大乱闘! 肉じゃがクッキング

 ミスコンにおける一発逆転の秘策として、ハンロ高校のみんなにミヤビ様の手料理を振る舞ってみてはどうかと提案したのは他ならぬ僕自身だ。

 しかし、授業を二限から堂々とサボって――いやサボらされて、ちょうど空いていた家庭科室に呼び出された僕は、自分の提案を激しく後悔していた。


 別に授業を受けたかったわけじゃない。勉強も授業も決して好きではないけれど、でもサボるのは今日が初めてだ。でも、サボらされたこと自体は後悔の大きな要因ではなかった。

 ミヤビ様の料理に不安があるわけでもない。食べさせてもらったことは一度もないが、彼女自身が毎日美味しそうに食べているんだから、ミヤビ様が特殊な味覚の持ち主でもないかぎり、味に関してはまあ心配はないはず。


 にもかかわらず、何故だろう、根拠は全くないけれど、何だかどうも嫌な予感がするのだ。


 ミスコンの投票期限を翌日に控え、家庭科室には既に僕とロザリー、主役のミヤビ様、そしてアイちゃんの四人が集まっていた。あとはレイさんが最後の食材を運んでくるだけ。家庭科室に並ぶ計8つの調理台は全てIH。調理台の上には、僕が運んできた魚、ロザリーが運んできた調味料、アイちゃんが運んできた果物などが、最寄りのスーパーのロゴがプリントされたビニール袋に入ったまま投げ出されている。

 ちなみに、支払いは全てレイさんの黒いクレジットカードを使わせてもらった。所謂ブラックカードである。超セレブしか持てないやつ。


「材料はこれで全部かい、雅」


 と、レイさんが両手にどっこい食材を抱えて家庭科室に入ってきた。ビニール袋の中身は牛肉、じゃがいも、玉ねぎなど。ミヤビ様からの指示は買ってくる食材だけで、どんな料理を作るのかまでは聞かされていない。が、あの材料から察するに、肉じゃがでも作るのだろうか。1000人分の肉じゃがなんて見たこともないな……。

 ミヤビ様は長い脚を優雅に組んで、調理台に腰掛けている。


「ええ。ありがとう、レイ」


 彼女の口から『ありがとう』なんて言葉を聞いたのは初めてなんじゃないか? もしかしたら明日は雪が降るかもしれない。

 ミヤビ様はおもむろに調理台から降りて揃った食材を確認する。そして、クリーム色のブレザーを悠然と脱ぎ捨て、シャツの袖を肘までまくって宣言した。


「さあ、作るわよ。ところで皆、料理の経験は?」


 ミヤビ様の唐突な質問に、僕達四人は顔を見合わせた。誰一人、手を挙げるどころか口を開く気配すらない。少なくとも僕は全然できないぞ。


「……え、もしかして、誰もできないの……? アイちゃんは?」

「私、食べることにあんまり興味がなくて……」

「ロ……ジュエラーは?」

「私も全然。自分ですることはないかな」


 表向きは宝石商の大富豪シンハライト家の令嬢ということになっているロザリーにとって、この返答が最も正しい答えになるだろう。

 最近シンハライト邸に移り住むまでずっとマナ研究所で暮らしていたロザリーには、たしかに料理をする機会はなかったはずだ。


「モーリスは? 家庭科の授業とかでやってるでしょ?」

「んまあ、やったといえばやったけど、もうほとんど覚えてないし、家では全くしないよ」


 ミヤビ様は深いため息をつきながら、がっくりと肩を落とした。役に立てなくて申し訳ないとは思うけど、逆に僕を戦力として期待していたんだとしたらそれは大きな勘違いだと断言できる。

 項垂れるミヤビ様に、レイさんが呑気な声をかけた。


「あれ、僕には訊かないの?」

「……訊かなくてもわかるわよ。どうせ一度もやったことないんでしょ」

「うん。全くもってその通り」

「はあ、参った。まさか誰一人として料理ができないとはね……でも、落ち込んではいられない。現有戦力で何とかするしかないわ。じゃあ、魚は私が捌くから、肉はアイちゃん、野菜はモーリスとジュエラー。レイは鍋とかの用意と、それが終わったら調味料を私が指示した分だけ量っておいて」


 僕たちはミヤビ様の指示に従ってそれぞれの調理台につき、食材を取り出してまな板に載せた。僕とロザリーの担当は野菜。目の前には、ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、生姜など大量の野菜が転がっている。これらすべての野菜の皮をむき、一口大に切るのが僕らのミッションだ。

 野菜を切るのは単に適当な大きさに分割するだけだから簡単なのだが、皮をむくのは手間がかかるし面倒くさい。切るのはロザリーに任せることにして、僕はピーラーを手に取った。


「じゃあ、僕はどんどん野菜の皮をむいて置いていくから、それを適当な大きさに切ってくれる?」

「うん、わかった」


 ロザリーは頷き、引き出しから包丁を取り出す。

 白くか細い手で包丁を握りながら、鈍く光る刀身をじっと見つめるロザリー。しかし、そのどこか虚ろな眼差しに危ういものを感じた僕は、慌てて彼女から包丁を取り上げた。


「や、やっぱり、僕が切るから、皮むきのほうをお願いしていいかな?」


 ロザリーはきょとんとした顔で僕を見返すが、その瞳はまだ胡乱で、微妙に焦点が合っていない気がする。なんかちょっと上の空という感じ。


「え、そう? わかった……」


 彼女に刃物を持たせるのはヤバい――僕がそう心に刻んだその時、別の一角から蚊の鳴くような悲鳴が上がった。今度は一体なんだ!?


「ひ、ひぃ……にゅるにゅるする……」


 肉の担当のアイちゃんである。彼女はまな板の上に放り投げるようにして包丁を置くと、唇をわなわなと震わせながら自分の両手を見つめている。


「あ、赤い……血……」


 新鮮な生肉を買ってきたのだから少しぐらい血がついているのは当然なのだが、彼女は手についたそのほんの僅かな血に対して、ちょっと異様に思えるほどに怯えていた。

 僕は慌ててアイちゃんに駆け寄った。


「ちょっと、どうしたのアイちゃん、顔色が悪……いのは元々か、なんか、悲鳴が聞こえたけど」

「血……ダメなんです、私……」


 だったら肉の係は断りなよ、とは思ったが、今はそんなこと言ってる場合じゃない。


「じゃあ、肉は僕が切るから、アイちゃんは野菜の方をお願いしてもいいかな?」

「は、はい……役立たずですみません」


 アイちゃんを野菜の係に回し、まな板の上の肉に包丁を当てたところで、今度はミヤビ様の怒号が飛んだ。


「おい! レイ! あんた、調味料はちゃんと量って準備しなさいよ!」


 振り返ると、鬼のような形相のミヤビ様が、彼女の向かいの作業台に立つレイさんに包丁を向けている。新鮮な鯖を捌いているミヤビ様の包丁はうっすらと血の色に染まっていて、見様によってはなんか修羅場のように見えなくもない。

 怒られている当のレイさんは、涼しい顔で小皿へ塩を山盛りにしていた。料理に使うというより、魔除けの盛り塩みたいな感じである。


「え? 塩なんて、適当に入れても美味しくなるもんじゃないの?」

「ならないわよ! 塩加減こそ料理の肝なんだから。濃すぎても薄すぎても不味くなるの。分量のメモはちゃんと渡してるでしょ?」

「そうなの? 不味い料理なんて食べたことないからわからないな……でも、結局雅が味付けするんだから、念のため多めに用意しといてもいいんじゃない?」

「私一人分作るだけだったらそれでも失敗しないけど、今回はめちゃめちゃ量が多いの! 時間も足りないし、ちゃんと分量を計算して量って入れないと味が狂っちゃうのよ! ほら、それ最初からやり直し!」




 そのまま暫く、誰も一言も発することなく黙々とそれぞれの作業を続けていたのだが、調理を始めて三十分ほど経った頃。静寂を切り裂くように、


「あああああああっ!!」


 突然ミヤビ様が奇声を上げた。僕たちは一斉に顔を上げ、ミヤビ様を見る。


「無理! むりむりむりむり!! このままじゃ絶対お昼までに間に合わないわ!!!」


 ミヤビ様は叫びながら両手をまな板に叩きつけた。鯖を捌き終え、下処理も済ませた彼女は、さっきから生姜を刻み始めたところ。細く刻まれた生姜が、ミヤビ様の拳の振動でびくりと震える。

 まあ調理を始めた頃から薄々わかっていたことではあるけれど、ミヤビ様の言う通り、昼休みまでの料理の完成は最早絶望的な状況だった。手際よく魚を捌き終えたミヤビ様はまだ何とか予定通り進んでいるかもしれないが、やはり問題は他のメンバーである。

 ロザリーとアイちゃんの野菜はまだ全体の半分も終わっていない。ピーラーを握るロザリーの手はたどたどしく、血が苦手なアイちゃんは自分の指を切ってしまうことを恐れるあまり、慎重に進めすぎて全く捗らない。もし本当に指を切って出血でもしたら発狂しかねないから急かすわけにもいかないし。

 レイさんは量りと格闘中。不慣れとはいえ調味料を分量通りに分けるだけの作業に何故そんなに時間がかかるのかと思ったが、どうやらミリグラム単位まで正確に計量しようとしているらしい。別にそこまでシビアな計量を求められているわけじゃないはず。ちょっと極端すぎやしないだろうか?

 かく言う僕だって、まだ全ての肉を切り終えてはいない。にゅるにゅると動く生肉をミヤビ様の指示通り一定の大きさに揃えて切るという作業は、家庭科の授業でしか包丁を握らない僕にとっては極めて難易度の高いものなのだ。


 全員こんな調子だから、ミヤビ様が苛立っていることは何となく空気で伝わってきてはいたが、ついにそれが爆発してしまったのだ。

 鯖味噌と肉じゃが。煮物料理であるこの二つをメインに据えてしまったことも災いした。煮物は時間がかかるのに、まだ材料の準備すら終わっていないのだ。しかし彼女にとっての最大の誤算は、四人の中で料理の経験がある者が誰もいなかったということに尽きるだろう。事前に確認しておけばこんなことにはならなかったはずだけど。


 僕たちは一旦手を止め、がっくりと肩を落とすミヤビ様を見つめた。鯖はもう煮込む準備ができているようだが、レイさんの調味料の準備がまだ終わっていない。鯖味噌と肉じゃがの他にもあと一、二品軽いものを作る予定だったらしいが、そちらの材料はまだ全く手つかずだ。


 ミヤビ様はおもむろに顔を上げ、今度は家庭科室の白い天井を見上げると、一つ深いため息をついた。

 これでミヤビ様の、そして僕達のミスコンも終わった。中途半端な形で終わってしまうのは残念ではあるけれど、まあ当初のエントリーすら絶望的だった状況から考えれば、よく頑張ったと言える。総括するとそんなところではないか。問題はこの大量に余った食材をどうするか。スタッフが美味しく頂くにはあまりにも量が多すぎるし――。


「モーリス、アイちゃんのメガネを奪いなさい」


 と、一足早く感慨に耽っていた僕に、ミヤビ様は天井を見上げたまま命令した。しかも、その内容は料理とは全く関係なく、またさっぱり意味のわからないものである。

 え、どゆこと? 僕は困惑して聞き返した。


「え? メガネ? どうして? メガネをとっちゃったら、アイちゃんは手元どころか何も見えなくなっちゃうんじゃ……」

「いいから早く! 言う通りにしなさい」


 はいはい、やればいいんでしょやれば。

 ミヤビ様に逆らうことができない僕は、同じく状況が飲み込めず呆然としているアイちゃんの背後に忍び寄り、


「ゴメン、アイちゃん!」


 謝りつつも、アイちゃんの分厚いメガネをそっと外した。


「え、あっ? あれ、な、なにも見えない……か、返してください、私のメガネ!」


 彼女はそう言いながら両手を振り回すが、それは僕のいる場所とは正反対、全く見当外れの方向だった。本当にメガネ外すと何も見えないんだな……。

 裸眼のアイちゃんを見るのは初めてだが、ヘーゼルの瞳にぱっちり二重で、意外と言ったら失礼だけど、そこそこカワイイなと思った。普段からコンタクトで過ごしていれば、もしかしたら性格に問題があるミヤビ様より簡単に五人の推薦人を集められる素材かもしれない。

 なんてことを考えていると、再び活気を取り戻したミヤビ様の声によって、僕の意識は現実に引き戻された。


「二人とも、残ってる材料を上に放り投げて!」


 そう、問題はアイちゃんのメガネをわざわざ外して何をするのかということだ。メガネのないアイちゃんと、彼女のメガネを持った僕。単純に二人分の人手が減ってしまったわけだが……レイさんとロザリーは指示に従って、まだ切り終えていない肉や野菜を次々宙に投げ上げる。

 すると、ミヤビ様はすっと目を閉じ、瞬時に集中力を高めた。


「スノー・フェアリー!」


 放り投げられた材料が重力によって落下を始めるその刹那、ミヤビ様の周囲に発生した小さな氷の結晶が、材料目がけて手裏剣のように飛んでいく。なるほど、そういうことか!

 宝石のように輝く氷の結晶たちは、微妙に軌道を変えながら材料の周囲を飛び交い、野菜の皮を削ぎ落し、また剥き終わった材料を正確に一口大にカットしてゆく。その間にもロザリーとレイさんは次々と残った材料を氷の結晶に向かって放り投げた。これをアイちゃんに見られないよう、彼女のメガネを外させたのだ。


 僕とロザリーとアイちゃんが何十分もかかっても終えられなかった作業を、ミヤビ様の氷の結晶はたった数十秒でやってのけてしまった。


「レイ! キャッチ!」


 ミヤビ様の掛け声に応じて、特製の大鍋を持ったレイさんが、落下する食材を回収する。肉じゃがの材料の下ごしらえが一瞬で完了し、あとは煮込むだけという状態になった。そして、今度は雪の結晶を大鍋の上に集め、ミヤビ様が叫ぶ。


「レイ! 溶かして!」

「了解!」


 レイさんは鍋を置き、どこからか得物の曲剣を取りだすと、剣に炎を纏わせた。


「奥義・魔炎天翔まえんてんしょう!」


 レイさんがそう叫びながら曲剣を一振りすると、その軌跡から放たれた炎が氷の結晶を包み、溶けた水が大鍋の中に注がれる。水道から直接水を溜めようとすると結構時間がかかる量だが、二人の華麗な連携プレーで大幅な時短に成功してしまった。


「え? ええ? 一体何が起こってるんですか?」


 二人の掛け声にアイちゃんは困惑しているが、世の中には知らない方がいいこともある。現在この家庭科室で繰り広げられている極めて非科学的な現象を見てしまったら、彼女はきっと色々な意味で普通の生活を送れなくなるだろう。

 続いて、水が満たされた鍋を煮立たせるべく、ミヤビ様が次の指示を出す。


「レイ! 全力で鍋を沸騰させなさい!」

「わかった、全力だね! じゃあ僕のとっておきを見せてあげよう……」


 レイさんはそう呟くと、二本の曲剣を腰の高さでバツの字にクロスさせ、おもむろに瞑目した。考えてみれば、今までの戦闘の中でレイさんはミヤビ様のサポートに回ることが多かった。レーヌの襲撃のときも、グリーンフォレストのアジトに潜入したときも、矢面に立って戦うミヤビ様の後ろで、レイさんは僕とロザリーを守ってくれていたのだ。

 だから、レイさんの戦闘能力は僕たちにとってまだ謎が多い。その一端が、ついに見られるのだろうか。


 レイさんの曲剣が朱色の光を放ち始める。

 僕は息を呑んでそれを見守った。

 数秒の沈黙の後、レイさんはカッと目を大きく見開いた。いつもの仮面のような微笑は消え、まさに鬼気迫る表情で、彼は叫ぶ。


「秘奥義! 綾剛炎舞りょうこうえんぶ!」

「ちょ!! レイ!! ストップ!!!!!!」


 と、ミヤビ様が慌てて止めに入ろうとしたが、既にレイさんの剣は舞い始めていた。曲剣から伸びる、さっきの技とは比較にならないほど凄まじい炎の帯が、目にも止まらぬ速さで次々と大鍋に襲い掛かる。


「屋内でそれを使うなあああああっ!!!」


 ミヤビ様の絶叫にもお構いなしで舞い続ける炎の柱は、大鍋の中身を一瞬で沸騰させ――たのはいいが、それだけに止まらない。家庭科室にある可燃性のもの、カーテンや木製の調理台などが、なんと一瞬にして炎に包まれてしまったのだ。

 とっておきの秘奥義を出し尽くし、満足そうな笑みを浮かべるレイさん。しかしもう料理どころではない。家庭科室はすっかり灼熱地獄と化していた。

 家庭科室に入ったときから感じていた、嫌な予感の正体はこれだったのか……!


「いや~! あっつ! あっつ! 消火器! 消火器!」


 こういう状況で一番頼りになるはずのミヤビ様だが、レイさんを止めようと近付いていた彼女の制服にも炎は燃え移っており、悲鳴を上げながら消火器を探して走り回っている。


「そういうの、得意の氷で消せないんですか!?」

「うっさいわね! 集中できないと無理! ああ早くモーリス、消火器持って来て!」


 チリチリに焦げたポニーテールの毛先を振り乱しながらミヤビ様が叫ぶ。そんな急に言われても、消火器なんか普段使わないんだからどこにあるかわかるわけないじゃないか。

 ただこの状況でミヤビ様の能力が使えない以上、他に方法はなさそうだ。とはいえ、消火器を探すにも火の勢いが強く、満足に身動きが取れない。

 その時、いつの間にか隣にいたロザリーが僕に耳打ちした。


「大丈夫。モーリスは私の傍にいて」

「えっ?」


 すると、ロザリーはどこからともなく小さな剃刀を取り出す。繊細な輝きを放つホワイトオパール製の柄に、薔薇のモチーフがあしらわれた刃。彼女のための特注品だと一目でわかる豪奢な剃刀を右手に握り、その刃を左の手首に当てた。

 蛍の群れのように柔らかく温かみのあるマナの光が僕たちの周囲を取り囲み、ロザリーは剃刀を静かに引く。


 これがロザリーの新しい力。集めたマナの力を自分の血と反応させ、自由自在に操ることができる。直接目にするのは三度目になるけれど、おそらく何度見ても慣れるということはないだろう。

 ロザリーの白い手首に一筋の赤い傷が生まれ、そこから滲む血がぷっくりと丸く膨らみ始める。

 そして次の瞬間には、ロザリーの血に反応したマナが凄まじい濁流となって家庭科室の中を暴れ回っていた。

 滂沱となった血液は燃え盛る炎を瞬く間にかき消し、炎の朱よりなお赤く、赤ワインのような濃赤こきあか色へと塗り潰してゆく。

 血の濁流が収まった後、そこに残されていたのは、血まみれになって項垂れるミヤビ様と、ミネストローネになった肉じゃが、そして赤く染め上げられた家庭科室だった。


「メガネ、メガネ……」


 視界の隅でアイちゃんが、いつの間にか床に落としてしまっていたらしい彼女のメガネを拾い上げてかけ直す。ヤバい、この光景を見られてしまったら――!

 と一瞬肝が冷えたが、


「ひぃぃぃぃぃぃっ!! 血!? ち……」


 彼女は血に染まった室内の光景を目にした途端に気を失ってしまった。アイちゃんに見られると困るものがこの部屋には多すぎるので、これは全く都合がよかった。

 部屋を染めた血液の正体はマナのエネルギーなので、ロザリーが集中を緩めれば、すぐに揮発して大気と同化してしまう。アイちゃんが気絶した直後には、家庭科室を染めた紅は元に戻っていた。とはいえ、焼けたカーテンや焦げた調理台まではどうしようもなかったけれど。




!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i




 焼けた家庭科室の噂は翌日には全校生徒の知るところとなっていたが、原因の調査や犯人捜しが行われることすらなかった。きっと学長のダイヤモンド侯爵が事情を察して、内々で処理してくれたのだろう。

 持つべきものは理解ある校長。ダイヤモンド侯爵がロザリーの伯父でなかったらどうなっていたかと考えるとゾッとする。


 そして本題のミスコンである。

 全校生徒に手料理を振る舞う作戦が失敗に終わったミヤビ様は、死んだ魚のような目で一日を過ごしていた。制服は当然真新しいものに変わっている。昨日と比べると髪も少し短くなったような気がする。おそらく焦げた毛先を切ったのだろう。


 ミスコンの投票の集計データは校内のどこかにあるパソコンに収められているというが、それがどこのパソコンなのかまではわからない。

 投票の締め切りは今日の夕方五時。専用webページの投票フォームを使っての投票なので、開票作業等もなく、専用webページ上で締切とほぼ同時に結果が発表される。夕方のホームルームが終わって少しダラダラしているとちょうどいい時間だ。だから、普段はホームルームが終わったらすぐ部活や家路につく男子生徒たちも、今日だけは教室に残っていた。レーヌの優勝はまあ間違いないとしても、二位以下の順位がどうなるかは予想が分かれているためだ。


 しかし、ミヤビ様はその結果発表を待たず、授業とホームルームが終わるとすぐに教室を出て足早に玄関へと向かって行ってしまった。

 ロザリーは今日学校を休んでいるし、レイさんは昨日やらかした影響でミヤビ様に完全に無視されており、つまり話し相手は僕しかいない。あんなに意気消沈したミヤビ様を見るのは初めてで朝からなかなか声をかけられずにいたのだけれど、さすがに放ってはおけないと感じた僕は、彼女の後を追って教室を飛び出した。

 玄関を出て校門に向かう途中でようやく追いついた僕は、彼女のいつもより小さく見える背中に呼び掛ける。


「ミヤビ様!」

「……ん?」


 ミヤビ様はぼんやりとこちらを振り返った。


「なんだモーリスか。どしたの、そんなに慌てて」

「もうすぐミスコンの結果発表だよ」

「ああ、そうね……でも別にいいや。どうせ結果は決まってるんでしょうし」

「結果が出るまでわからないよ。それにもしかしたら、僕たち以外にも君に投票してくれた人がいるかもしれないじゃないか」

「いないってそんなの。モーリスだって内心ではメンドくさいと思ってたんでしょ?」

「いや、そんな……」


 まあ正直図星ではある。口では否定してみたものの表情まで取り繕うことはできなかったらしく、ミヤビ様は僕の顔を見てまた溜め息をついた。


「うん。じゃあ、お疲れさん」


 消え入りそうな声でそう言うと、ミヤビ様は僕に背を向けて再び校門へと歩き始める。これ以上どう声をかけたらいいかわからず、僕はその背中を見送ることしかできなかった。

 スマホを見て、時間を確認する。16時59分。もうすぐ結果発表の時刻だ。僕は後ろを振り返り、ハンロ高校の校舎を見上げた。


 しかし、その時である。

 雲一つなく晴れ渡っていた夕焼け空から、突如として校舎に一筋の稲妻が走る。

 耳を劈くような轟音。それとほぼ同時に、校舎や周りの電線から何箇所か火花が見えた。


「か、雷!?」


 後にわかることだが、この雷によってハンロ高校の校舎内にあったパソコンやサーバーのデータが全て吹っ飛んでしまっていた。当然ミスコンの投票結果もそれに含まれる。

 空は見渡す限り晴れ渡っていて、雨も雷雲もどこにも見当たらない。こんなことって有り得るんだろうか?

 ふとミヤビ様を見ると、彼女は大きく目を見開いて校舎を凝視していた。ミヤビ様みたいなびっくり人間にとっても、この雷は超常現象ということか。


 ミヤビ様は険しい表情で呟いた。


「……何? この異常なマナの流れは……」

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