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「うっわ、最悪」
大学から出ようとしたところ、土砂降りの雨だった。雷までごろごろと鳴っていて、どこかに落ちたような轟音まで聞こえることもあった。スマホで天気予報を見れば、今日から明日にかけて雷雨のようで、どうして傘を持ってこなかったのかと朝の自分を恨んだ。
せっかく昨日、美容室に行って綺麗にしてもらったばかりなのになぁ。一気に気分が急降下する。
朝陽さんの技術は本物で、スタイリストとしての腕は都内でもトップレベルだと言われているようだった。その道に詳しくないわたしだが、たまに雑誌で朝陽さんを見かけることがあるため、否応なしにその事実を知らされるのだ。彼女の人柄もあって、色んな人に好かれているから、彼女の技術はもちろんのこと、人間性も認められている。わたしにとって、憧れの女性になっていた。
「雷やだー、あたしほんと雷苦手なんだよね」
「はは、かーわいいなぁ」
「さくらったら、また女を口説く!」
わたしもぶっちゃけ、雷は苦手なんだけど。わたしが苦手でも可愛くないけれど、ほかの女の子が苦手で怖がっているのはとても可愛いと思う。女の子だなぁと思えるのだから、自分とほかの子がずいぶんと違うというのは明らかである。
「てかさくらごめん! 一緒に止むの待ちたいけどバイトだから!」
「おーおー。そりゃ大変だ。早く帰りな」
「ほんとごめんね! 先帰る!」
「気を付けてね、風邪ひいちゃだめだよ」
「ありがと、イケメンすぎて惚れる」
そんなセリフを吐き出して走って行った友達を見送り、さてどうしたものかと空を見上げた。
……まぁ、止むことはないみたいだし、自分も走って帰るしかないよなぁ。けっこう距離があることに多少の苛立ちを感じながら、行くしかないかとため息を吐いた。傘を途中で買っても良いのだが、生憎財布の中身は78円である(何もできない)。
さらに不幸なことに。
自分は本来チャリ通なのだが、今朝チャリ鍵をなくしてしまい、徒歩30分の距離を歩いてきたばかりである。ああ、不幸というのは重なるものだなぁ。これでお金があれば、電車に乗って最寄り駅まで帰ったのだけど。ため息がさらに深くなるのを感じながら、諦めて一歩を踏み出した。バケツをひっくり返したような雨は、やっぱり止む気配を見せないまま、むしろどんどん強まっているようにさえ感じられる。
ビショビショになりながら街中を走る。もう何分走ったから分からないが、道のりはまだまだ先であることだけは確かだ。最悪にも今日はテキストの数が尋常でないため、重たすぎてどうにも思うように走れなかった。女子高時代、重いものを持ってあげていたと言っていたが、実際わたしはそこらの女の子よりも力がないほどだ。気力で持っていただけのことである。
なんだかなぁ。精神的にも重さを感じながら、見慣れた景色を走った。
超絶イケメンがいるという噂の洒落たカフェを横切り、最近立て直された大きな市役所を通り過ぎて、どんどん家へと向かっていく。雨が強いのと、物が重たいのとで上手く走れないが、何も考えずに一心不乱に足を動かした。くっしゅん! 大きなくしゃみをしてしまったが、ここで止まるわけにはいかない。
まだ半分も来ていないのだ。
「あっれ、さくらちゃん?」
ハッとして、足を止めた。瞬間、頭を打ち付ける雨の強さを実感したが、気にすることはなかった。走りすぎようとしていた人物が、突然名を呼んで来たのだ。雨など気にしている場合ではない。
そうして振り向けば、ウェーブがかったハニーブラウンのロングヘアーを持ち、まんまるとした大きな瞳をくりくりさせた人がこちらを見ていた――朝陽さんだ。
彼女に似合わないビニール傘にちょっとだけ違和感を覚えつつ、「朝陽さん!」と笑顔で叫んだ。そうすれば、にっこりと笑って「こんにちは」と言ってくれたけれど、すぐに険しい顔つきになって、「女の子が体を冷やさないの」と言ってグイッと腕を引っ張られてしまった。「わっ!」想像していたよりも力強くて、おもわずびっくりしてしまう。
「ちょっと強引だったかしら」
ふふ、と笑いながら自分の傘に誘導してくれた朝陽さん。頭が上がらなくて苦笑すれば、その瞬間に「っくしゅん!」とくしゃみが飛び出てしまった。「うお、ごめんなさい!」謝罪をしたものの、くしゃみは一向に止まる気配を見せず、それから数回も繰り返してしまった。その様子に眉を下げた朝陽さんは、「ねぇ、さくらちゃん」とわたしの名を呼んだ。
「あたしの家、すぐそこなの。そのままじゃ風邪を引くわ。とりあえず家に来なさいな」
「ご迷惑をおかけするわけにはいきません。何より、こんな雨の日に女性におくr」
「黙って」
「え」
あれ、なんか朝陽さんらしからぬ、とっても低い声だったような。
なんだ今の。デジャヴを感じる。そんなことを思いながら、「でも」と逆接を紡ぎだせば、被せるようにはぁ、とひとつため息を頂いてしまった。……なんというか、美容室での朝陽さんしか知らないからだろうか。くしゃりと前髪を掴んで眉を寄せている姿は、正直、きれいな男の人にしか見えない。
ごめんなさい朝陽さん。
「さくらちゃんの家はどこ、……あー、おうちはどこなの」
「へっ!? あ、ほんとすぐそこで」
「すぐそこ、ねぇ」
なんだなんだ、朝陽さんの雰囲気がいつもとちがう。
いや、朝陽さんの“いつも”なんて美容室での様子でしか知らないのだけど、自分の知っている“ほわほわ”としていて“可愛らしくて”、心の底から“女の子”を体現している“憧れの女性”である朝陽さんのイメージとはかけ離れているような気がして、ちょっとだけ戸惑いを隠せない。
確かにこれまでだって意地悪なところはあったけど、なんというか、今日の朝陽さんは、ちょっと雑な感じで――。
「まぁいいわ。そんなに“すぐそこ”なら送るわよ、さくらちゃん」
にっこり。有無も言わさないような笑顔を向けられてしまえば、ぐ、と言葉が詰まった。女性に送ってもらうわけにはいかない。むしろわたしが彼女をお家まで送るべきだ――なんていう、昔から染みついた“男前精神”が顔を出す。それが分かっているかのように、「あなたは女性でしょう?」と朝陽さんの鋭い声が飛んだ。
「でも朝陽さんだってじょせ――っ、くしゅんっ!」
くしゅん、くしゅん、と情けないくしゃみ。このタイミングで出るのかよ、と悪態をつく。それと同時に、寒気が体全体を襲った。これはまずい。徐々に頭痛を感じるようになってきているのが分かり、明日は発熱するのだろうなと嫌な予感に息を吐いた。
「――
力強く引っ張られたかと思うと、目と鼻の先にあったマンションへと連れていかれた。
少しボーっとしていたわたしは抵抗もできず、力も上手く入らなくて、「待って朝陽さん」と繰り返すばかりで、何もできないままそこに足を踏み入れた。
「ほんと、世話が焼けるんだから」
小さく投げられた責めの一言には苦笑を漏らし、「朝陽さんのこういう優しいところ、好きですよ」と茶化しておく。
「口説かないの。それにあたし、全然優しくないわよ」
「でも本当のことだよ。わたしが男だったら惚れてるレベル」
「そう。口説き返しても良いなら続けて」
「え?」
「こっちが口説いても良いなら続けてよ」
ふ、と彼女に視線をやれば、こちらに流し目を向けていた。その視線はいつもとちがって鋭く射抜くようなもので、一瞬、どきりとしてしまう。
閉口してしまったわたしに気がついたのだろう。「ほんとかわいいなぁ」と呟かれてしまったから、「朝陽さんだって口説いてるじゃん」と口を尖らせて文句を垂れた。
「口説かれてるって自覚があんなら十分」
少し口調のちがう朝陽さんが、別人のように思えた――やっぱり雰囲気ちがうんだもん。
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