世界は綻ぶ花となる
一之瀬ゆん
わたしのなまえが、なによりもかがやくとき
わたしの頭を撫でてくれる、あのひとのやさしい手がだいすきだ。
わたしに目線をあわせるように屈みこんで、こちらをじっと見つめてきている間にかぎり、あのひとの吊り目はひときわ甘く綻ぶ。その瞬間、わたしの中を暖かいものが駆けめぐって、心臓の奥がきゅっとする。
頭を擦りつけて、わたしのものだと主張して、そのたびに「かわいいなぁ」とこぼれるあのひとの声をしっかり聴覚で捕獲して、その甘さに酔いしれるのがわたしの日常。
あのひとの膝を独占して、やさしく撫でる暖かさに溺れて、このまま時間が止まってしまえば良いのにと、ありえもしないことを願った。
「リン」
横腹に引っ付くようにして、丸まって眠る。ぬくぬく。他人の体温というのはこうもあたたかい。もしかしたら、それが単なる「他人」でないからなのかもしれないけれど、わたしにとってここが、最高の居場所である。
そうしていれば、砂糖のような色合いで名前を呼ばれた。一瞬にしてわたしの意識が引っ張られる。なまえに乗っ取られたわたしの心が踊り出したのを実感しながら、ぴくり、と耳をそばだて、一音たりとも逃さないとでもいうように集中する。
「リン、寝ちゃうの」
寝てほしくないの?
聞き返すように目を開けて見つめ返せば、「あー、ごめん、眠いよね」と謝られる。
あなたが寝ないでと言うのなら、わたしは決して寝たりなんかしないのに。そうは思っても、伝える術など知らないわたしに、なにもできはしない。それを何度わずらわしくおもったことか。
顎の下に手を入れて撫でてくれるあのひとの指をぺろりと舐めて、だいじょうぶ、の意思表示をした。「ありがと」小さく笑った顔を見て、安心したようにもう一度舐める。声を出すのがすこし億劫だったから、これで許してほしい。
わたしにつけられた名前は、わたしだけのものではなかった。
首輪につけられた鈴の音を聞いて、リンにしようとおもったと、誰かに言っていたのを聞いたことがある。わたしも最初はそれが真実だとおもっていたし、あのひとは「単純かな」なんて頬を指でかいて恥ずかしそうにしていたけれど、わたし自身はあのひとにもらった名前をとても愛おしくおもっていた。
生まれて間もなくしてあのひとに引き取られたわたしは、あのひとが世界のすべてだとおもっていたから、そんな人に固有名詞をもらい、個として認識されることをとてもうれしく感じていたのだ。特別になったとおもった。ほかの何よりも、「リン」という名前でわたしのすべてが特別になったとおもったのだ。
リン、となまえを呼ばれるたび、わたしの世界が色づいた。
リン、と首元で鈴が声をあげるたび、わたしの心があふれていった。
あのひとだけのものになったと思ったし、わたしだけのものになったのだとも思った。そうして閉じこめられた世界を心地よく感じていたし、あのひとの見せる景色に溺れていた。
だけど、それが勘違いだと気づかされたのは、いつのことだっただろう。
わたしの名前を呼ぶたびに、あのひとの目が影を帯びる。苦しそうに眉を寄せて、わたしの後ろになにかを重ねて、もう手の届かないものをつかもうとしているかのような瞳で、切なげに揺れるそれをわたしに向ける。
リン、リン、とわたしの名が呼ばれるたびに息が苦しくなって、だいすきなあのひとの傍から逃げ出したくなった。
あのひとからもらった名前が一気に憎らしくなって、わたしのもののようでわたしのものでは決してないその名前を捨てたくて、どうしようもなく悲しくてたまらない。
だというのに、その名前に込められた甘さが自分に向けられたものだと勘違いをして――いや、勘違いしたままでもいいから、それに溺れていたいと願う自分がいる。
「リンー、構ってー」
もう、あなたったら!
甘えたな姿は珍しくはないけれど、それに素直に応えられるほど、わたしはこころの広いおんなではない。
そんなに軽いおんなじゃないのよ、勘違いしないで。
ぷいっ、とした態度でそのまま目を閉じておく。気位が高い、とよく言われるけれど、その通りだなぁとこういうときに自分で実感する。
「はは、かわいい」
そういう態度をかわいいと愛でてくれるから、なんて、べつにそんなことはないのだけれど。
よしよしと頭を撫でられて、おもわず喉の奥をぐーぐー鳴らしてしまう。
「けっこう素直だよね、リン」
そう言われるとなんだか悔しいとおもいつつも、わかってくれることを嬉しくおもう。そうよ、わたし、あなたに撫でられて喜んでしまっているのよ。言えたらどんなに楽かしら。
「リンはさぁ、かしこいから」
「?」
「俺があいつを重ねて呼ぶと、ぜったいに返事をしてくれないよね」
どきり、とした。気付いていたのか。
気まぐれで気位が高くてプライドの塊だと思われているわたしだから、名前を呼ばれて毎回のように喜んで飛んでいくなんてことは決してしない。どこかの種族のようによだれをたらしてばかみたいに突っ込んでいったりはしないのだ。
だから、「気まぐれで気位が高くてプライドの塊だから」という理由をもってして、気付かれていないとおもっていたというのに。いや、もしかしたら本当は気付いてなどいなくて、あのひとはそういう「悲劇」にありがちな展開に溺れていたいだけかもしれない。
けれど、わたしは確かに、重ねられたときに返事はしていなかったから、どちらでもいいとおもった。
「ごめんね」
謝られると苦しくなるのに、どうして謝ったりするのだろう。
言葉がわからないとでもおもっているの?
なにを言っても伝わっていないとおもっているの?
そんなことないのに。わたし、あなたが何を言っているのか、きちんとわかっているのに。
ぎゅ、となにかを押さえ込むように握りしめられた手に目を向けて、ばかなひと、とおもう。わたしなんかに律儀に謝らなくたっていいのに。どうせ理解できてないと切り捨ててしまって、都合よく側においておけばいいのに。
じゃないとあなた、また思い出してしまうでしょう。
あのひとのこと、思い出してしまうもの。
思い出してしまうくらいなら、謝らないでほしい。
「でもさ、お前がいて、その名前がだんだんお前のものになっていって、実はさ、あいつの姿がちょっとずつ薄れていってるんだよ」
「!」
びっくりして、目を開いた。
「あ、目開けた」
ぽつんとあのひとの呟いた音が聞こえたけれど、どきどきと速いスピードで鼓動が鳴り響くのを、意識の端で的確に捉えるしかなかった。
あのひとの愛していたひとがその傍からいなくなって、悲しみに暮れたままにわたしを引き取った。愛していたひとの名前をわたしにかぶせて、寂しさを紛らわせようとしていたことはよく分かっている。
とはいっても、わたし自身にもきちんと愛をくれていたのも十分伝わっているし、なにもわたし自身が無視され愛されていないわけではない。
だから、だから余計に、わたしも悲しいのだ。
こんなにも愛されてしまったら、わたしだって愛してしまう。単なる拠り所というだけには、もうおもえない。
あなたがどれだけわたしを重ねてしまおうとも、わたし自身のこともまっすぐに愛してくれていることをわかっているから、だから、わたしも愛してしまうのだ。
悲しみに生み落されるあのひとの涙だって、わたしの手で掬ってあげることができたならと、どれだけ願ったことだろう。
わたしが、わたしがもしも“人間”だったなら、言葉をあげて抱きしめて、全部全部受け止めてあげられたかもしれないのにと、何度おもったかわからない。
人間は「ことばなんていらない」とキャッチフレーズにするけれど、本当はとっても大切なものなんだって、わたし、知ってるもの。
「お前はすごいなぁ」
頭を撫でられる。目を細めて、そのやさしさに浸る。
わたしはなにもしていない。あなたに何をもできる存在ではない。だからきっと、時間が悲しみをさらっていってくれただけなのだろう。
だけど、愛すべきひとに褒められて、悪い気はしない。だから、そのままおとなしくされるがままでいた。
「今さら名前を変えるってのは、ちょっとどうかと思うからしないけど」
変えなくていいよ。だってあなたの呼ぶ声に、わたしへの愛は確かにあったから。
「お前のこと、ちゃんと見てるんだよって、愛してるんだよって、伝わったらいいなぁ」
そう言って、あのひとの顔が泣きそうにゆがんだから、悲しく思わないでほしいと、あなたは悪くないのだと言いたくて、ソファに座るその膝の上に乗っかって、「にゃあ」とひとつ鳴いてみせた。
わたしね、猫だけど、ご主人さまのことだいすきなんだよ。ほかのだれにも渡したくないとおもうくらいに、だいすきなの。
本当は、この名前を持つ人間にだって嫉妬しているし、ご主人さま以外に触れられたくないともおもっている。だから、たまにあなたがお友だちを連れて来て触らせようとするけれど、わたしが絶対に逃げ回るのは、そういうことなのよ。
だけど、もしわたしがわたしでいることでご主人さまが喜んでくれるのなら、わたしはいくらでも我慢できるから。
だから、べつの存在と重ねた名前であっても大丈夫。べつの存在を愛していると囁く心で愛されたって大丈夫。わたし、全部ぜんぶ受け入れられるよ。
あら、わたしも案外、忌まわしき種族と同じような「忠犬」なのかもしれないわね。いやだわ。
そう思いつつ、彼の頬をぺろりと舐める。
おなじ人間だったら、と何度思い描いて、眠りについたかわからない。起きたら人間になっていないかなぁと、何度も夢を見た。
だけどきっと、人間になれることは一生ない。
それでも、このひとの傍にずっといられれば、わたしはそれで十分だとも、おもうのだ。人間になってしまうより、もしかしたらずっとずっと愛されるかもしれないから。
あのひとは彼女のことを夢見て、わたしを彼女に重ねて、愛しているなどと睦言のようなことを言っていた。わたしなど見ていないかのように翳る目を、見たくないとおもった時期もたくさんあった。
そのたびに、わたしはわたしではなくて、彼女なのではないかと錯覚したりもして、憎らしくてしかたがないはずなのに、あの瞬間だけ、わたしは“人間”になったかのような気持ちになれたのだ。
あのときのわたしはきっと、人間だった。そうして恋をーー乞い、をしたのだ。
世界は綻ぶ花となる 一之瀬ゆん @6mqn
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