第四章 〔若返りカプセル・十年〕

 わたし、どのくらい眠っていたのかしら? 

 あのまま床で眠ってしまったけど、ベランダから差すの加減から、どうやらお昼過ぎみたいだ。

 啓子はスクッと身軽に立ち上がった。なんだか身体が軽くなったような感じがする。

 そして鏡を見た瞬間、啓子は驚愕して言葉を失った! 

 こうなることは覚悟していたが……まさか、こんなにも見事に若返った自分と対面するとは思わなかった。たぶん、一年+五年+十年=十六年は若返っている。

 今、五十五歳だから十六歳引くと三十九歳ってこと? 信じられない。まだ三十代の自分に戻れるなんて……シミもシワもほとんどない。白髪だってまだ生えてなかった。――あの頃のわたしだわ。


 丁度、子育てもひと段落して、少しゆとりが出てきた頃だった。当時のママ友の何人かは育児も終えたからと再就職する人も多かったが、啓子はずっと家庭に居て、カルチャーセンターで趣味の絵画教室に通ったり、パソコンを習ったりしていた。

 子どもの学校を通じて親しくなった、PTAのお母さんたちとレストランでお昼のランチを食べながら、夫や姑の愚痴を言い合っていたんだ。

 あぁー、懐かしいなぁー。

 まさか、この歳で夫に浮気されて捨てられるなんて……思ってもみなかった。そう、あの頃は夫とも週に一、二度はセックスだって合ったし、わたしを愛してくれていたのに……。

 もう一度、ここから人生をやり直したいと啓子は心から願った。


 その時、玄関のドアがガチャと開く音がした。

 まさか、宏明が帰ってきたの? どうしよう急に胸がドキドキする!

「ただいまー」

 それは、二女の愛美めぐみの声だった。去年、大学を卒業したが良い就職口が見からないとフリーターをしながら、実家の近くにワンルームマンションを借りて自活を始めていた。

 イラストを描くのが好きで絵の勉強をしているようだ。仕送り代わりに親に家賃を払って貰っているので、アルバイトしながら気ままに暮らしている。

 時たま、気が向いた時にクリーニングに出して貰う服など持って自宅へ帰って来るのだ。

 長女の沙織さおりは真面目で几帳面な性格で結婚して、今は海外で暮らしている。長女と比べて、愛美はマイペースで《我、関せず》な性格である。数年前から、水面下で両親の不仲は知っているようだが、別に気にする風もない。


 ドアを開けて、ダイニングキッチンに入ってきた愛美は、見知らぬ女を見た瞬間、驚いて一歩後ずさりをした。――しばらく、ふたりは見つめ合って。

「誰……?」

「めぐみ……」

 啓子は訴えるような目で、我が子を見た。

「……おかあさん?」

「そうよ。愛美ちゃん! お母さんなのよ」

「どう……したん?」

 世にも不思議そうな顔で、愛美は母親を凝視ぎょうししていた。

 そこに立っている人は小学生の頃に見ていた『お母さん』の姿だった。母の啓子は色白で上品な容貌だったので、小学生の愛美にとって、ちょっと自慢の母親であった。参観日におしゃれした啓子が後ろの方で、小さく手を振ると嬉しくて張り切ってしまう。

 姉の沙織は母親似で色白で華奢だが、愛美はどちらかというと父、宏明に似て大柄でガッチリした体形でお世辞にも美人とは言えない――。

 愛美は、母啓子が長女の沙織を産んだ後に、二度流産をして生まれた子だったので、姉の沙織とは八つも歳が離れているので……二女とはいえ、ひとりっ子みたいに育った。

 大人しいけれど、芯があって自立心の強い愛美を、啓子はいつも精神的に頼りにしているのである。


 ――啓子は愛美に自分が若返った経緯いきさつを話した。

 今さら愛美に隠し立てしても仕方ないので、宏明に女が居て、それでケンカになり、お父さんが家を出て行ってしまった。お母さんは、お父さんに捨てられたと泣きながら娘に訴えた。

 世間知らずの啓子は娘たちにもよく叱られる。いわゆる天然で世間と微妙にズレているらしい。

 人生の選択肢をいつも宏明にゆだねてきた。今回の『別居』だって、一方的に宣言されて、反論することもなく、従うしかない啓子だった――。

 三十年間、平穏な『主婦の座』にえてくれた宏明には感謝すべきであろうか?

 生活のために外に働きに出た主婦たちはそれぞれ大変そうだった。世の中の、波風に打ちつけられることなく、宏明の庇護の元で生きて来られた啓子は幸せな妻だったと言えよう。


 愛美は啓子の話を途中でさえぎることなく、相打ちしながら聞いていた。話の途中で口を挟むと……啓子の話があっちこっちに散らばって収集がつかなくなるのを知っているからだ。《いつまで経っても、子どもみたいな頼りない親》これが日頃、愛美が啓子に抱いてる感想である。

 ひとりでは何も出来ない母親だけど……なんとかしてあげなくっちゃー。

「その薬はどこにあるの?」

 愛美に問われて、まるで点数の悪いテストを見せる子どものように、娘に〔若返りカプセル〕を見せた。

「これ、普通のカプセルに見えるけどなぁー。それにしても信じられない効果だわ!」

 マジマジと啓子の顔を観察して愛美が感心して言った。

「そうでしょう、ねっ、お母さんスッカリ若くなったでしょう?」

 能天気に喜んでいる啓子を見て、愛美はどうしようもないバカ親だと苦笑した。

「お母さん、なに暢気のんきなこと言ってるのよ! もし、その薬に怖ろしいがあったらどうすんの? たとえば、リバウンドで二倍歳を取るとか……」

「えぇー! まさか、そんなことになったら、どうしよう?」

 急に不安になって啓子はオロオロした。

「とにかく……しばらく様子を見ましょう」

「……うん」

「お父さんも居ないんだったら、お母さんも心細いだろうから、しばらく、あたしがここに泊ってあげるわ」

 娘にそう言って貰えて、少し安心した啓子だった。


 あれから一週間経ったが、啓子は若返ったままで、特に副作用とか出なかった。宏明はあれから一度も家に帰って来ない――。

 急に若返った啓子は近所の人に不審がられるといけないので、外出も出来ずに家の中でひっそりと暮らしていた。これではせっかく若返ったのに意味がないと愚痴をこぼすと、思いっきり愛美に怒られた。

「何言ってんの! 急に若返ったこと、近所の人にバレたら不審がられるでしょう? 変な目で見られてもいいの?」

 たしかに愛美の言う通りで、いつ元に戻るか分からないが、これは秘密にして置いた方が良さそうだ。

 一度、ゴミ出しにマンションの部屋から出たら、隣の主婦と啓子はエレベーターで鉢合わせになった。ジロジロとこちらを見ていたので「姉はアメリカの長女の所に行っているので、わたし留守番にきてる妹なんです」と説明した。

 確かに本人だから顔は瓜二つなのに、歳だけがかなり若い。そんな嘘を付くしかない。もし知り合いに会ったら、そう説明するようにと愛美に言い付けられていた。


 やっと――夫から手紙がきた。

 丁度、家を出て行ってから十日目だった。それまで啓子は宏明に連絡を取らなかった……。

 若返って、こんな状態を見られるのは問題だったし、いずれ頭が冷えて帰ってくるものとタカを括っていたのだが……。

 しかし、夫の決意は強かった。手紙を開けると〔離婚届〕の用紙が入っていた。しかも宏明の署名捺印入りであった!

 あまりのことに驚いた啓子だったが、同封の便箋にはマンションの権利書、銀行の貯蓄、株券などの全て財産を啓子に与えると書いてあった。『自分は何もいらないので、黙って離婚届の用紙に判子を押して、役所に提出してくれ。それだけが俺の望みだから……』と宏明の自筆で書かれていた。――夫はこんな歳(六十歳前)で自分と別れて、丸裸になってまで一緒になりたい女がいるのだろうか?

 信じられない! 嘘よ、こんなの!?

 ただの浮気なら黙って目を瞑るつもりだった啓子にとって、夫から送られた〔離婚届〕の用紙は、まさに晴天の霹靂ともいうべき、予想外の行動だった!


 夫の署名捺印入り〔離婚届〕を目の前に突きつけられて、啓子はパニック状態になった。――もう何が何だか分からない! 宏明と離婚するなんて考えられない! 自分はこれからどうやって生きていけばいいのか分からない!

 人生の選択肢の全てを宏明に委ねてきた啓子には、こんな事態にどう対処すれば良いのか、自分では考えられなかった。 

「あぁー、神様! お願い助けてー!」

 泣きながら、神様に祈りながら……啓子はグビグビとお酒を飲み始めた。

 娘の愛美は今日はアルバイトで、その後、友人たちと食事に行ってカラオケをするから、朝帰りになると言って出掛けたのだ。

 もう誰もお酒を止める者がいない、傷心の啓子は正体を無くすまでお酒を煽った。

 そして酔っぱらった勢いで、あれを飲んでしまった! ついに〔若返りカプセル・二十年〕という魔の薬を……。

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