第十章 恋のトライアングルゾーン

 翌日は『ベネチアーノ』のアルバイトをお休みしたかった――。とても仕事が出来る精神状態ではなかったのだが、もしも休んだら、あの石浜が心配して電話をかけてきたり、家にまで来られたりしたら厄介だと思って、無理してアルバイトは休まずにいくことにした。

 その代わり、愛美がお父さんからの連絡待ちもあって家に残っている。

 さすがに母親と同じ職場で働くのは《気疲れするから……》と、愛美は新しいアルバイト先を探しているようだ。

 たしかに家でも職場でもずっと一緒って言うのは、いくら親子でもうっとうしいと思う。


 出勤して、『ベネチアーノ』の従業員のロッカールームで着替えていると、職場の人たちが昨日のことを心配して「啓子ちゃん、大丈夫?」と次々に様子を訊いてきたが――。

「大丈夫ですぅー」と曖昧に笑って答える啓子だったが、よく見ると奈緒美の姿が見えない。《あれっ、今日はお休みかしら?》何気なく、職場の人に「奈緒美さん、今日はお休みですか?」と訊くと……急に声をひそめて。

「昨日、あの後……大変だったのよ。お客さんがね、帰りの清算の時に……さっき、転んでケガした女の子は、すれ違いざまに足を引っ掛けられてたよ。自分はこの目でしっかりと見たと、わざわざ店長を呼んで忠告していったものだから……奈緒美さん、店長に呼ばれて、きつく注意されたみたい……今日はなのよ。彼女……」

 と、啓子に教えてくれた。


 大変な事件になってしまっている。

 ケガなんか大したことはないのに……新人にそんなイジメをしたことが、みんなに知られたら、奈緒美は『ベネチアーノ』で働き辛くなるだろう。石浜のことを好きなのは聞いて知っていたし、女の嫉妬心でやったことくらい分かる。

 自分の娘くらいの女の子がやったことで啓子は本気で怒ったりしない。むしろ、そんな気持ちに追い込んだ自分自身に大きな責任を感じてしまった。

「奈緒美さん、大丈夫かなぁー?」

 ……と奈緒美のことを心配してしょんぼりしてたら、話をしてくれた職場の人が、

「あんなことされて啓子ちゃん、怒ってないの?」

「別に……」

「ホントにお人好しねぇー」

「…………」

 肩をポンポンと叩いて、笑いながら行ってしまった。

 若返ったのはいいけど……トラブルは起こしたくないなぁー。


「啓子ちゃーん」

 厨房から石浜がニコニコしながら啓子を手招きして呼んだ。

 彼は『ベネチアーノ』の看板シェフだし、ここでは店長より偉い石浜なのだが……啓子を見るとにんまりしてシマリがない。

「はい、何でしょう?」

 慌てて、駆け寄って訊ねた。

「ケガ大丈夫? 店長から聞いたよ、奈緒美のこと……。昨日、俺にも黙っていたんだね。啓子ちゃんって優しいなぁー」

「ケガは大したことないから……」

「そういう奥ゆかしいところが大好きだよ」

 周りに聴こえないように、声をひそめて石浜が言う。別に嫌いじゃないけど……こういう気恥かしいことを言うのが、どうも苦手なのだ。

「奈緒美さんもわざとじゃないと思うんです」

「いいや、あいつに携帯で注意したら……あんな子、辞めちゃえばいいのに……とか、啓子ちゃんに対して、ひどいことを言ってたから、俺が厳しく叱っておいた!」

 あぁー、なんて女心の分からない男なんだろう。《奈緒美さん、大好きな石浜さんに叱られて……きっとしおれてるだろうなぁー》可哀相なことしちゃった。なんだか啓子自身が責任を感じてきた。


 ――宏明が家を出て行って、そろそろ一ヶ月近くになる。

 心当たりはいろいろ探してみたが行方が分からない。自分の意思で家を出たのだから事件性はないと思うのだが……。

 最近では、怒りというより啓子は心配で仕方なかった。愛美とも相談して私立探偵に捜して貰おうかという話にもなってきている。

 もう少し……もう少しだけ待ってみようか? 心の何処かで夫はきっと帰って来るという根拠のない儚い望みだけは捨て切れない啓子だった。


 そして『ベネチアーノ』では、奈緒美が今日で五日間休んでいる。

 無断欠勤だし、たぶん辞めるんじゃないかとロッカールームで職場の人たちが噂している。

 奈緒美にとって、店長に注意されたことよりも、石浜に叱られたことの方が数倍ショックだったと思う。《あぁ……きっと私のせいなんだ。私さえいなければ、こんな事件は起こらなかった》啓子は責任を感じていた。

 石浜のことは何とも思っていない。五十五歳の自分から見たら、石浜なんて子どもみたいなものだし、好きとか言われてもピンと来ない。

 今は宏明のことが心配で、そんな気持ちには到底なれない。

 あれから何度もデートに誘われたが……すべて断っている。《自分がこのお店を辞めたら、奈緒美さんも出て来れるかなぁー?》そう考えて、啓子は『ベネチアーノ』を辞める決心を固めていた。


 駅から少し離れた大型ショッピングモール近くに、奈緒美の住んでるアパートがあると『ベネチアーノ』の店長から住所を教えて貰った。

 ここは以前、啓子が買い物に来て、近所の主婦に夫の浮気の事実を聞かされた。嫌な思い出のあるスーパーだが、奈緒美は『ベネチアーノ』のアルバイトだけでは、生活が出来ないので、午前中だけスーパーで品出しのアルバイトもやっているらしい。


 ショッピングモールの賑やかな一角を過ぎると、ややさびれた薄暗い路地がある古い街並みの住宅街へと入っていく。煙草屋の角を曲がって奥に行くと、下に三室に階段を上がって三室ある、こじんまりしたアパートがあった。

 そこの二階の真ん中が奈緒美の部屋だと聞いてきた。

 果たして、家に居るだろうか? アポなしの突然の訪問なので心配だった。『ベネチアーノ』には、風邪で休むと二日前にやっと連絡が入ったらしい。風邪のお見舞いということで、ショッピングモール街のケーキ屋さんでお見舞いの品を買ってきた。

 奈緒美が会ってくれるだろうか? 取り合えず、お店に戻ってくれるように頼もう。自分は石浜のことは何とも思っていないし、バイトの『ベネチアーノ』も辞めるからと伝えに来たのだ。


 アパートの二階に上がって、奈緒美の部屋のドアをノックして、しばらく待ったが返事がない。どうやら留守のようだ。

 ――諦めて、階段を降りかけたら、アパートの方に向かって、数人が歩いて来るのが見えた。車椅子に乗った女と押す男、そして若い女だった。

 若い女は奈緒美で、車椅子には痩せた病人みたいな中年の女が乗っていた。そして車椅子を押していたのは……なんと、その人は、夫の宏明だった!

 啓子は階段の手すりを握って凝視していた。

 ま、まさか? あの男が夫のはずがない! そっくりな男を見ても信じられない気持ちの方が強い! たぶん他人のそら似かもしれないし――。偶然にも捜していた夫が、こんな所にいたなんて……あまりに驚いて、言葉も出ない啓子である。

 奈緒美の方も、階段にいる啓子の姿に気付いて驚いていた。


「啓子ちゃん!」

 奈緒美の声に宏明もこっちを見た。

 やっぱり間違いない、あれは宏明だわ。三十年も連れ添った夫の顔を見間違えるわけがない。だけど車椅子の女はいったい誰なの?

「何か、あたしに用?」

 階下から、奈緒美が不機嫌な声で訊いた。

「あの……風邪で休んでいるって訊いたから、今日はお見舞いに来ました」

「えぇー? ちょっと待ってて」

 怪訝けげんな顔で奈緒美は啓子を睨んでいた。宏明も啓子の方をじっと見ている。二十歳に若返っている啓子を見ても、誰か分からないだろう。―やっと夫の所在が分かって啓子は少し安堵した。


「おじさん、友だちが来てるから……じゃあ、これっ!」

 手に持った買い物袋を宏明に手渡した。

「奈緒美ちゃん、ありがとうなぁー」

 買い物袋を受け取って、一階の部屋の鍵を開けて、荷物を部屋に置くと、宏明は車椅子の痩せた女を抱きかかえて部屋の中へと入っていった。

「おばさん、大事にしてあげてね」

 部屋を覗いて宏明にそう告げると、奈緒美は急いで階段を上がってきて「鍵あけるから、どうぞ」部屋に招いてくれたが……さっき見たシーンがショックで啓子は茫然としていた。

 宏明はなぜ、あんな病人みたいな女の世話をしているんだろう? 仮にも一流企業の部長職だった夫が、こんな安アパートで病人の介護しているなんて! 

 何もかも信じられない状況だった。――いったい夫は何を考えているの?


「どうしたの?」

 部屋の中から奈緒美の呼ぶ声がした。ハッと我に返った啓子は、

「おじゃましまーす」

 お見舞いのケーキの箱を奈緒美に手渡した。

「悪いわねぇー」

 テレたように奈緒美が笑った。『ベネチアーノ』では、いつも突っ張った気の強い彼女だが、今日はノーメイクの素っぴんだから素朴な感じがする。

 奈緒美の部屋は1Kでこじんまりしているが、割ときれいに片付いていた。キャラクター物のぬいぐるみやクッションが飾られて、窓辺にはミニ観葉植物も置かれていた。いかにも女の子の部屋といった感じで、見た目の気の強いイメージとは違って見えた。

《愛美の部屋より、ずっと女の子らしいじゃないの》思わず母親的な審美眼で見てしまう。そんな自分が可笑しかった。

「待っててね、今、お茶入れるから」

 キッチンのテーブルの椅子を勧められて、啓子はそこに座った。

 同じアパートに住む奈緒美なら、宏明と車椅子の女性の関係を知っているかもしれないし……。何か聞き出せないものかと啓子は期待していた。


「あたし……実は仮病で休んでいたのよ」

 紅茶のカップを置きながら、事もなげに奈緒美が言った。たぶんそうだと思っていたので、別段驚きもしないが――。早く宏明のことを訊きたいので、啓子も単刀直入たんとうちょくにゅうに言うことにした。

「奈緒美さん、私、お店辞めます!」

「えっ!」

「私が居るとみんなに迷惑かけるから、ベネチアーノ辞めるんです」

「ちょっと……待ってよ。それってあたしが意地悪したせい?」

 その言葉に奈緒美の方が驚き、動揺したようだ。

「ううん、違います。私ってトロいんで接客業は向いてないって、従妹の愛美ちゃんに言われたんです」

 こんな時には『愛美』の名前を出して……それらしく聴こえるようにカモフラージュして置く、これぞ五十五歳の悪知恵なのだ。

「うーん……せっかく慣れてきたのに勿体ないよ。あたし……石浜さんのこと……もう諦めることにしたんだ」

 そういって、奈緒美は薄く笑った。

「そんな……」

「いくら好きでも……石浜さんはあたしのこと好きになってくれないもん」

 奈緒美はハァーと深いため息をついた。その顔が切なげで辛そうだった。

「ダメ、ダメ! 諦めないでよぁー」

「えぇー?」

「私、奈緒美さんと石浜さんのこと応援してるから諦めないでね!」

「…………」

 奈緒美は黙って、啓子の顔をじーっと見ていた。

 啓子の意外な反応に……。むしろ、面喰ったのは奈緒美の方だった。《この子、いったい何考えてるの?》不思議そうな顔でマジマジと啓子を見つめていた。

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