第十七章 挫けないで! 啓子
マンションで啓子は娘の愛美と母子家庭のような生活をしている。
娘は母を心配してワンルームマンションの自分の部屋から、ずっと自宅に居続けてくれている。母と娘だけの気楽な暮らしだが、大きく違うのは母親が二十歳で娘より年下に見えることである。
時々、どっちが親か子か分からなくなるけど……夫がいない今、愛美の存在は啓子の心の支えだった。
いつも三時になると母娘でティータイムを楽しんでいる。
紅茶好きの愛美がティーポットで美味しいお紅茶を入れてくれる。その日の気分でアッサムだったり、ダージリンだったりメニューは変わる――今日はアールグレイとコンビニで買ったスイーツだった。
シフォンケーキをフォークで崩しながら、何気なく啓子が訊いた。
「ねぇー、
「……ん?」
フォークでケーキを口に運んでいた愛美がなぜという顔で啓子を見た。
「あんたって、男の人にあんまり興味なさそうだし……」
「失礼ね! 彼氏じゃないけどボーイフレドぐらいならいる」
「そう。いろいろ付き合ってから結婚相手を選んだ方がいいよ」
「なによ? それって、お母さんはお父さんを選んだこと、後悔してるってことなんだ」
「そうじゃないけど……お母さんはお父さんしか知らないから。他と比べられないのよ」
「お母さんって『箱入り奥様』だもんね」
ウフフッと愛美が笑った。
たしかに啓子は男といえば宏明しか知らなくて……それで良かったのか? 悪かったのか? 判断する材料もない――。
今になって、もっと遊んでから結婚相手を決めれば良かったとつくづく思っている。
「ところで、お父さんの様子はどうなの?」
「うーん……。とても戻って来れそうもないみたい」
「お母さんは、そんなんでいいの? 他所で女の人と暮らしてるお父さんを許せるの?」
「……相手は病人だし、なんか事情がありそうで、とても踏み込めないわ」
「お母さんって、お人好しね!」
「その女の人に酷いこと言って、お父さんに嫌われたくないし……」
「嫌われたくないってことは……まだ、お父さんが好きなんだぁー!」
「……そうかなぁー?」
「お母さんって、ホント可愛い人だわ」
キャハハと愛美が笑った。
「親をからかうんじゃありません!」
プイッと怒った振りをした啓子に、愛美はお代わり紅茶をポットで注いでくれる。こんな母娘の暮らしも悪くないかなぁーと思い始めている。
――あの日、公園で見たのは、宏明の孤独な後ろ姿だった。
あの背中には無理やり《全てを捨てしまおう!》とする。何か強い意思を感じ取った。きっと夫はあの女性が亡くなっても、自分たちの元へもう帰って来ないような……そんな気がしてならない。
どうして夫が妻や家族を捨てる気持ちになったのか、その理由を啓子は知りたい。本当の理由が分かるまでは、離婚届けに判子を押すべきか、破り捨てるべきか判断ができないでいる。
翌日、啓子はショッピングモール街の花屋で、薄紫のトルコ桔梗とカスミ草で小さな花束を作って貰い、それを持って宏明のアパートを訪ねることにした。
宏明のアパートの部屋の前に立つと、急に胸がドキドキして迷ったが、勇気を出してドアをノックした。啓子にとって、これは敵陣に乗り込むような気構えだった。
ややもすると、中から「はい……」と低い男の返事がした、宏明の声である。ドアを細めに開けると。
「どなた?」
「こんにちは」
「あぁー、君か?」
「お見舞いに来ました」
さっと花束を目の前に突き出した。
「やっ、ありがとう。病人が寝ているから静かに入ってくれよ」
そういって、宏明はドアを開けて中に入れてくれた。二階の奈緒美の部屋と全く同じ作りだが、この部屋はひどく寂しい感じがする。壁にはカレンダーしか掛かっておらず、殺風景でどこか仮住まい風だった。薬臭い匂いもする。奥の間のベッドで病人が眠っているようだ。
1Kのキッチンの椅子に座るように勧められて、何もないからと冷蔵庫から缶コーヒーを出して手渡してくれた。見ればシンクの周りの洗い物もきれいに片付いていて、たぶん宏明が洗ったのだろうか? 家ではいっさい家事を手伝わない人だったくせに……。
三十年も連れ添った夫なのに、すべてが新鮮な驚きだった――。
「花、ありがとうね」
「いいえー」
「花瓶ってあるかなぁー?」
宏明はシンクの下の扉を開けて、ごそごそと中を探している。
「あのー、大きなコップでもいいけど」
「うん、そうだね。これでいいかな?」
ジョッキのような大きなマグカップを宏明は手に持っていた。
「ええ。お花はあたしがやりますから」
思わず立ち上がって、マグカップを受け取り、シンクに立って啓子は花を挿した。トルコ桔梗が清々しくきれいだった。
「薄紫の桔梗。その色は幸恵が特に好きな色なんだ」
「そうなんですか?」
「後で病人が見える場所に花を飾って置くよ」
「ええ……」
嬉しそうに花を眺める宏明、《あの人には優しいのね……》啓子は病人には嫉妬しないように自分を抑えていたが、夫が女性に優しくするのを見ると、やはり嫉妬の炎がメラメラ燃えてくる。
「ヒロさん……」
蚊の鳴くような小さな声で病人が呼んだ。宏明は立ち上がって、病人のベッドの傍までにいった。
「幸恵、起きたのかい」
「ヒロさん、あのね……」
「どうした?」
「コウちゃんの夢をみたの……」
「
「うん、あの子が夢の中で……、お母さん約束していたミニカー早く買ってきてよ。って、駄々をこねるんです」
「そうか……」
「だから……もうすぐお母さんもコウちゃんの元へいくから、その時にミニカーを買っていくからと言ったんです」
「……幸恵」
「そしたら、あの子、嬉しそうにお母さん早くきてねって……」
「もう、いいよ。幸恵そんな悲しいことは……頼むから言わないでくれ……」
「ヒロさん、わたし……死ぬのなんて怖くないよ。もし、来世があるなら一度死んで生まれ変わりたいの」
「幸恵……」
絶句してうな垂れる宏明……。
どうやら、ふたりは子どもの話をしているようだ。《コウジ?》誰だろう? 幸恵のベッドの傍に小さな仏壇が置かれている。あの位牌が死んだ子どもかしら? 《コウジ?》もしかしたら、夫と幸恵さんの間にできた子どもかも? ふたりの会話を聴いて、憶測だけど……そんな気がする。
知りたくない事実に、頭がクラクラして、目の前が真っ暗になった。啓子の全身を衝撃が駆け抜けていく――。
その場に居たたまれなくなった……今にも啓子は泣き出しそうだった。
「あ、あのー、起こしちゃってごめんない。わたし帰ります」
そういって、立ち上がって帰りかけたら……。
「待って……」
幸恵が止めた。
「ケイちゃん、せっかく来たんだから、幸恵にも挨拶してからにしてくれよ」
ふたりに引き留められたが、
「…………」
振り向きたくなかった、泣きそうな顔を見られるのは嫌だった。
涙腺はもう一分もたないだろう。涙が零れ落ちる前に、慌てて後ろ手でドアを閉めて、逃げるように駆け出した。
しばらく走ると宏明がベンチに座っていたあの公園があったので、そのベンチに座って啓子はひとりで泣いた。
夫があの女性との間に子どもまで作っていたことがショックだった。まさか、そこまで深い関係だとは思ってもみなかった。さすがに動揺した、自分が惨めだった……。拭っても、拭っても……涙が止まらない。
あの状況から考えて……おそらく夫はわたしの元には帰って来ないだろう。たとえ、帰って来たとしても……心は幸恵さんのものだし、抜け殻みたいになった宏明なんか見たくもないわ。
だけど、全てを受け入れて前に進もうと誓ったのに、こんな所で逃げ出してはいけない……。
もう泣かない《逃げたら負けよ!》啓子は意気地なしの自分を叱りつけた。
「きれいな桔梗ですね」
「うん、さっきの娘さんがお見舞いに持ってきてくれたんだよ」
ベッドに寝ている幸恵から、よく見える場所に宏明は花を飾った。
「まだお礼も言ってないわ」
「どうしたのかな? 急に帰ったから……」
「なにか……気を悪くしたのかしら?」
「さぁー、何だか不思議な娘だよ。あははっ」
その時、トントントン……と遠慮がちにドアを叩く音がした。
「あれ? 誰だろう」
宏明は立ち上がって、玄関にドアを開けにいった。
「はい。どなたですか?」
「あのー、ケイです。さっきはすみません」
「ケイちゃんかい?」
宏明がドアを開けたら、バツの悪そうな顔で啓子が立っていた。
もう逃げ出さないで、全てを見定るつもりの啓子は再び戻ってきたのだ。相手の女性のことも知りたい。なぜ宏明が家庭も会社も捨てて、この女性を選んだのか、その本当の理由が知りたかった。
「さっきはどうしたんだい?」
部屋に入ってきた啓子に宏明が訊ねた。
「携帯が……」
「携帯?」
「ショッピングモールでお買物した時に、お店に忘れてきたことに気づいて……慌てて取りにいってきたんです」
そんな言い訳を公園のベンチで啓子は考えてきたのだ。
「若い人は携帯がないと不自由で困るんだよなぁー」
「はい」
「そういえば……俺の娘もしょっちゅう携帯電話をイジっている」
そうそう。愛美は食事中も携帯をイジってるわ。何度、注意しても止めないし……。
啓子は愛美に言われて、新しい携帯に買い替えてみたが、機能が複雑過ぎて使いこなせず……やっぱし楽らくフォンの方が使いやすくて良かったと、今は後悔している啓子なのだ。
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