第三章 〔若返りカプセル・五年〕

 ……どのくらい眠っていたんだろう? 

 ベランダから差す陽が少し傾いてすでに夕方になっていた。通常は昼間からお酒なんか飲まない啓子だが、つい腹が立ってやけ酒を煽ってしまった。

 夕飯の支度をしなければと……テーブルから立ちあがった。自分の姿が映った鏡を見て、驚いた! えっ! これがわたし?

 ダイニングキッチンの鏡に近づいてマジマジと自分の顔を見て、さらに驚いた! 

 顔のシワとシミが減っているし、触ってみても肌の張りや弾力が違う。あきらかに五歳以上は若返って見える。

 ――昨日の自分とは全然違うのだ。

「まさか? 本物のだったの!」

 しかも下をむくと二重顎だったのが、顎の周りがスッキリと締まって見える――。

「ま、まさか?」

 慌てて洗面所に置いてあるヘルスメーターに乗ってみたら、

「やっぱし……」


 なんと体重が六キロも減っているではないか。五年前の自分の体重と同じだ――。ここ三、四年の間に急に肥ってきて、どんなにダイエットしても落ちなかった体重が、たった一粒のカプセルを飲んで、それだけで痩せたのだから信じられない。

「お腹のぜい肉も取れて、ウエストもスッキリしたわ!」

 嬉しくて、嬉しくて、狂喜乱舞きょうきらんぶしそうな啓子だった。何度もヘルスメーターに乗って体重を確かめてみる――まさか? 信じられないが、この若返りカプセルは凄い! 

 一番、啓子自身がその効果を実感していた。


 思いがけずダイエットに成功した啓子は、五年前に買ったお気に入りのワンピースを着て、念入りにメイクをすると、宏明の大好きなビーフシチューを作って帰りを待っていた。

 結婚記念日でもないのに、テーブルの上にはお花を飾り、音楽をかけて。そう、宏明の好きな古いジャズ、ブルーノートの『ラヴァーマン』『マイ・ファニーヴァレンタイン』などムーディ曲をかけて、雰囲気を演出しながら、上機嫌で今か今かと……夫の帰りを待っていたのだ。《きっと、夫はわたしを見て、きれいになったって気づいてくれるはずよ》 そんな期待を胸に啓子は待っていた。

 ……それなのに、宏明は十時過ぎにならないと帰って来なかった。


 玄関の鍵を開けて、こっそりと帰って来た。

 昨夜外泊したのでバツが悪く、啓子と顔を合わせたくなさそうだったが……ダイニングキッチンで妻がきれいに着飾って、料理を並べて待っていたのには、かなり面喰らったようだ。

 キョトンとした顔で突っ立っている宏明だが、

「どうしたんだ?」

 今日は何かの記念日だったかぁーと必死で考えている様子だった。

「あなた、お帰りなさい」

 いつになく上機嫌な啓子にも内心ビビっていた。

「ねぇー、あなたの好きなビーフシチュー作ったのよ。一緒に食べましょう」

「う……うん、食事は済ましてきたんだ」

「えっ! そうなの……?」

 先に食べずに、夫の帰りをずーっと待っていた啓子はその言葉にひどく落胆した。

「そう……でも、ビーフシチューだけでも召しあがったら?」

「いや、昨夜は遅くまで会議で……その後は接待なんかで疲れているから、もう寝るよ」

 夫はそれだけ言うと、さっさっと自分の部屋へ引っ込もうとした。

 その態度に、啓子の中でプツンと何かが切れた!


「待ちなさいよっ!」

 啓子の呼び止める声に、ムッとして振り返った宏明。

「なんだぁー?」

「あなた、昨夜はどこで泊ったの?」

「昨夜か? 朝まで仕事で飲んで、サウナに行って、仮眠してから会社に行ったんだ」

 啓子の顔も見ないで、面倒臭そうに説明した。

「嘘ばっかり、そんなの嘘よっ!」

「なんだと?」

「あなた、女が居るんでしょう? 浮気してるのね」

「…………」

「近所の奥さんがスーパーで女と買い物してたって言ってたわよ!」

「それで……」

 別に動揺した風もなく、平然とした態度が余計に啓子を苛立たせた。

「なによっ! 浮気して悪いとも思ってないの?」

 ヒステリックに叫ぶ妻を宏明は冷静な顔でじっと見つめていた。

「あたしに謝ったらどうなのよっ!」

 興奮した啓子は宏明に向かって、大声で怒鳴った。

「分かった! 俺は悪いと思ってないから、もう家には帰ってこないさ」

「えっ! 何よ、それどう意味なの?」

「別居しよう。必要な荷物だけ持って俺が出て行くから……」

「……あなた、ちょっと待ってよ!」

 宏明の意外なほど、頑と態度に面喰ったのはむしろ啓子の方だった。まさか夫が出て行くなんて言い出すとは……予想もしていなかったからだ。

 そう言うと宏明は自分の部屋から着替えや書類などを旅行鞄に詰めて、さっさっと家から出て行ってしまった。――たぶん、以前から心づもりしていたのだろうか……。


 ……わたしは捨てられたの?

 余りのことに茫然自失の啓子は、宏明を引き留めることさえ出来なかった。

 そのまま床に崩れるように啓子は泣いた。三十年以上も連れ添った夫から、いとも容易(たやすく)自分は捨てられてしまったのだ。

 信じられない! まるで夢を見ているようで現実のことだと思えない。

 宏明の携帯にかけて、なにか喋ろうかと思ったが頭が混乱して、言葉が出てこないし、今だと何を言い出すか分からない自分が怖かった。啓子は自分を捨てた宏明よりも、自分を捨てさせた宏明の相手の女が憎かった!

 今日のわたしは若返ってきれいになっていたはずなのに……夫は気づいてもくれないし、全く興味すらわたしにはない。きっと相手の女はずいぶん若いんだわ。

 近所の主婦に幾つくらいの女か聞けなかったのが残念だ。何しろ従妹と言った手前、その女の年齢容姿など聞けなかったのが悔しい。

 六十歳近い夫が、夢中になるのだから……四十代くらいかも知れないわ。

 憎らしい、憎らしい、その女が憎らしい!


 啓子は〔若返りカプセル・十年〕を指で摘まんで、水も飲まずに唾で飲み下した。途中、食道に詰まるような感じがして苦しかったが……慌てて、グラスのワインで流し込んだ。

 いつものことだが、カプセルを飲んだ直後に急激な睡魔に襲われて、啓子はそのまま床に倒れ込むようにして眠ってしまった。

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