第十一章 知らなかった宏明の秘密
「啓子ちゃんって、なんか変わってるよね」
「はい、よくズレてるって言われます」
いつも愛美に《お母さんは世間知らずで、感覚がズレてるのよ》って言われている。
実体験として、社会との関わりが少ないせいだと思う。何しろ専業主婦三十数年だから。
「あんな意地悪したのにあたしのこと怒ってないの?」
「お皿いっぱい割れたけど、私、大したケガじゃないし……大騒ぎするほどのことではないと思うから」
「ふーん……なんか、ズレてるよね」
そういって、奈緒美が笑った。
「……そういう所が可愛いのかなぁー、石浜さんは。啓子ちゃんの方が好きみたいだし……どうせ、あたしは敵わない」
ガックリと
「私、石浜さんと付き合う気ないです!」
啓子はキッパリと言い切った。その言葉に奈緒美はギョッと驚いたようだ。
「本当に? あたし、てっきり石浜さんと交際します! って、宣言しにきたのかと思ってたよ」
「違います。私、お店も辞めるし、石浜さんともお付き合いしません」
「その言葉を信じてもいいの?」
「はい、奈緒美さんが石浜さんにアタックしてください」
「ありがとう!」
さっきまで、萎れていた奈緒美が急に元気になった。《若い子はいいなぁー》と、見た目は二十歳で中身五十五歳の啓子は思っていた。
――そんなことより、さっきから訊きたくてウズウズしていることがある。
それは奈緒美のアパートの真下の部屋に住む、宏明と車椅子の女のことだ。
たぶん奈緒美なら何か知っているだろう。さっきも親しい気に一緒に買い物から帰って来てたし……。
「ところで……さっき、一緒に帰って来てた人たちと親しいの?」
「えっ、なんで?」
「あ、あのー、知り合いのお父さんに似てたから……」
「ヒロさんのこと? 下の
「彼氏?」
その言葉に思わず、ムッとして眉尻が上がった啓子だったが……なるべく顔に出ないように――。
「ヒロさんは幸恵さんの世話をよく看てるよ。すごく献身的でさぁ……あんな風に愛されたら女は幸せなんだろうねぇー」
うっとりするような目で奈緒美が語ったが、啓子は怒りで身体が
「いつから、あのふたり一緒に?」
「うーんと……半年くらいかなぁー? 幸恵さんの病気が悪くなってからは、ずっと一緒に暮らしているよ」
「……そうなの」
段々と
「どうしたの? 深刻な顔して……」
「ううん。別に……で、女の人の病気は悪い?」
「……よく知らないけど……末期みたい」
「癌?」
「…………」
暗い顔で奈緒美は黙り込んでしまった。
あの様子だと……かなり衰弱しているようだし、余命は短いのかも知れない。だけど……何で、夫が会社まで辞めて、あの女の世話を看る必要があるんだろう。お金を出して病院に入院させてあげる方が良いと思えるのに……どうも納得がいかない啓子だった。
奈緒美が明日からお店に出勤するというで、安心した啓子はそろそろ帰ろうと椅子から立上がった時のこと。遠慮がちにトントンとドアをノックする音がした。
「誰だろう?」
奈緒美はドアに向かって「はーい」と返事しながら開けた。
そこに立っていたのは
「これ、
「なんだろう?」
「見てごらん!」
玄関まで一直線の1Kの部屋では、ふたりの会話が手に取るように分かる。
「ウッソー!」
「あはははっ」
「よく同じ物が売っていたね? マジ嬉しいー」
「ショッピングモール街の靴屋で幸恵が見つけたんだよ」
「ヒロさん、幸恵さん、ありがとう!」
奈緒美は赤いハイヒールを手に持って嬉しそうに興奮していた。
「もう、あんなに飲み過ぎたらダメだぞぉー。二階の奈緒美ちゃんの部屋まで連れて上がるのに、おじさん大変だったんだから……」
「迷惑かけちゃって、ゴメーン!」
手を合わせて、奈緒美が宏明に謝っている。
「お酒はほどほどになぁー」
「はーい。反省してまーす! 幸恵さんにありがとうって伝えてといて下さい」
「それじゃあー」
宏明は啓子の方をチラッと見て軽く会釈をして、階段を下りて行った。
家に居る時の気難しい夫とはぜんぜん違う。気さくなおじさん風の夫……啓子の知らない宏明の一面を見たような気がした――。
「その赤い靴どうしたの?」
「えへへ……」
テレたように奈緒美が舌を出して笑っている。
「あのねぇー、こないだ啓子ちゃんのことで石浜さんに叱られて……」
「うん……」
「あたしムシャクシャして、その日は友達と飲みに行ったのよ。そんでさぁー、ベロンベロンに酔っ払っちゃって、アパートの階段の下で寝ちゃってたのを……ヒロさんが部屋まで連れて上がってくれたのよ」
「あははっ」
奈緒美は酒癖が悪い。これさえ治れば……石浜も好きになってくれるかも知れないのに――と啓子は思った。
「朝起きたら、赤いハイヒールの片っぽがなくなってて大騒ぎよ……どこで失くしたか見つからないし、もう諦めていたんだ。――そしたら、幸恵さんが同じものを見つけて買って来てくれたの」
「良い人だね」
「うん! 幸恵さんってマジ良い人だよ。子どもがいないんであたしのことも可愛がってくれるんだ」
「そうなの。あの人ひとり暮らしだったの?」
「幸恵さん、このアパートに越して一年くらいだけど。どっか地方から出てきたみたい。今は病気で痩せてるけど……前は
「そう……」
「啓子ちゃん……ヒロさんたちのことがそんなに気になるの?」
余りに深刻な顔で聞く啓子を、奈緒美は不審そうに見ていた。
宏明は、ここ数年は本社勤務でたまに出張があるくらいだった。――ただ、愛美がまだ二歳くらいの時に、十ヶ月ほど単身赴任で地方に出向していた時期があった。あの頃、たまに帰って来る夫の様子が何だか変だと啓子は感じていた。
――何か、あったとしたら……あの時かも知れない。『妻の勘』で啓子はそう思った。
「
ベッドに横たわり顔だけこちらを向いて
「あぁー、すごく喜んでくれてたよ」
「そう、良かった……」
弱々しく幸恵が笑った。《ずいぶん痩せたなぁー》と宏明は思った。いつまでこの女と暮らせていけるんだろうか? そう考えただけで目頭が熱くなる。
幸恵は二年前に乳癌が見つかり手術したのだが、その後の検診で他にも癌が転移していることが発見されたのだが……治療を止めて、雪国からこの街に引っ越してきた。「ヒロさんの住む。この街でひっそりと死んで逝きたかった……」そういって幸恵は、宏明を泣かせた。
二十年以上も前に別れた女なのに……ずっと心残りだった。
あの日、この街で再会するまで、俺は幸恵のことを忘れようとしていた――。
妻の啓子から、ワイン買って来て下さいと宏明の携帯にメールが送られてきた。仕方なく会社帰り、この街の大型ショッピングモール内のスーパーに宏明は立ち寄った。
《啓子の奴、俺が居ないと酒ばかり飲んでやがる!》少し苦々しい気持ちで宏明は妻のワインを買っていた。
ここんところ仕事が忙しい上、休日も接待ゴルフで家に居ないし、啓子を放ったらかしている自分は、あまり強いことも言えないから黙っているが……。お酒に依存する妻には不満を感じていた。
おつまみを見つくろって、妻に頼まれた買い物が終了。家に帰ろうとしたが、尿意をもよおした宏明は男性トイレに入って用をたした。洗面所で手を洗っていると、中年の女がひとり入ってきた。手にモップとバケツを持っているので、お掃除のおばさんだと思った。
「お客さん、すいません。お掃除しますね」
「あぁー」
気のない返事で、ふと洗面所の鏡に映った、お掃除のおばさんを見ると……その女はたしかに、見覚えのある人だった。
――
当時、宏明は会社に対する不満と単身赴任の淋しさから、水商売だった幸恵を抱いた。もちろん浮気のつもりだった。
ふたりの関係は、ほぼ半年ほど続いた。急に幸恵が姿を消すまでは……。
まさか、こんなところで出会うなんて! 驚いて振り向くと、幸恵の方もこっちを見て驚愕の表情である。
「さちえ……さんか?」
「ヒロさんなの?」
ふたりは驚いて、しばらく見つめ合っていた。次の客がトイレに入って来るまでフリーズした状態だった。
それが半年前のことだったが――そこから宏明の人生が大きく180度変わった。
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