第十二章 雪国の女

 二十年前、宏明は当時の上司と反りが合わず……。北陸支社への出向の辞令を貰った。

 まだ愛美めぐみが二歳になったばかりで、小さい子どもをそんな寒い地方へ連れていくのは不安だと……啓子は子どもたちとこの街に残ると言い張った。

 いずれ出向が長引けば付いてゆくが、愛美が三歳になるまでは行けないと言われて、宏明は雪深い北陸の町に単身赴任した。

 宏明は「これは左遷ではなく……出向(長期出張)なんだ……」と自分を慰めてみたが……この惨めさと孤独感はどうにも拭い切れなかった。


 そんな時、北陸支社の同僚に誘われて行った、スナック『みゆき』で宏明は幸恵と知り合った。

 当時、幸恵さちえは三十代半ば、色白の『北陸美人ほくりくびじん』といった感じで素朴な美しさだった。離婚して、スナック『みゆき』の雇われママをやっていた。小さなお店だが女の子を三人ほど雇って結構繁盛していた。初めて行ったお店だが、ママの幸恵が愛想が良くて優しいので、宏明はすっかり気に入った。

 何度か、お店の通う内にふたりは親しくなり、スナックの二階の部屋で宏明は幸恵を抱いた。雪のような白い肌の女だった――。


 ふたりは親密な関係になり、幸恵の部屋に通う内に彼女の身の上話も聴いた。

 幸恵は北陸の寒村で生まれた。すでに両親はなく天涯孤独な境遇だった。中学を卒業して、すぐ温泉旅館で住み込みの仲居をしながら、ひとりで生きてきた。二十歳の時にその旅館の板前と結婚したが……酒癖の悪い男で、夫の暴力に耐えかねて逃げ出したという。

 家庭的な女でマメに宏明の世話も焼いてくれていた。子どもはいなかったが、幸恵は子どもが好きだった。

 寒い雪国で布団の中、ふたり抱き合って眠る夜――。

「ヒロさん、温かいがや。男の人にこんな優しくして貰ったのは初めて……」

 北陸訛りでいう。

「幸恵……」

 強く抱きしめると、幸恵は宏明の胸の中で泣いた。

「幸せがやー、ヒロさんと一緒に居るだけで幸恵は幸せがね……」

 宏明も幸恵と居るときだけは、会社も仕事も家庭のことも全て忘れていられた。

 そんな生活が半年ほど続いて、雪深いこの街で、宏明はこの女と生涯暮らしても良いとさえ思い始めていたが……。


 ――そんな、ある日、忽然と幸恵が目の前から消えた。

 スナックの二階の幸恵の部屋にいくとモヌケの空だった。荷物がなくなって、自分宛ての手紙すら残されていなかった。茫然ぼうぜんと空っぽの部屋で宏明は立ちつくした。

 急にお店を辞めて出ていったと、スナックのオーナーに聞かされたが……なぜ急に自分の前から、幸恵が消えたのか理由が分からなかった。

 半同棲していた女から、こんな仕打ちを受けるなんて……男としてプライドが傷ついたが、《どうせ水商売の女だから、新しい男でも出来たのだろう》そう思うことで、宏明は幸恵への未練を断ち切って忘れようとしていた。

 しょせん、俺たちは不倫の関係ではないか……。

 そうこうしている内に、反りが合わなかった上司が失脚して、地方へ左遷させんさせられていた宏明が本社に呼び戻されて、また家族と一緒に暮らせるようになった。

 しかし……時々、幸恵のことを思い出しては……なぜ、あんなにきれいさっぱりと自分の前から姿を消したのか? 悔しいような、切ないような、釈然としない、その想いに懊悩おうのうする日々だった。


 ベッドで眠る幸恵の寝顔を見ながら……宏明は二十年前の出来事を思い出していた。

 そして、あの日、ショッピングモール街で奇跡の再会したふたりだった。

 あの時、宏明は過去の経緯いきさつを忘れて、幸恵に対して懐かしい気持ちでいっぱいだった。まさか、こんな近くで逢えるなんて夢にも思わなかった。

 さっそく、幸恵に連絡先を訊いたが……なかなか幸恵は教えたがらなかった。それでも粘り強く訊ねると……やっと住所を教えてくれた。そこはショッピングモールから目と鼻の先の住所だった。

 どうやら幸恵は半年ほど前に雪国から、この街に引っ越しして来て、ここのスーパーで掃除の仕事をしているようだった。なんだかやつれて顔色の悪い幸恵のことが、やけに宏明は気になった。

 翌日さっそく、様子を見るため、幸恵に教えて貰った住所を訪ねてみることにした。そこは路地の奥の小さなアパートだった。ひとり暮らしみたいなので思いきってドアをノックしてみたら、中から「はーい」と返事が聴こえた。


 部屋から出てきた幸恵は風呂上りらしく、少し濡れた髪のままでドアを開けてくれた。

 宏明を見た瞬間、「あっ」と小さな声を漏らした。まさか、こんな早く訪ねてくるとは予想していなかったのだろう。

 玄関に立ってる宏明をマジマジと見つめて、少し涙ぐんでいた。

「幸恵……おまえに逢いたかった」

「ヒロさん、ごめんなさい」

「俺は……おまえのことが忘れられなかった」

「…………」

 幸恵は黙って俯いた。

「どうして、何も告げずに消えたんだ?」

 あの時、宏明は幸恵のことを探さなかった。だから、ずっと気がかりで心の中で幸恵のことを探していたのだ。

「あたし……あた……し……」

 言葉を詰まらせ、幸恵は嗚咽を漏らした。

「話を聞かせてくれ」

 宏明は玄関先ではなく、幸恵の部屋に上がった。


 1Kの小さなアパートにはベッドとわずかな家財道具。引っ越して間なしなのか、まだ開封されていない段ボールが部屋の隅に積んであった。ふと見ると、ベッドの脇のサイドテーブルの上に小さな仏壇が置かれてあった。  

 位牌の前には仏花とポッキーチョコやキャラメルなど子どもの好きなお菓子が供えてあった。

「これは……?」

「子どもの位牌です」

「幸恵さんの子か? 名前は?」

宏司こうじ……五歳で亡くなりました」


 別れた時、幸恵は三十代半ばだった。あの頃、セックスの最中に幸恵は「ヒロさんの子どもが欲しい」とよく口走っていた。もちろん、不倫関係なので避妊には気をつけていたが……何度か、酔った勢いでなんの処置もなく幸恵を抱いたことがあった――。

「こうじ……宏明ひろあきひろという字を書くのか?」

 幸恵はこっくりと頷いた。もしかしたらその子どもは……?  

「俺の子どもなんだな?」

 再び、幸恵はこっくりと頷いた。やはり! そんな予感がした――。


「どうして? 俺に内緒で産んだりしたんだ?」

「あたしが妊娠していることがバレたら……ヒロさんや奥さんにも迷惑がかかるから……。誰にも分からないように、こっそりと子どもを産みたかった。ヒロさんの赤ちゃんがどうしても欲しかった――あたし。ひとりで育てるつもりだった」

 そういって、幸恵はぽろぽろと涙を流した。

「あの時……言ってくれたら、俺は幸恵ひとりに辛い思いはさせなかった」

 幸恵の肩を抱いて、宏明は言った。

「それなのに……なのに……宏司こうじを病気で死なせてしまった。ヒロさん……どうか許してください。あなたの大事な子どもなのに、たった五歳で死なせて……」

 宏明の胸に頬を押しあてて、幸恵は止めどなく涙を流した。

「幸恵……おまえのせいじゃない。それは宏司の運命なんだから……」

 彼女の深い悲しみを知って、何も出来ない宏明は強く抱きしめた。胸の中で幸恵は赤子のように泣き続ける。今までの悲しみが一気に溢れ出たのだろうか。

 二十年以上も前に別れた幸恵は……俺の子ども身ごもって黙って消えていった。子どもを生んだ事実も知らず、その子どもが五歳で死んだことも俺は知らずに、のほほんと人生を送っているところだった――。

 宏明は自分自身の無責任さを痛烈に後悔していた。

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