第八章 恋とはどんなものかしら?

 他にお客もいなくて、ふたりは窓際のテーブルに案内された。赤いガーベラを差したヴェネツィアングラスの一輪差しとキャンドルがロマンティックな雰囲気をかもしだしていた。テーブルの上に置かれた、手描きのメニューをパラパラと石浜は捲ってみてから――。

「この店の料理はホントこだわりのレシピなんだ」

「そうなんですか?」

「俺のイタリア修業時代の先輩シェフなんだけど、素材の野菜から吟味ぎんみして無農薬や遺伝子組み換えしていない食材を集めてるんだ」

「やっぱし! 美味しい料理は素材にこだわるんですね」

 主婦の啓子は野菜の話には興味が湧いた。

「高野さん!『シェフのおまかせコース』お願いしまーす!」

 厨房の方に声を掛けると「おう!」とシェフが軽く手をあげた。ヴェネツィアングラスに注いだお水を運んで来た。高野の妻が啓子の方を見て、

「石浜くんが女の子連れて来るなんて珍しいわね。初めてじゃない?」

「うん。ここは俺の取って置きの店だから、大事な人しか連れて来ないのさ」

「あら、そうなの! 可愛らしいお嬢さんね。わたし高野の家内の理沙子りさこです」

 にっこりと微笑んで挨拶をした。

啓子けいこです。よろしくお願いします……」

 ――てか、なんで石浜の身内みたいな人と挨拶してるんだろう? なんか可笑しな展開だと思った啓子だったが……。

『Una famiglia』の高野シェフは、石浜より五つほど年上でイタリア修業時代には同じアパートメントで一緒に暮らした仲である。まるで兄貴のような存在でプライベートのことで、いつも相談相手になって貰っている。奥さんの理沙子は控えめだが、よく気が利く聡明な女性である。

 独身の石浜にとって高野夫妻のような夫婦が理想で、いつか自分も『Una famiglia』ようなお店を、愛する人と経営したいという夢を抱いていた。


「啓子ちゃん、ワインは飲める?」

「……はい」

「じゃあ、僕は運転があるから……啓子ちゃんだけグラスワイン」

「石浜さん、女の子にあんまりアルコールを勧めてはダメよ」

 理沙子さんがウフフと笑いながら、啓子の前に赤ワインのグラスを置いていった。

 毎日、1.8リットル紙パックのワインを三日で空ける啓子にとって……これっぽちのお酒では物足りないが……もっと飲みたいとも言えないので、ここは我慢だった。トホホ……。

 石浜が連れてきた彼女が気になるのか、高野シェフが前菜のお皿と一緒に厨房から出てきた。

「シェフの高野です。啓子さんよろしく。今夜はわたしの料理を楽しんでいってください」

「ありがとうございます」

 お澄ました顔で啓子も応える。


 前菜は八鹿豚ロース肉のリクル焼き茄子とトマトソース有機ルーコラ添え、そして雪化粧カボチャの冷製スープだった。パンも手作りで素朴な味わいだ。

 美味しい前菜に《これでもっとワインがあれば……》そう思わずにはいられない啓子だったが……。

 高野シェフは啓子に料理の説明を済ますと、石浜に冗談を言ってからかっている。

「しっかしー、ずいぶん若い彼女連れて来たじゃないか?」

「えっへっへ」

 嬉しそうに照れる石浜を見て《実は中身は五十五歳のおばさんだよぉー》心の中でペロリと舌を出す啓子だった。

「あのねぇー、こいつは車とか派手なの乗ってるけど、真面目な奴なんですよ」

「高野さん、その……て、のは余計なんだよっ!」

 石浜が反発して言い返したが、「あははっ」と高野は笑っている。


 その後、パスタはタリアテッレのホタテ貝柱小エビ、オクラのクリームソース。ホタテや小エビの新鮮な魚介類がクリームソースに馴染んでとても美味しかった。《あぁー、ワインが足りないよぉー》空のワイングラスを睨む啓子である。

 メインの肉料理を食べた後、エスプレッソコーヒーとデザートのティラミスを食べたらコース終了――。

「啓子ちゃん、高野シェフの料理は美味しかっただろう?」

「ええっ、とっても!」

 にっこり微笑んで啓子は答えた。その笑顔にメロメロの石浜は満足そうに頷いた。

 しかし……啓子の頭の中では、《ああ、ワインのお代わりが欲しいよぉ~》という欲望以外なにもなかった。《ちくしょうー、もっとワインを飲ませろっ!》まるで酔っ払いのオヤジみたいに――。


 帰りのフェラーリの車内では、カーステレオから、今どき風の軽いJポップが流れていた。さすがに音楽はイタリアオペラって言う訳でもないらしい。――てか、『カルメン』とか『椿姫』なんかBGMで流されたら……食後には、ちょっと胃に重過ぎる。

 ご機嫌な石浜は啓子には分からない、イタリア料理の雑学話なんかを取り留めもなくひとりでしゃべっていた。それに対して啓子は「うん、うん……」とテキトーに相づちを打つが、実はちゃんと聴いていない。これぞ! ながねんの主婦のスキルである空返事からへんじだった。

 よく見ると、愛美が言うように石浜さんって、結構イケメンかも……。漢流ドラマファンの啓子が、お気に入りの韓国スターともちょっと似ているかも……ハンドルを握る、石浜の横顔を眺めていた。

 お店の厨房で働く石浜の姿はいかにも料理人という感じで、厳しい表情で料理を作っている。まさか、こんなに気さくで陽気な男だとは思わなかった。

 ――もしかしたら、これが啓子だけに見せる石浜の普段の顔だったのかもしれない。


 自宅マンションのエントランスの前に着いて、啓子はフェラーリのドアに手をかけ、

「今日はいろいろお世話になりました。美味しいお料理ご馳走さまでした」

 そして石浜の方を向いて。

「さようなら……」

 と、挨拶をした瞬間。いきなり啓子の手をギュッと石浜が握りしめた。

「啓子ちゃんのこと、本気なんだ!」

「…………」

「君は僕の理想の女性だ。一緒に将来のことを考えてくれないか?」

「えっ? えぇー!」

 驚いて、キョトンとしてる啓子の頬に石浜が優しくキスをした。これもイタリア式か?

 その後、しどろもどろ……に挨拶をして逃げるようにフェラーリから啓子は降りた。


 啓子は心臓がドキドキした。

 いくら若返ったからとはいえ、まるで小娘のようだった。

 大学を卒業して、すぐに結婚した啓子は異性とあまり付き合ったことがない。高校は女子高だったし、大学に入ってからは宏明と結婚を前提に交際していたので、当然、他の男性と遊びに行ったりしたことはない。セックスも夫以外とは経験がない。

 それが、今日……夫以外の男性に頬っぺとはいえ、キスをされた!

 啓子にとって天地が引っくり返るほどの衝撃だった。何しろ、世間知らずの箱入り奥さまだから――。

《ど、ど、どうしよう?》動揺して顔が真っ赤になってしまった。

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