第五章 〔若返りカプセル・二十年〕
リビングの中央で真っ赤に泣き腫らした目の若い娘がいた。
――歳は
姉の
それが誰なのか? 愛美にも想像がついた。
「もしかして……お母さんなの?」
「めぐみちゃん……」
「また、あの薬を飲んじゃったの? なんてバカなことを……」
言い終わらない内に、啓子は愛美にすがって
「お父さんが……お父さんが……離婚するってぇー!」
「落ちついてよ! 何があったの?」
「こんなの……ヒドイわぁー」
送られてきた〔離婚届〕の用紙を見せて、まるで赤ん坊みたいにワアワアと泣きじゃくっている。
――しかし愛美にすれば、そんな紙切れ一枚よりも、二十歳以下になった母親の方が重大な問題である。もしも、このまま元の年齢に戻らなかったらどうするつもりなんだろう?
それにしても娘の年齢よりも若くなった親ってどうよ? なんだか、妹みたいで可愛いじゃないか。愛美は昔から妹が欲しいと密かに思っていたのだ。
そういえば……啓子がよく子どもたちに、「お母さんはお父さんに、大学のサークルでひと目惚れされたのよ」とか、「一緒になれないなら、大学の屋上から飛び降りて自殺するって脅されたから、仕方なくプロポーズを受けたの。本当はもっと遊びたかったのに……」とか、そんな自慢話を何度か聞かされたが、今の、この母の容姿を見たら、それだけ夢中になった父の気持ちも分からなくもない。
たしかに二十歳の啓子は魅力的だ!
それにしても歳月とは残酷で怖ろしい、三十五年後にはあんなメタボなおばさんになってしまうとは……。
母が落ち着くのを待って、今後のことについて母娘で話し合った。
――取り合えず。〔離婚届〕には、絶対に判子を押さないと泣き喚く啓子の意思を尊重して、父が家に戻って話し合うまでは、そのままにして置くことに……そして、アメリカに住む長女の沙織とその家族には今回のことは、出来るだけ内緒にして置こうと決まった。
「――で、お母さん。そんな風に若返っちゃって、これからどうするつもりなの?」
「うーん……どうしよう?」
「いつ薬の効果が切れるか分からないけど……」
「愛美、お母さん外で働きたいわ!」
「えっ?」
「だってぇー、お母さん大学卒業して、すぐにお父さんと結婚したでしょう。一度も外で働いたことがないから、お仕事がしてみたいの」
「お母さんが働くの。大丈夫かなぁー?」
「密かに働くのに憧れていたんだ。ねぇ、いいでしょう?」
そう言って啓子は嬉しそうに微笑んだ。
「そうねー」
目の前にいるのは、自分よりも年下の二十歳の母なのだ。
どうしたものかと心配ではあるが、家にばかり閉じ籠ってるのも辛いと思うから《外に出て働くのも、お母さんの気晴らしになっていいかなぁー》と愛美も思っていた――。
若返って劇的にスリムになった啓子には着る服がない。
取り合えず愛美の服を着せて貰って、ふたりでショッピングに出掛けた。ランジェリーショップでブラとパンティーを買ったが、バストもヒップも小さくなって、ほんの小さな布切れで隠せるサイズになのだ。指で掴めたお腹の太いぜい肉がなくなっている。
洋服は愛美の行きつけのブティックで揃えることに――高級ブランドではなく、若者向きのカジュアルでリーズナブルな値段のお店である。
ブティックの女性オーナーとは顔馴染みの愛美が「田舎から出てきた。あたしの従妹なんだけど、ダサイからイケテル服選んであげてね!」と好き放題に言っている。
女性オーナーは啓子を上から下まで観察して、
「従妹さん、可愛いじゃない。スリムだしフェミニンな感じの服が似合いそうね」
そう言って、マネキンが着ていたワンピースやハンガーに吊るあったジャケットを持ってきて、啓子に手渡した。
それらの服を試着室で着替えて出てきたら、
「おぉー!」
愛美が感嘆の声を上げた。
「まぁー可愛い! とってもお似合いですよ」
まんざら、お世辞でもなく女性オーナーが褒めた。
「うん。気にいったから、これ全部貰う!」
啓子も若返って可愛くなった自分にホクホクしていた。
「ねぇー啓子ちゃん、他にも普段着とか二、三着買って置いたら……」
愛美に言われて、ジーンズやTシャツ、ブラウスなどコーティネイトして貰った服を十着ほど買った。
ここ数年、啓子は肥ってきていたので買う服といえば、体型隠しのダボダボした、腰まで隠れる服が多かった。――それが、こんなピチッと身体のサイズに合わせた服を着られるなんて……まるで夢のようだった。服に合わせて靴とバッグもこのお店で選んだ。
お会計の時、見れば愛美もドサクサにまぎれて自分の服を買っていた。「これも一緒にお会計してね。うちのお母さんからお金を預かってきてるから……。ねっ! 啓子ちゃん」なーんて、調子のいいことを言っている。愛美はそれらしい嘘が上手い娘だ。
マンションに帰ってから、さっそく買ってきた服に啓子は着替えた。
「愛美、お母さんに今どきのメイク教えてくれない?」
ドレッサーの前で、ひとりファッションショーをしながら言う。
たしかに、啓子のメイクはおばさん化粧だ。いまだに紅いリップスティックを塗っている。
「そうねー、そのメイクはダサ過ぎるわ!」
「ダサいって?」
長年、このメイクで慣れている啓子は自分の化粧法に疑問を持ったことがない。歳を取ってきても、若い頃、流行ったメイクに固執するのは、その時代の自分がきっと一番きれいだったという想いが強く――捨て切れないせいかもしれない。
二十歳の啓子は色白で透明感のある肌なので、ほとんどノーメイクだって可愛い。薄くパウダーファンデーションをはたいて、チークをふんわり、ナチュラルなアイカラ―にマスカラはたっぷり塗って、ピンクベージュのリップグロスで艶をだせば出来上がり。
「お母さん、なかなかイケテルよ!」
「へぇー、今どきのメイクってこうやってするんだ。お母さんの若い頃とぜんぜん違うわ」
「そうそう、そのおばさんソバージュも止めて、ストレートパーマかけて、明るい色にヘヤーカラーしたら、もっと可愛くなるよぉー」
五十歳を過ぎた頃から啓子は、髪にツヤとコシ、そして髪の毛が細ってきてボリュームがなくなってきたので、数年前から定番のおばさんソバージュでボリュームを出してヘアースタイルを誤魔化していた。
もう白髪染めなんてしなくてもいいんだわ!
「うんうん。それやってみるね」
すっかり若返って喜んでいる啓子は子どもみたいに、ドレッサーの前でクルクル回って鏡に映る自分を見ている。
その無邪気な姿を見てると《あぁー、救いようのない天然おばさんで、世話のやけるお母さんだわ!》愛美は心の中でため息をつきながらも……父が居ない今、啓子のことは自分が何とかしてやるしかないのだと……娘として、そういう責任を感じていた。
翌日、啓子を自分のアルバイト先のイタリアン料理店『ベネチアーノ』に連れて行った。
丁度アルバイトが人手不足だったので、愛美の従妹という触れ込みで、啓子を店長に面接をさせたら、一発でオーケーだった。
何しろ仕事経験ゼロの母に、果たしてアルバイトが務まるのか心配だったが、さすが主婦歴三十年のキャリアが役に立ってか、意外とテキパキと働いている。――見た目は二十歳、中身は五十五歳のおばさんなのだから――。
そして店のスタッフにも受けが良い。二十歳の啓子ちゃんはマジ可愛いので、注文間違えてもお客も店長も文句を言わない。「あぁー、いいよ、いいよぉー」と笑顔で許してくれている。
それが不服で何だか許せない愛美なのだ――。
「あんたって
娘にタメ口を利かれて、
「だってぇー、啓子ちゃん可愛いんだもーん」
その返答に、ムッとした愛美にひざ蹴りされた。、
「調子の乗るなっ! 本当の歳バラすぞぉー」
若返った啓子は娘から、すっかりタメ扱いされている。夫との離婚問題で深く悩んでいた啓子だが、外で働くのも意外と楽しいものだと思っていた。
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