色の月

9/1 常世鍋

9月に入ったからか、日が落ちてからの気温が急激に下がるようになってきた。


半月ほど前は夜でも暑くて冷房をかけないと眠れないほどだったのが、昨晩は窓を開けるだけで快適に眠る事が出来たのだ。

これから段々と気温が下がっていき、空気も乾燥を始め、季節は冬へと移っていくのだろう。

私が産まれた場所は年中枯れた秋のような季節の場所だったが、この国の秋は彩が鮮やかで、尚且つ稔りのある秋なので羨ましい。

私の故郷にもこの国のような稔りがあれば、今頃はもっと変わっていたのかもしれない。


そんな哀愁を抱きながら、スーパーの鮮魚コーナーで魚を物色する。

駄目だな、ピンと来る物が無い。

秋刀魚が一昨日までは150円を越えていたのが100円になっているが、よく見ると一昨日までの鮮魚としてではなく、頭と腹を落として塩を振った状態で出されている。

鰈や鯖もそのままではなく切り身になっている所を見るからに、恐らく鮮度はあまり高く無い。

刺身コーナーはいつも余っている水タコと柵になった中トロしかなく、今の気分ではない。

折角夜が寒くなってきたので夕飯は鍋にしようと思ったのだが、これといって鍋にして食べたい魚介類が無いのだ。

一応、生の帆立や牡蠣はあるのだが、鍋物の主役に貝類を持ってくるのはなんだか違う気がする。貝類は優秀な補佐役であり、主役にするには能力が高すぎる。

貝類は鍋のような雑多にしてしまうのではなく、単体で丁寧に料理して食べたい。

帆立ならカルパッチョがいいだろうし、牡蠣ならば牡蠣フライか炊き込みご飯だ。

特に牡蠣フライはこれでもかとソースをかけて頬張りたいな。

噛み締めたカキフライの中から溢れる肉汁と、衣が吸ったソースとが口内で混ざり合い、カキフライは舌の上でワルツを奏でる。

噛む、溢れる、混ざる。

噛む、溢れる、混ざる。

この三拍子で旨味が舞い踊り、体中が得も言われぬ幸福感に包まれる。

牡蠣フライは人類を幸福にさせる料理に違い無い。正に海の幸という物だ。


と、いかんいかん。今日は鍋の気分だったな。牡蠣はまた今度だ。


仕方なく、魚介類は諦めて肉コーナーへと周る。

最近のこの店の肉コーナーはバーベキューを意識した適度な大きさに切った牛肉が多く、それ以外の肉は少ない。

豚肉と鶏肉もある事にはあるのだが、牛肉が7、それ以外が3という感じで牛肉の割合が高い。

この割合を見ると牛肉をごり押ししているだけのように思えるが、ただ無駄に牛肉を増やしているわけではなく、ちゃんと国産牛の高い物から安い物まで揃えているから交換が持てる。

大きさも大小様々で、この間など30kgの塊を『購入者の希望通りにカットします』と書いて置いてあった。あのまま丸焼きにしたらどんな味がするのだろうか。


と、牛肉談義を始めようかと思ったのだが、棚の端に置いてある薄切りの豚肉が目に入った。

恐らくは豚の生姜焼きに使うだろう、ロース肉を3mmほどの厚さにした豚肉だ。

鍋で肉と言えば鶏肉を使う水炊きが真っ先に思い浮かぶのだが、以前何かで見た豚肉と葉物野菜を使った鍋を思い出す。

作り方はほぼ水炊きと同じだが、水の代わりに日本酒を使用して作る、少し贅沢な常夜鍋だ。



肉を買い、冷蔵庫にあった白菜とほうれん草を切り、携帯用コンロの上に土鍋を置いて準備は万端だ。

後はこの鍋に出汁を取るための乾燥昆布を入れ、鍋の半分程まで日本酒を注ぎ、火をかけ、沸騰したら野菜を入れ、野菜が煮えたら肉を入れる。

改めて細かい作り方の明記をする必要も無い、簡単な作り方だ。

後は煮えた物をポン酢で食べる。


これがなんとも美味い。


これは野菜を茹ですぎないほうが良いな。多少生のままで歯応えがあるほうが良い。

細切りにした白菜とほうれん草を鍋に入れ、すぐさま箸で豚肉を掴んでしゃぶしゃぶのように鍋の中で揺らす。

そして肉の色が変わったら先程入れた野菜を肉で包み、汁が垂れるのを構わず受け皿に注いだポン酢に浸して口へと運ぶ。


ああ、やはり美味い。この食べ方が正解だ。


肉で巻かれた野菜を運ぶと共に、口内には沸騰した酒とやや薄まったポン酢が広がり、これから来るであろう旨味の洪水に備えよという合図が脳内に伝わる。

そして豚肉と野菜を一度に噛み締める。すると豚肉から甘さを感じる肉汁が滴り、次に野菜の甘さとシャキシャキした歯応えが続く。

それぞれが単独で実力を備えているのだが、それが口内で合わさり、混ざり、一つの完成された味の塊として口内を満たして行く。


これは本当に美味いな。水炊きよりもこっちのほうが好きかもしれない。

水ではなく酒を使うのでやや勿体無い気もするが、パック入りの鍋のつゆを買って使うのだと思ったら同じぐらいだ。

それに、特に調味料を使っているわけでもないので数日程度なら使い回すことも可能だろう。

ん?もしや、単純に美味いだけでなく、こうして使いまわす事も含めて『常世鍋』なのか?

その可能性もあるかもしれないな。

だが、本来の意味の『毎晩でも食べたくなるから常世鍋』という理由も納得が行く美味さだった。

魚介類の鍋を諦めて正解だったかもしれない。


常世鍋。単純ながらも素材の味を引き出す鍋として、中々に高い水準を誇る鍋だな。

この美味さは未来永劫、永遠に変わらないのだろう。

折角だ。永遠とはいかないが、汁が使えなくなるまで毎日食べてみるとするか。

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