7/10 天丼

私の尊敬する人間の一人に、


「俺にとって天丼は水だ。何時飲もうが自由だろうが」


と言いながら、どれだけ満腹でも、どれだけ時間に余裕が無くとも、知らない天丼屋を見掛けたら迷わず店に入って天丼を食べる御方が居る。


頼むのは必ず天丼。

海老の天麩羅を主とし、獅子唐の天麩羅や大葉の天麩羅が彩りに添えられるだけの基本の物。

決して盛合せ天丼やかき揚げ丼にはせず、海老の天麩羅が載っているから天丼なんだと、頑なに天丼以外を頼まない拘り様。

私はその姿に憧れ、その背中に並び立つ事の出来る存在になろうと、毎日意識して過ごしている。


そして今、買い物のついでに寄った商業ビルの惣菜屋が集まる階層の片隅に、小さな天丼屋があるのを発見した。


関西では商店街や商業ビルに一軒はカウンター席のみの天丼屋があるらしいが、ここ東海では天丼のみを出す店は珍しい。

天丼を食べようと思った場合、うどん屋や蕎麦屋に行くのが一般的で、天丼のみを気軽に食べられる店はそうそう無い。

東海の飲食店は複数の商品を提供する店が多く、専門店というのが少ないのも影響しているのだろう。


そんなこの辺りでは珍しい天丼の専門店だ。まずは偵察とばかりに店外の柱に貼ってあるメニュー表を見る。

メニューは天丼と天麩羅定食の二種類のみで、値段と季節で天麩羅の内容が変わる分かりやすい品揃えだ。

天丼は並で550円であり、海老の天麩羅が二本と野菜の天麩羅が二つ載っている

。専門店で食べる天丼と思うと安いのではないだろうか。


あの御方に聞いた話では関西でも天丼は500円から600円の間の価格帯らしく、海老の天麩羅が三本乗っているが揚げ方が雑だとか、逆に二本だが揚げ方が丁寧だとか、値段だけでは計れない店の価値があり、千差万別だと仰っていた。

中には350円で海老の天麩羅が二本載っているという恐ろしい店も存在するらしい。


又、天丼屋は朝と夜で味が変わるので、日に二度来店しないと本当の味は分からないとも言う。

天麩羅を揚げる油が新品か劣化しているかの違いらしいのだが、店によってはその油の具合によって天麩羅を通す天つゆの味付けを変えるらしい。


天丼は上に乗せる天麩羅の具だけでなく、揚げ油、天つゆ、時間帯、これらによって味が変わるという事であり、常に変化する食べ物だ。とても奥が深い。


今日から私も、その奥深さに触れるとしよう。


先ほど昼食にカレーを食べたばかりなのだが、あの御方ならばそんな事はお構い無しに席に着いて天丼を頼むはずだ。

あの御方の背中を追うからには、まずは何時如何なる時でも天丼を食べられるようにならなくてはいけない。

そう決意し、暖簾を潜り、席に着く。

直ぐに給仕さんお茶を持って現れるので、メニューを見ずにすかさず注文する。


「天丼ひとつ、並で」


私は走り始める、この果てしなく長い天丼道を。

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