第十八章 幸恵からの贈り物

「きれいなお花ありがとう」

 隣の部屋のベッドから小さな声がした、幸恵さちえの声だ。

「あー、さっきはごめんなさい。突然帰っちゃって……」

「戻ってきてくれて……良かったわ……」

 とても弱々しい声……。

「せっかくだから、幸恵にも挨拶していってくれよ」

 そういわれて、宏明に付いて幸恵が寝ている部屋に入った。病人はベッドで点滴をしながら寝かされていた。


 ――この女がっ!

 一瞬、啓子の中に憎しみの感情が、突き上げてきたが……。

 先日、チラッと見た時よりもさらに痩せ細って幸恵はかなり衰弱していた……もう余命幾ばくもないことは見てとれる。

「きれいなお嬢さん」

「…………」

「いくつ?」

「二十歳」

「二十歳……コウちゃんが生きていたら……今、二十歳だよ」

 死んだ子どもの歳を数えている。愚かなことと分かっていても、子を亡くした親ならば死まで、その子の歳を数え続ける――。

 啓子も流産と死産で我が子を二人亡くしているから、幸恵の気持ちは痛いほどよく分かる。

 同情が先に立って、どうしても憎むべき相手なのに憎めない。こんな状態の幸恵を捨てて、宏明にも家に帰ってくれなんて……とても言い出せない。しょせん、お人好しの啓子である。

 ……死んだ子が二十歳ってことは、二十年前か……やはり北陸に出向していた頃からの関係だったんだ――。

 今にして思えば、子どもたちのことを優先して北陸についていかなかった啓子も悪い。

 あの当時、会社からも家族からも見捨てられて、宏明は孤独だったに違いない。傷心の宏明を慰めてくれたのは、他ならぬ幸恵なのだ。その後、本社に戻ってから部長にまで出世できたのは、北陸時代の幸恵の支えがあったからかもしれない。

 そう考えれば……何も求めず、自分から身を引いた、この幸恵という人を恨むことはできないと啓子は思った。


「おばさん……痛いことないですか?」

 あまりに痛々しい幸恵の姿に、思わず啓子は訊いた。

「ううん。とても強いお薬で抑えているから……痛くないのよ」

 そういって、幸恵は弱々しく笑った。

「病院に入院するように、いくら言って聞かせても利かないんだよ。この人は……」

 横から宏明が口を挟んだ。

「病院で死ぬには嫌! ヒロさんやコウちゃんの傍で死にたい……」

「…………」

 幸恵の頑とした決意に、啓子は言葉を失った。

「この人は若い時から、ずっと苦労してひとりで生きてきた人なんだ。――だから最後に我がままを通させてやりたいんだ」

 死を覚悟した病人の我がままに、誰もあがなうことなどできない。

「ヒロさん……この娘さんに……」

「あのー、わたしケイです」

「そう、ケイちゃんにあれをあげてください」

「あれって……? あぁー分かった!」

 宏明は立ち上がって、小さな鏡台の引き出しから小箱を持ってきた。蓋を開けると真珠の指輪が入っていた。

「もし……迷惑じゃなかったら……この指輪もらって下さいな……」

「えぇー?」

「娘がいないので……形見にもらって欲しいの。お花のお礼として……」

「……そんな、どうしよう」

「ケイちゃん、頼むから幸恵の指輪もらってやってくれよ」

 いきなり高価な指輪をあげると言われても、どう返答したらいいのか困ってしまう。

 しかも、啓子は本妻なのに……夫の愛人から『形見』貰うなんて前代未聞である。すがるような目で幸恵がこっちを見ている、「いらない」とは言えない空気だった。


 アパートからの帰り道、幸恵からもらった真珠の指輪が入った箱を手に持って、啓子は複雑な心境だ。――この指輪が宏明からのプレゼントだったとしたら突き返してやろうと思ったが……それは幼い頃に亡くなった幸恵の母親の形見の品だという。

 大事な指輪なので、誰かに持っていて欲しいと懇願された。

 ――なぜ? わたしに?

 前から親しい奈緒美でもなく、どうして、わたし、なんだろう?

 この指輪を持っていて、いいものかどうか? 捨てるに捨てられず啓子は悩んだ。とにかく、もう少しふたりの様子を見ていたいので、「またお邪魔しまーす」と言って帰ってきたが……。

 なぜ、この指輪をわたしが? 不思議で仕方がない啓子だった――。

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