第六章 取り戻した青春

 イタリアン料理店『ベネチアーノ』で働き出して、あっという間に一週間が過ぎた。

 今日は『啓子ちゃんの歓迎会』と言われ、職場の仲間たちと食事をした後、カラオケに誘われた。――愛美はシフトが違うので今日はお休みになっている。啓子は自分ひとりで若者たちとカラオケに行くのは不安だったが、自分の歓迎会と言われては断るわけにもいかなかった。

 カラオケボックスの中は若者たちの歌声で賑わっていた。カラオケなんて、PTAのお母さんたちと行って以来だし……もう七、八年前かしら……。

 そんなことを思いながら、啓子は『ベネチアーノ』の仲間たち八人とで部屋に入った。さっそくカラオケ好きの仲間がリモコンを持って、選曲番号を入力している。

「啓子ちゃんは何歌うの?」

 ホールの最年長、奈緒美なおみに聞かれたが、「あ……まだ、決まってないんで……そのう、後で……」取り合えず、そう言って誤魔化そうとしたが……困った! 五十五歳の啓子には、最近の若者の歌が全然分からない。

 愛美がスマホで聴いている曲を聴かせて貰ったことがあるが、ラップなんかとても歌えないし、耳がついていかない。

 仲間たちはマイクを握って楽しそうに歌っているが、啓子はひとりだけマイクをスルーして、かなり居心地が悪い。

「ねぇー、なんで歌わないのよ」

 奈緒美が啓子を肘で突いてそう言った。カラオケボックスに入ってから、ずっと飲んでいる彼女は、かなり酔っ払っているようだ。

「歌いなさいよぉー、なにか得意な歌ないの?」

 思わず、《演歌》と答えそうになった。

「あのぅー、あたし、すごく音痴で恥ずかしくて……人前では絶対に歌えないです」

「えぇー! 啓子ちゃんって音痴なの?」

 奈緒美が素っ頓狂な声を出して笑った。

「へえぇー、どんな音痴か聴いてみたい。ねぇーねぇー歌ってよぉー」

 啓子にマイクを突き付けて、しつこく絡んできた。《こいつ、うっとうしい!》これ以上、ここに居たらボロがでそうなので……。

「ごめんなさい! わたし叔母にお買い物を頼まれているので、もう帰ります」

 ペコリとお辞儀して「お先でーす。失礼します!」そう言って、逃げるようにカラオケボックスから飛び出した啓子である。――しばらく歩くと。


「啓子ちゃーん」

 誰かの呼び止める声に振り返ると、後ろから男が追いかけて来ている。

「大丈夫? 送って行くよ」

 その男は確か――石浜いしはまさんと呼ばれている『ベネチアーノ』のシェフだった。本場イタリアで三年間修業を積んだという調理人で、まだ若いが厨房を任されて、ひとりで取り仕切っている。あの『ベネチアーノ』の店長でさえ、とても文句が言えない凄腕のシェフなのだ。たぶん歳は三十前後だと思う。

 夜道をひとりで帰すのは、心配だから啓子を家まで送るという石浜と、並んで歩いていた。

「奈緒美はいい奴なんだけど、アルコールが入ると人に絡むんだ。啓子ちゃんに嫌な思いさせてゴメンよ。傷ついたかなぁー?」

「いえ、大丈夫です。気にしてませんから……」

《五十五歳のおばさんが、あれくらいのことで傷つくはずがない》心の中で啓子はそう呟いた。

「カラオケ苦手だったんだ?」

「――人前ひとまえだとあがって、歌えない性質たちなんです」

 そう答えると、石浜は「あははっ」と笑って、

「啓子ちゃんって、今どき珍しい女の子だね」

「そうですか?」

「うん。俺さ、実は君が面接できた時からタイプだなぁーって思ったんだ」

「えっ?」

「誰か付き合っている人とかいる?」

 いったい何を言っているんだ、この人は。《実は夫が……》と言いそうになったが、まだ二十歳の啓子ちゃんに、そんな者がいる訳ないし――。そこは適当に笑って誤魔化す。


 マンションのエントランスまで送ってくれた石浜が別れ際に、

「俺さ、将来、啓子ちゃんみたいな人とイタリアンレストラン経営するのが夢なんだ。あぁ……啓子ちゃんは、まだ若いからゆっくりと考えてくれていいよ。俺のことは……」

 そう言って、手を振って、ニコニコしながら帰って行ったが……。

 あれってどういう意味、もしかして告白なのかしら?

《あたしが若いって? あんたこそ、うちの長女の沙織よりも年下だよ》なんだか、若返った途端にいろいろあるなぁーと啓子は思っていた。


 マンションの部屋に帰ると、愛美が、

「遅いなぁー」

 開口一番、文句を言われた。

「だって、お店のみんなと食事してカラオケに行ってたんだもの」

「食事してくるなら、メールくらいしなさいよ!」

 いつも帰りの遅い娘たちに、啓子が言ってたセリフをそのまま返された。――見れば、キッチンのテーブルにオムライスが二人分置かれてある。

「あらー、愛美ちゃんが作ってくれたの? 美味しそうじゃない」

「せっかく、お母さんの分まで作ってやったのに……」

 愛美はわざと怒った振りして、頬っぺたを膨らませた。

「ごめん、ごめん……」

 どっちが親だか子どもだか分からない。せっかくなので、愛美の作ったオムライスを食べることに、スリムになった啓子は体重のことを気にせずに食べられる。――そう思っていたが、若い頃の啓子は小食だったらしく、胃袋が小さくて、いっぱい食べられなくなっていた。

 それでも、自分に気を使ってくれている愛美の優しい気持ちが嬉しくて、スプーンでオムライスの山を崩していく――。

「石浜さんって、どんな人?」

「あぁー、あの人は凄いシェフなんだよ。うちのお店は彼の料理の腕でってるようなもんだし、それにイケメンだから、女のお客さんにも結構人気あるよ」

「ふーん……」

「石浜さんがどうしたの? なんか言われたの?」

「――告られた」

 ブーッ! 愛美は口に含んだグラスの水を噴き出して、しばらく咳き込んで苦しそうだった。

「ゴホッゴホッ……マジ?」

「うん。誰か付き合っている人いるかって訊かれた」

「――で、お母さん、なんて答えたの?」

「別に……」

「……だけど、それってマズイなぁー、奈緒美なおみさんが、ずいぶん前から石浜さんのことが好きで告ってるって噂だよ」

「そうなの?」

「石浜さんはその気ないみたいだけどね。奈緒美さんって、気が強いからイジメられても知らないよぉー」

「うーん……面倒なことになっちゃったねぇー」

 困ったような顔をしながらも……啓子は《なんだか青春ドラマっぽい》と、能天気のうてんきなことを考えていた。

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