第十四章 探偵になった啓子

 翌日の昼過ぎ。愛美の携帯に奈緒美から電話があった。

 啓子の携帯の番号を知らないので、愛美の携帯にかけたようだ。啓子のようなおばさんになると携帯番号を相手から聞いたからといって、すぐアドレス登録しないものである。

 こういうチマチマした機械類の扱いが面倒で仕方がない。《いくら若返っても、機械音痴だけは治らない……》結局、愛美に奈緒美のアドレスを登録して貰った。

「お母さん、若者が〔楽らくフォン〕はオカシイよぉー」

「ほんとねぇー、老眼もないし、若者向きの携帯に買い替えるわ」

 やはり、携帯にも世代の差ってもんがあるんだ。


 電話の奈緒美の声は弾んでいた。

 昨夜、あれから高野のお店にフェラーリを置かせて貰って、石浜とふたりでお酒を飲みに行った。ふたりでしたたか飲んで酔っ払って、ラブホに泊ってやっちゃった……。だけど、朝起きたら石浜さんが「奈緒美のこと大事にする!」って誓ってくれて、料理の腕を磨くために、もう一度イタリアへ修業に行くから、今度は奈緒美も一緒にイタリアへ付いて来てくれと言われた。そんなことを石浜さんに言われて夢みたい!

 ――と、奈緒美は興奮気味で幸せそうだった。

 昨夜、酔ったふりで石浜にはずいぶん酷いことを言ったと啓子も反省していたが……。

 その言葉を真摯しんしに受け止めて、もう一度イタリアに修業に行くと言った石浜は偉いと思う。彼なら、きっと超一流のシェフになれるだろうと啓子は確信した。

 まあー、切欠はどうあれ。――これで石浜の目が奈緒美に向いて良かったと思う。若い子は良いなぁー、この結果に啓子は満足だった。

 それよりも自分は今、宏明のことをもっと調べなくてはならない。バイトも辞めたし、明日から行動しようと決心した。若返った、今の啓子は体力なら自信があるのだ。


 翌日から、ショッピングモール街の入口近く、オープンカフェでの啓子の張り込みが始まった。

 奈緒美の情報に寄ると、一日置きくらいに宏明は、ここのスーパーで買い物をするようだ。車椅子を押して女性と来ることも多いが、最近ではひとりで買い物に来ていることが多くなった。幸恵さんが衰弱して体力がなくて……もう散歩も辛いらしい。

 オープンカフェの椅子に座って、宏明が来ないかと、お昼からずっと『入口』周辺を啓子は見張っている。

 もし現れたら、なんとか切欠を作って話しかけたい。たぶん、今の自分を見ても妻の『啓子』だと、絶対に宏明は気付かないだろう。


 啓子には、宏明に合って聞きたいことがあるのだ。どうしても納得できないこと、それは《三十年も連れ添った妻と家族をなぜ捨てなければいけないのか?》である。わたしたちを捨ててまで、あの女性に尽くす理由が知りたかった。

 それは嫉妬とか憤怒の感情ではなく――。

 夫をあそこまで駆り立てた女性との繋がりや……。もしかしたら、病人の介護をしている夫の手助けができるかも知れないという考えもあった。――あの痩せた女性に、多少なりとも啓子は同情していた。

 今までは、夫に依存するばかりで自分から何ひとつ行動しなかった啓子だが、今回は自分の意志で……どんな結果になろうとも行動することを決めた。

 若返ることで、啓子はアクティブな人間へと生まれ変わったみたいなのだ。


 ショッピングモール街の入口近くはザワザワして人通りも多い。見張っていても見つけられるだろうか? しかも入口はここだけではない。

 かれこれ五時間以上もオープンカフェに居るので、コーヒーや飲みもの五杯目である。  

 今日は買い物に来なかったのかな? それとも午前中に来ちゃった? もしかしたら……気がつかない内に通り過ぎたのかもしれないか?

 そんなことを考えて、今日はもう引きあげて、スーパーで買い物でもして帰ろう《明日も、張り込み頑張るから……》と自分に言い聞かせて、カフェの椅子から立ち上がり、ショッピングモール内に入っていくと……。

 丁度、宏明が入って来た。紺のブルゾンとジーンズのラフな格好で宏明が歩いてきた、今日はひとりのようだ。


 瞬間、啓子は物陰に隠れてやり過し……宏明の後からショッピングモール内のスーパーへと入っていった。

 宏明はスーパーの入口でショッピングカートの上にカゴを置き、ゆっくりと店内を回り始めた。見失わないように啓子もカゴを持って宏明の後に続く。

 果物のコーナーでりんごやオレンジを手に取って、どれにしようかと宏明は思案しているようだった。

 専業主婦だった啓子は家事を一手に引き受けて、夫に家事を手伝って貰ったことがあまりない。たまに日曜日、一緒にショッピングにいくが啓子がスーパーで食材を買っている間、宏明は書籍コーナーで雑誌を立ち読みしながら、啓子の買い物が終わるのを待っていることが多かった。

 三十年間連れ添った夫が、別の生活のために買い物をしている。ひとつ、ひとつ食材を手に取って、愛人に食べさせるものを吟味する、その情景が……もう赤の他人のようで、啓子にはとても悲しかった。


「おじさん……」

 思い切って啓子は宏明に声を掛けてみた。

 レジでの精算が終わり、買い物した品物を台の上でレジ袋に詰めていたところを見計らって、後ろから突然呼びかけた。

 ん? と、いった感じでゆっくりと振り向いて宏明は少し驚いたようだ。

「あぁー、君は奈緒美ちゃんの……」

「わたし、お買い物してたら、知ってる人だから、声かけました……」

 久しぶりに真近に見る宏明にドギマギして啓子は変な日本語になっている。

「あははっ。それはありがとう」

「おじさん、お買い物して……ご飯作ったりしているの?」

「自分の分と病人の分とね……大した物作れないけど」

 三十年の結婚生活で、宏明に料理を作って貰ったことはほとんどない。その夫が慣れない料理を作っているなんて……ちょっと複雑な気分だった。

「奈緒美ちゃん、今日はスーパーのバイト休んでいたよ」

「ええ。知っています」

 奈緒美は石浜とイタリアに行く準備があるのでバイトは辞めると言っていた。

「わたし、今バイト探してるんです」

「そうかい、おじさんは失業中だよ。あははっ」

 なぜか、宏明が明るく笑った。きっと覚悟を決めての退職なので後悔はないのだろう。

「じゃあ、頑張ってね」

 そういうと宏明はレジ袋を提げて行ってしまった。家で病人が待っているので忙しいのだろうか?

 遠ざかる宏明の後ろ姿を見つめながら……小さな声で啓子は呟いた「あなた……」なぜか目頭が熱くなった。


 少しでも宏明と話ができて良かった。

 ……あの後、涙が止まらなくなったので、慌ててトイレに駆け込んで、しばらく啓子は泣いていた。宏明という人生の『大黒柱』を失った、今の自分は心細く惨めだった。

 長い間、宏明と暮らしていたが……夫が自分を見ていないと、いつも不満ばかり言っていたが、実は啓子だって宏明のことをちゃんと見ていなかったことに気がついた。

《わたしは夫のことを何も知らなかった》家族という曖昧な関係で括られて、宏明のことを理解しようという努力を長い間サボっていたようだ。

 今まで啓子は『専業主婦』という家庭内での絶対的地位に甘んじていたのだろう。そのツケが回ってきたのかもしれない。

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