鬼化け

「『癒し屋のおセツ』、ね……」

「どうかされたんですか?」

「いーや、何も。ただ、先方の頭領さんはやたら過激だと思ってな」


柔らかい陽の差し込む格子窓の向こうでは、澄み切った青空に薄い綿雲が掛かっている。物を売り行く行商人の声や商店街の賑わいが遠くに響き、近くでは女房達の井戸端会議が和やかに行われていた。

「水甕の裏」

そんな風景に水を差すように、女の声が低く飛ぶ。土間にあった水甕の裏からぬるりと姿を現したのは大きな黒猫、イサだった。

『見てもいねえのになんでわかんだよ……』

げんなりと文句を垂れるが、座敷の奥にある文机に向かって手元の書物を捲る玲子の手は止まらない。今まで幾度となく読み込んだ紙束はところどころが破け、黄ばんでいる。イサがやって来てから、こうして玲子はイサの居場所を突き止め続けている。

「それだけ妖力を隠せていないってことよ。見つかったら真っ先に殺されるのはあんたなんだから頑張りなさい。」

『うええ……』

里美の宣告を受けて、数日が経った。怪しまれている。それはすなわち、ほぼ敵視されているとみて間違いない。

聞いていた情報と噂と常識から考えて、中野家の人間がご丁寧に「そちらへ伺います」なんて書簡を寄越して、易々と敵に猶予を与えるような真似はしないだろう。そう遠くないうちに突然人を遣わせてくるはずだ。玲子は正真正銘の人間だが、鬼道を有していること、こうして妖怪を家に入れていることを知られてしまえば、無傷では済まないかもしれない。半妖のイサなら尚更だろう。しかも相手は何人もの祓魔師ないし陰陽師を抱え込んでいるから、単純に姿を隠したくらいで誤魔化せると思えない。だから、第一の修行も兼ねて、妖気を消して物陰に潜む訓練を重ねているのだが、これがなかなか難しいらしい。最初は楽勝だと踏んで、玲子を「こんな小娘が」と揶揄していたイサも、玲子が一寸も顎を動かすことなく隠れ場所を言い当ててしまうので、軽口を叩く余裕も無くなってきたようだ。ひとつ欠伸をして、土間から座敷に上がって、玲子の膝に前足と顎を乗せる。

「ちょっと」

『疲れた。寝る。』

言ったきり、一瞬後に寝息を立て始めたイサに呆れつつ、陽にあたって艶やかに波打つ黒の毛皮を撫でて息を吐いた。

「これじゃあ動けないじゃない。痺れちゃう……」

掌を乗せていると、上質な毛並みの下に骨が浮いていることがわかる。猫は、嫌いじゃない。

玲子は商店街の末端で、この店とも言えない家屋に『癒し屋』の看板を下げている。医者のように調合の技術は持ち合わせていないが、薬草や民間療法の知識には多少明るい。直接店へ足を運んでくれる客がいれば、鬼道で治療の効力を少々上げて満足させるのが、玲子の表向きの仕事だ。

膝の上で寝ているイサの鼻がぴいぴい鳴っているのを見て、つい頬が緩む。

妖怪は難儀なもんだ。妖怪は悪だという、人間の勝手な偏見から一方的に傷付けられて。それに仕返すと、妖怪と人間では圧倒的な力の差があるから、力加減のままならない半妖では下手をすると殺してしまう。お互いに平和に暮らしたいはずなのに、共存を約束して数十年経った今でも空気がぎこちない。

(……)

膝に乗るじんわりとした温度が心地いい。


──鬼化けだ!

──人が食い殺されたぞ!


──たかが猫又と油断したな

──鬼化けとなれば最早手遅れ……

──殺すしかあるまい


──いかがいたしますか、雪瓦殿


──俺の娘を向かわせる


『……いこ!』


──……ごめんね、あたしはもう


『玲子!』

バチッと眼の前で火花が散る。瞬間的に現実へと引き戻されて視界がぐらぐらと揺れた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。文机に突っ伏していた頭を起こすと、黒猫のイサが呆れた顔で、玲子の肩に乗せていた前足を降ろした。身体を揺さぶっていたらしい。器用な奴め。

「……あんた、名前、初めて呼んでくれたね」

「まあな。それより、外の様子がおかしい」

そう言って戸口へ振り返るイサの声に、普段と打って変わって真剣な色が滲んでいる。嫌な予感がして、精神を研ぎ澄ませ、イサの向いた方を睨んだ。相変わらず商店街は賑わっている。確かにピリピリと肌が灼けるような気配を、この商店街を抜けて少し先の場所に感じた。

「……!?」

急いで袴を取り出す。

気配の出処。そこには、とうの昔に廃れた空き家があるはず。玲子は、その場所にとある心当たりがあった。


「鬼化け?」

「ああ。」

賑わう商店街の中心にある茶屋の表。いくつかのツヤツヤとした握り飯と、湯呑みに淹れられた熱い煎茶が二つ。それらを挟んで座る二人の男がいた。片方の若い男が耳慣れない言葉を怪訝そうに尋ねると、半分欠けた握り飯から覗く梅干しに目元を緩めて、もう一口。また更に半分が消えた。もう一方の中年の男は煎茶を取って口を湿らせる。

「大体の妖怪は、段階を踏まないと半妖のままなのは知ってるな?」

「……んん」

「飲み込んでからでいいぞ」

口いっぱいに含んだ米を煎茶で流して目を白黒させる若い男を横目で見て、中年の男は続ける。

「修行を積んでそれなりに力を持った半妖は、一丁前の妖怪になるための最終段階として、溜めに溜めた妖力を一気に解放して、その場で制御しなきゃいけない。それが出来てから初めて立派な妖怪を名乗れる。」

「制御……強い力を持っているだけでは駄目なのですか」

「駄目だな。そんなんじゃ、何をするにも必要以上に妖力を使うと自分だけじゃなくて周りにも危険が及ぶ。真剣をがむしゃらに振り回すのと同じだ。刀を使うお前ならわかるだろ。」

「なるほど……。それでは、鬼化けというのは……?」

「一言で言やぁ、暴走だな」

男の声を合図にするように、風鈴が揺れる。

「暴走……」

ちりりん

「さっき、俺は「一気に解放した妖気をその場で抑える」っつったな。そこでたまに、限界を超えちまう奴がいる。制御しきれなくて、止まらなくなって、周りを巻き込みながらその身が擦り切れるまで暴れ回る。それが『鬼化け』だ。そうなったら、自分の力に振り回されるそいつの為にもさっさと殺してやるしかない。んだが、仮にも最終段階まで行き着いた強力な半妖だからな。なかなか死なねえんだ、これが。」

語る男の視線は遠い。

「……その、妖力の解放って、少しずつ慣らしていくのではいけないのですか」

「小出しじゃ意味ねえんだよ。妖怪の間じゃ、いくら竹刀で場数を踏んでも真剣を使いこなさなきゃ、一丁前になんかなれない。」

りりん、ちりん

「その鬼化けの可能性を鑑みて、『必要があれば殺せ』って、既に件の『癒し屋』が妖怪だと決め付けてる先方は言ってるんだなぁ。相手はまだ歯の白い小娘だってのに」

「……あなたは、どうお考えなのですか」

ちりん

「……俺は、」

ちりりん

「その小娘には生きていてほしいよ」

ちりりりりん

「それは、」

若者が紡ごうとした控えめな声は、鋭く遮られた。

「五郎」

「はい?」

「見てみろ。なんだか妙じゃねえか?」

言いながら、中年の男は頭上で踊る風鈴を見上げる。五郎と呼ばれた若い男は聡く、とある違和感に気が付くと、無意識に傍らの刀を掴んだ。柄に結ばれた数珠が擦れて青白い火花を散らす。

「おかしい……風もないのに」

ちりちりちりりりりちちちりりりりり

ここで五郎は漸く、肌を灼かれるような気配を少し離れた場所に感じた。中年の男を見ると、耳の先まで鳥肌が渡り、額には脂汗が浮いていた。

「走るぞ!」


まずい

どんどん強くなってくる

『おい!何が起こってんだよ!?』

走りながら叫ぶイサに、玲子が息の切れた声で同じように叫んで返す。

「鬼化けが出る!」

『鬼化けェ!?なんでそんな……』

「昔にも会ったことがあるの!」

『はァ!?』

玲子とイサは今、路地裏へ回り込んで人目に付かないように、そして全速力で道を急いでいた。本当は商店街を通った方が早い。が、黒猫と並行して袴姿で走る女なんて目立ちすぎる。もう刺客が送り込まれていてもおかしくないこの状況で、それだけは避けたい。

「あんたは帰りな!着く頃には押し潰されちゃうよ!」

半妖になったばかりのイサにとって、強すぎる妖力は毒になり得る。証拠に、人間より速く動ける猫の姿でいるはずなのに、玲子に付いて走るのが精一杯のようだ。しかし、イサは引き下がらない。

『嫌だね!!お前こそ、わざわざ鬼化けンとこなんか行って何するつもりだ!?』

玲子は零しかけた溜息を呑み込んだ。言うことを聞かない教え子に呆れている場合ではない。とにかく今は、目の前の問題を片付けなければ。

「責任を取るのよ」

やがて路地裏を抜けて、今はもう使われていない廃れた畑道へ出る。刺すような気配が、一瞬だけ引いた。束の間、激しい耳鳴り。

「っ!伏せて!」

『わぷっ!?』

咄嗟にイサの前に膝をつき、小さいが最高硬度の結界で周囲を覆う。途端、時化の中へ放り込まれたような錯覚を起こす。結界ごと転がされるような、それほど激しい妖気だった。

遠くに見える廃屋が、真ん中から崩れ落ちている。妖気が多少落ち着いた隙に目を凝らして見ると、その場所だけ陽炎が渦巻いているように、空気が揺れていた。そして、その中心には、

『……おい、あれは……』

つい先日に修行を全うした、あの死霊が中途半端に変異した姿で悶え苦しんでいた。


「どうなってんだよ、こりゃあ……」

呆然と立ち尽くす中年の男。その後ろで、五郎は抜きかけた刀身をそろそろと鞘に収めた。

確かに鬼化けの気配があった。しかし現場らしき場所に来てみるとどうだ。ここにあったらしい空き家は半分以上が消し飛んでいるだけで、鬼化けどころか半妖の姿も見当たらない。

「俺達が来る前に、限界に達して消滅したのでしょうか」

「……いや」

鬼化けするほどの力を有していた半妖が、そう簡単にくたばるわけがない。足元に残る微かな霊力を見て、中年の男は踵を返した。

「先を越されたみてぇだな」

「え?」

「……」


もう、日が暮れている。空は赤く灼けて、格子窓から注ぐ金色の光が玲子の横顔を照らす。

「あの場所は、かつてあの死霊の子が縛られていた、思い出の場所なの」

片手に小さなペラペラのお守り袋を握って、訊いてもいないのにぽつぽつと呟く娘の唇を、黒猫は黙って見つめていた。

「周りに誰もいないから、力を解放しても大丈夫だと思ったのね。それで、きっと、大事な時にあの場所での記憶を少し思い出して……それで、神経が揺らいでしまった……」

カラスが鳴いている

「少しでも楽に逝けたのなら、良いんだけど……」


──くるしいよう、くるしいよう


「修行をつけて育てていた立場として、万が一鬼化けした時に殺してあげるのが、私のけじめ。」


──たすけてよ、おねえちゃん


「本来、鬼化けした妖怪は倒すまでに数刻の時間がかかるの。でも、妖怪とある程度の信頼関係を結んでいた人間なら、比較的迅速に息の根を止めることができる。」

カラスが遠くで鳴いている

「今までも、何度かそうして殺してきた」


――どうして?


『お前があの死霊に渡してた、それは……』


――いちにんまえになんか、なれないじゃない


「あの子が首から下げていたこのお守りの中にはね、陰陽術の力が詰められていたの。私の家は陰陽師……祓い屋をやっててね。父は中野家に、時々だけど呼ばれるほどだった。私は、大好きだった猫又のお姉さんをこの手で殺すまでは、家業を継ぐつもりだった。」

イサの手が玲子の顔に伸びる。優しい人肌で、丸い頬を包んだ。

「……あんな妖気を浴びて疲れてるでしょ。無理して化けなくていいのよ」


――うそつき


『……別に。無理なんかじゃない』

イサには、人間の慰め方がわからない。だが、遠い記憶で、こうして耳元を撫でられると気持ちよくて嬉しかった気がする。だけど、それ以外には何もわからない。

「ン……」

……本当にわからない。こうして撫でているのに、どうしてそんなに苦しそうなんだろうか。閉じられた瞼を優しく撫でる。睫毛が震えて、慌てて指をどけると、ゆっくりと焦茶の瞳が現れた。

「……あんたも、鬼化けすれば私が殺すことになる。逃げなくていいの?」

柔らかい声で紡がれる言葉に悲しくなる。どうしてそんなことを言うんだ。

『馬鹿か。人間の小娘から尻尾巻いて逃げるなんて間抜けなことしねえよ。』

互いの額を付けると、ぐらりとするような甘い匂いがした。背中に手を回して、ゆっくりと擦る。自分を庇った時に、あの激しい妖気で傷付いたのだろうか、苦しそうな吐息が唇を擽った。

「イ、イサ」

『あ?』

「何してるの、さっきから」

『何って……撫でてる』

「離れて。それと変化も解いて」

『なんで』

「なんでも!」

俺のやり方の何が気に入らなかったのか。半ば突き飛ばされるように身体を剥がされたが、シケたツラが少しはマシになった。言われた通りに変化を解いて、座布団の上で丸くなる。

「ごめんください」

見計らったように、戸口の向こうから知らない男の声が掛けられた。

「はあい。」

急いで土間に下りて、玲子が戸を開ける。

「いらっしゃい。何のご用で……」

そこには玲子と同じくらいの年の、刀を携えた若い男と、その背後に、

「……先生……?」

父の同業者でかつての師、甘木が立っていた。

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尾裂き屋 ハチワレそぼろ @yamaco

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