レーヌの故郷

 その日の放課後、校門を出たところで、僕はレーヌとばったり遭遇した。


「あ、モーリスくん」

「や、やあ、レーヌ」


 昼休みにミヤビ様とスターリング一族の因縁を聞かされた後だけに、やはりどうしても身構えてしまう。でも、ロザリーやブランボヌールと彼女が争わずに済む可能性を探ってみたい――ミヤビ様の前でそう大見得を切ってしまった以上、怖気づいてなどいられないのだ。

 僕の密かな使命感など知る由もないレーヌは、ガトーショコラのように甘い微笑を浮かべている。


「今日一日、お疲れ様。モーリスくん、帰りの方向どっち?」

「あ、ああ、あっちだけど」


 ハンロ高校の校門は、チトセシティを南北に貫く大通りに面していて、僕の家がある住宅街は、この大通り沿いにずっと南下した先にある。南といえば、校門を出て左側だ。

 左の方向を指差すと、レーヌはさらに破顔して言った。


「やっぱり。実はね、私も昨日、学校から帰る途中で偶然モーリス君を見つけたの。だから、もしかして、同じ方向なんじゃないかって思ってたんだ。せっかくだから、一緒に帰らない?」


 たしかに僕は昨日の帰り道で彼女に襲われた。てっきり尾行されていたんじゃないかと思っていたけれど、あれは偶然だったのか。


「ああ、いいけど……レーヌはどのあたりに住んでるの?」

「昨日話した公園の近くだよ」

「ええ、本当に? うちのすぐそばじゃないか! 通学は自転車で?」

「いいえ、まだこっちに来て日が浅いから、何も準備できてないの。自転車も、まだ……」

「じゃあ、バスは?」

「バス? ……いいえ、わからないわ」

「じゃあもしかして、あの辺から歩いて学校に?」

「ええ、もちろん」


 僕の家から学校までは、男の僕が早足で歩いても三十分はかかる距離。女の子の足での徒歩通学はかなりきついはずだ。


「え、マジで? 結構な距離があるじゃないか。歩いて通うの大変じゃない?」

「う~ん、そうかな? 私の故郷では、もっと長い距離を歩いてたよ。だって、シャダイ王国みたいに車があるわけでもないし……」

「レーヌの故郷って?」

「ジフだよ、シャダイ王国よりずっと南の」


 ジフ――その国名に、僕は聞き覚えがあった。何かのニュースかテレビ番組で見たのかもしれないけれど、僕でも知っているということは、それなりに有名な国のはずだ。

 どんな世界にも格差はあって、経済発展の度合いだって地域ごとに違う。レーヌの故郷であるジフという国は、世界的に見てもかなり下位の経済後進国と言っていいだろう。シャダイ王国を上回る広大な国土を持ちながら、その大半が砂漠で、人が暮らすのに適した場所は少ない。国民は国内に点在する数少ない水源を頼りに生活しているが、灌漑設備も交通手段も発達しておらず、国民の生活は常に苦しい。そのため、水場を巡った紛争が頻発し、それが経済発展の大きな阻害要因となっている――地理の教科書に書いてあった内容とニュースからの情報を合わせて語ると、そんなところだろうか。


「じゃあ、もしかしてレーヌは、車に乗ったことないの?」


 レーヌは、恥じらいながらもコクリと小さく頷いた。


「うん、実は、そうなんだ……。お父様や配下の忍びたちはアルビノを探して世界中を駆け回っていたけど、私は今までずっとジフの故郷から一歩も出ないで暮らしてきた。この間、初めて故郷の村を出て、シャダイ王国にやって来て、びっくりしたの。見たこともないようなチトセシティの街並みと、人の多さに。どこをとっても私の故郷にはないものばかりで、何をどうしたらいいのか、忍びの皆に教えてもらわないと何もできなくて……」


 なるほど、そういうことか。

 昨日のレーヌの話の中で最も疑問に感じた点、部下に強く迫られてやむなくロザリーを襲ったということの不自然さが、これでようやく理解できた。語弊を承知で言えば、レーヌは今まで後進国のものすごい田舎の狭い世界しか知らなかった。だから、エネルギー問題で苦しんでいるとはいえ未だに世界有数の経済大国であるシャダイ王国、その首都チトセシティの社会システムの中では、部下の助けがなければまともに生活できないのだ。


 ということは。

 レーヌが早くチトセシティでの生活に適応し、もっと自立した生活が送れるように手助けしてやれば、もしかしたら、彼女も部下の言うことに従わずに済むようになるかもしれない。レーヌがロザリーの命を狙わなくなれば、それはとりもなおさずロザリーの身の安全に繋がってくるし、ひいてはミヤビ様たちブランボヌールとスターリング一族の関係改善の糸口となる可能性だってあるのだ。一筋の光明が見えてきたと言ってもいいかもしれない。俄然やる気が湧いてきた。


「じゃあ、僕が教えてあげるよ。チトセシティのこと、色々」

「……えっ?」

「だって、何もわからないんじゃ可哀想じゃないか。君の故郷に比べて、ここには便利なものがたくさんある。きっと君の新しい生活の助けになるよ」

「で、でも……いいの? 迷惑じゃない?」

「もちろんだよ。まずはバスの乗り方からだ。ついてきて、レーヌ」


 やや困惑気味のレーヌを連れて、僕は意気揚々と歩き出した。僕にもロザリーのためにできることがある――それが嬉しくて、今にもスキップしそうなぐらい、僕の心は舞い上がっていた。

 大通り沿いにあるハンロ高校前のバス停は、文字通り校門を出てすぐの場所にある。


「ほら、これがバス停だよ」

「バス停……?」

「そう。この時刻表に書いてあるとおりの時間にバスがやってきて」

「えっ、バスがここに? どうやって?」

「どうやってって……」

「水もないのに、どうやってここまで泳いでくるの?」


 バスって、そっちの?

 僕は思わず吹き出しそうになったけれど、笑っちゃいけないと思い、どうにか笑いを噛み殺した――つもりだったのだが、その試みは失敗した。妙にひしゃげているであろう僕の顔を見て、レーヌは口を尖らせる。


「モーリスくん、どうして笑うの?」

「いや、ごめん……その発想はなかったと思って。でも、知らないんだから仕方ないよね。バスっていうのは、大勢の人を乗せて運ぶ車のことだよ。見た事ない? 普通の車より大きくて、四角いやつ」

「……ええ、そういえば、たしかにそういうのも見たわ」

「それそれ。それをバスっていうんだ」

「えっ、あれ、私たちも乗れるの? てっきり、すごいお金持ちの人が乗ってる車なのかと思ってた」

「違う違う。まあ見てなよ、この時刻表に書いてある時間通りに来るからさ」


 数分後、緑色の大きな車体を唸らせて、一台のバスがバス停の前にやってきた。チトセシティ市営の、僕にとってはすっかり見飽きたバスだったが、レーヌは驚きのあまり目を丸くしている。

 ドアが開き、整理券を取って、僕たちは後ろから二番目の向かって左側の席に並んで座った。僕は窓側、レーヌは通路側に。


「今みたいに、バスに乗ったら整理券っていうのを取らなきゃいけないんだ。降りる時は、その整理券とお金を一緒に払う。でも、毎日通学に使うんだったら、定期券を買っておいたほうが便利だな。レーヌ、お金は持ってるよね?」

「え、ええ、少しは」

「よかった。どう? 初めてのバスの乗り心地は」


 レーヌはきょろきょろと物珍しげにバスの車内を見回す。


「なんか、ちょっと変な感じ。それに、とっても速いのね」

「バスを使えば、公園まではあっという間だよ。そういえば、レーヌはどうやってチトセシティまで来たの?」

「ヒコーキ、というものに乗ってきたわ。ジフにも、首都には一応クーコーっていう建物があって、そこからヒコーキに乗ったの」

「へえ、飛行機か。飛行機にも驚いたんじゃない?」

「そう、酷いのよ、お父様ったら」


 レーヌは突然頬をぷっくりと膨らませた。


「小さい頃、空を飛んでいるヒコーキを見て『あれはなあに』と尋ねたら、お父様は『あれは最果ての地のクーコーという平原に棲む、ヒコーキという名の巨大な鷹。アルビノを殺し、マナの力を得たからこそ、あれほど大きく成長し、空高く飛ぶことができるのだ。レーヌよ、お前もアルビノを殺し力を得れば、いつかあの鳥のように大空を舞うことができようぞ』なんて言って。だから、ついこの間までずっと、あれを鷹だと思っていたの」


 父親の台詞の部分はちゃんと声を低くするレーヌの話しぶりに、僕は今度こそ笑いを抑えきれなかった。


「ぷっ……そうなの? そいつは酷いな」

「だから、ヒコーキに乗ってシャダイ王国に行くって聞かされただけでもすごく怖かったんだけど、クーコーに着いた時、そんな恐ろしい鷹がいるにしては妙に人が多いなあって思ったの。それで、係の人に『鷹はどこにいるんですか? 怖くないんですか?』って尋ねたら、ものすっごく変な顔で見られて」

「くっふふふ……そりゃあ、笑わずにはいられないだろうね」


 レーヌの都会びっくり話は他にも色々あって、バスが公園前のバス停に着くまでの10分あまり、僕たちはずっと笑い通しだった。屈託のない笑顔を見せるレーヌからは、アルビノの命を狙う恐ろしい呪術師なんて印象は全然感じられなくて、少し、いや大いに世間知らずの、かわいい女子高生にしか見えない。


「あ、レーヌ、そろそろ着くよ」

「え、もう?」

「速いでしょ? バスって。何より楽だしさ。まあ一応お金はかかるけど、自転車を買うまではバスを使った方が絶対いいよ」

「うん……ありがとう。ねえ、モーリスくん」

「ん?」

「モーリスくんが私のことを呼び捨てにするのは、私に親しみを感じてくれているから?」

「そ、それは……」


 レーヌについてロザリーやミヤビ様と話すとき、彼女は必ず『敵』として話題に上る。だから、レーヌと話すときも、彼女のことを無意識のうちに『レーヌ』と呼び捨てにしてしまっていることに気付いたのだ。しかし、このレーヌの問いを敢えて否定するほど彼女を警戒しているかというと、そうではない――少なくとも今は。

 答えあぐねる僕の顔を見て、レーヌの表情にうっすらと影が差した。


「違うよね……ごめん。モーリスくんから見れば、私は彼女の命を狙った敵のリーダーだものね。呼び捨てにされて当然」

「あ、いや、その、そういうわけじゃ……レーヌ、さん」

「いいの、別に。呼び捨てが嫌なわけじゃなくて、ただ……」

「ただ……?」


 レーヌの瞳が微かに揺れ、そのぽってりとした唇が開きかけたところで、突然バス中に響き渡った野太い声が、彼女の言葉を断ち切った。


「おら! 全員両手を上げろ! このバスは我々グリーンフォレストが乗っ取った! おかしなマネをするやつは、このマシンガンで蜂の巣にしてやるぞ!」

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