第七章 恋のライバル

 翌日、お店のロッカールームで啓子が、『ベネチアーノ』の制服に着替えていると、奈緒美なおみがやって来て、いきなり「昨日はゴメンね!」と、顔も見ないで吐き捨てるように謝っていった。

 たぶん、あの後で石浜いしはまに注意されて、啓子に謝るようにと……言われてきたのだろうか? 明らかに不本意ふほんいで挑戦的な謝り方だった。

 きっと石浜が啓子を送っていったことが気に入らないのだと思うが、その態度が逆に啓子に火を付けた!《なにさっ! 小娘のくせに生意気な態度だわ》自分の見た目年齢を忘れて憤慨ふんがいしてしまった。

 その後も奈緒美が啓子を睨みつけるような視線を感じていた。たぶん石浜のことが、よほど癪に障って、悔しいのであろう。


 そんな時、お客のオーダーをお盆に乗せて運んでいた啓子が奈緒美とニアミス。すれ違い様に奈緒美に足を引っ掛けられて見事に転倒した。

 料理やグラスの飲みものがホールの床中に散乱して、飛び散ったガラスの破片で啓子は手を切って血を流した。慌てて周りのスタッフたちが片付けてくれたが、あたりは騒然とした。

 啓子は半ベソをかきながら、みんなに、「ごめんなさい、ごめんなさい……」と謝って、出血する傷口を押さえていた。

 厨房から石浜が血相けっそう変えて飛び出して来て、店長に向かって「まだ慣れてない子に、こんなたくさん運ばせたら危ないだろう!」と怒って注意していた。

 大した傷ではないが、石浜さんが化膿したら大変だからと……強引に、自分の車で病院まで連れて行ってくれた。


 ――なんと! 石浜の車はだった。

 国産車しか乗ったことのない啓子には驚きのイタリア車である。「料理も車もイタリアが好きなんだ。でも……女の子は日本人が一番さっ!」なんて、キザなこと言って照れくさそうに笑った石浜の顔が妙に可愛いかった。  

 ――こっちもイタリア仕込みかな?

 サラリーマンの妻しかやったことのない啓子だが、シェフって案外と儲かるんだなぁーと、主婦らしく所帯じみたことを考えていた。


 外科病院で診察して貰ったが、啓子の傷はさほど大したことはなく。傷口を洗浄殺菌して化膿止めの薬を貰って病院を後にした。

 日頃、主婦業で小さな切り傷なんか、日常茶飯事の啓子にとって、大げさ過ぎて気恥かしいくらいだった。

 だけど、石浜が心配して病院まで付き添ってくれたから仕方ない。

「大したケガでなくて良かった」

「すいません。わたし、ドジだから……」

 奈緒美に足を引っ掛けられたことは、石浜には黙っておこうと啓子は思っていた。

「なんか、啓子ちゃんの頼りないところが可愛いんだなぁー」

「頼りないって……いつも家族に言われています」

 愛美の顔がチラッと頭に浮かんだ。

「そういう女の子に男は弱いんだよ」

 嬉しそうに石浜が白い歯を見せて笑った。


 野生動物の世界には『ベビーシグナル』と言うモノがあるらしい。たとえば、猪の赤ちゃんウリ坊はシマシマ柄で「自分は弱いから守ってね」と大人の猪たちにアピールしている。

 果たして、猪に「可愛い」という感情があるかどうかは疑問だが、取り合えずウリ坊のシマシマ柄を見ると、大人の猪たちは「守ってあげたい」気持ちになるらしい。

 ――啓子の場合、生まれつき『ベビーシグナル』を搭載とうさいした女なのある。

 その頼りなさ気が……男の「守ってあげたい!」という父性本能を呼び起こし、そんな気持ちにさせてしまう、不思議な魔力があるのだ。――夫の宏明も大学生時代に、ひと目でその魔法にかかった。

 しかし……その魔法は三十年の保証期間ではなかったらしい。――他に女が出来て、今はそっちの方を「守ってあげたい!」と宏明は思っているのだから。


「お腹すかない?」

 フェラーリのハンドルを握っている石浜が、啓子に訊ねた。

「えっ……すこし……」

「この近くに僕の友人がやっているお店があるんだ。そこへ行こうか」

「あの……石浜さん、お店に戻らなくて、いいんですか?」

 啓子が訊ねると、

「他のシェフに任せて早退しちゃったよ。啓子ちゃんとデート出来る、こんなチャンスは滅多にないからね」

 そう言って、石浜は愉快そうに笑った。


『Una famiglia』イタリア語の〔家族〕という名のお店だった。

 石浜のイタリア修行時代の朋友ほうゆうがやっている。イタリア家庭料理のお店で、十坪もないような狭い店内にはテーブルが五客しかなく、ヴェネツィアングラスのランプシェードなど、イタリア風の調度品で飾られた。シックで落ち着いた雰囲気のレストランである。

 完全予約制で一日に十組しか、お客を取らないという、こだわりのお店なのだ。

 突然の訪店だったが、イタリア修業時代の朋友とあって、ふたりを喜んで迎え入れてくれた。このお店はシェフの高野夫妻がふたりだけでやっているのだ。

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