変わらないというのに……もう死んでしまうなんて、可哀相すぎると啓子は思ってしまう。

 たとえば今なら……この人にどんな酷いことだってできるだろう。だが、そんなこと啓子にはできない。

「ヒロさん……」

「えっ?」

「良い人やから……うちみたいな者のために……家庭も会社も捨ててしまった……」

 急に何を思ってか? 幸恵がひとりでしゃべり出した。

「どうせ、うちは死ぬんやから……放って置いて言うたのに……俺のせいで不幸な人生になったと言うんや……けど、違う!」

「…………」

 幸恵は何を話そうとしているのだろうか?

「ヒロさんの奥さんに申し訳ない……」

「……ええ?」

「二十年前にヒロさんの子どもを勝手に産んだから、うちは罰が当たったんや……」

「それは……」

「不倫の子やけど……うちは子どもが欲しくて……欲しくて仕方なかった。――ヒロさんにも、奥さんにも、バレないように隠れて産んだんや、コウちゃん……けど五歳で死なせてしまった……不憫な子やった。うちみたいなアホなもんが親やったばかりに……」

 幸恵の頬に涙が伝って零れた。

「そんなことない! コウちゃんは、幸恵さん愛されて、この世に生を受けたんだから……そんなに自分を責めないで!」

 思わず、啓子はそういって慰めた。

「……うちはずっとヒロさんの奥さんに、心の中で詫びてたんや」

「…………」

 いったい、幸恵は何を言うつもりだろう。

「これだけは分かって欲しい。うちは奥さんからヒロさんを奪おうなんて、一度も思ったことはない! ヒロさんのためにも、奥さんとは別れないで欲しいって思ってから……」

「……幸恵さん」

 なぜ? なぜ、見ず知らずのケイちゃんのわたしに、そんな話を幸恵はするのだろう?

 不思議だ、まるで啓子に聞かせるために話しているようで不思議でならない。死を悟って、誰かに懺悔を聞いて貰いたいのだろうか?

 死病のせいで幸恵には霊感みたいなものが――現れたのかもしれない。

 もしかして《わたしのことが分かっているの?》そんな気さえする。

「奥さん、堪忍な……堪忍な……」

 はらはらと幸恵涙を流す。憎んでいた相手だが、今は不憫で仕方がない。

「もういいから泣かないで……幸恵さん」

 啓子はハンカチで幸恵の涙を拭った。

 死期が迫って……自分に詫びてくれた、この不幸な女性に、これ以上鞭打つことも、憎むことも、もはやできなくなった。甘いと言われようが、お人好しと笑われようが……幸恵のことを心底憎めない啓子だった。

 ……気づけば啓子も幸恵の手を握って、一緒に泣いていた。 

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