尾裂き屋

ハチワレそぼろ

セツ

雨の日だった。細かい雨は番傘にさらさらと弾かれて、辺りは白く靄がかかり、和紙に描かれた水墨画のように建物の影が浮いて見えた。そんな家路を辿る中、娘は猫を拾った。

生きているかどうかもわからない、道端に横たわっていたそれの濡れそぼった毛皮は黒く、陽も差さない濁った空の下では、あらゆる光を吸い込んでしまいそうに重く見えた。閉じられているのだろう目の位置すら見当がつかない。ここでは寒かろうと、一先ず家に連れて帰って、本当に死んでいたら雨の上がった暖かい日に手厚く葬ってやろうと思った。番傘を一度置いて、持っていた手拭いで包んで持ち上げると、ずっしりと両の腕に乗る重みは微かに動いているようで、娘は番傘を拾いもせずに家路を急いだ。雨粒は真珠玉のように溜まって髪を飾り、襟足に注がれる霧雨が冷たいと娘は思った。


その娘には秘密があった。

もちろん、陰陽道に携わる特別な家系に生まれていて、自らも力を習得していることは、おいそれと吹聴することはできない。しかしここで述べておきたいのはそんなことではない。

その前に妖怪について話そう。

この世界では、妖怪という存在が当たり前のように蔓延っている。人と住む場所と隣り合わせに、互いの生き方に干渉せず、時々助け合いながら生活するようになったのはつい数十年前からの話。一言で妖怪と言えど様々で、半数以上のものが修行を経なければ、立派な一個の妖怪になることができない。

その妖怪の修行を手助けするために多少の鬼道を会得していることが、娘の秘密なのだ。人間の持つ偏見は、いくつか世代を超えても根強く残るもので、妖怪に怯え、根絶やしにしようと躍起になる人間はいくらでもいる。妖怪と人との共存に加担する人間は、女子供だろうと命を狙われることも少なくない。世知辛いものだと他人事のように娘は思いながら、今日も医者の真似事をして過ごすのだ。

こんこん

「セツさん、今大丈夫かい?」

こんこん

戸板を叩きながら聞こえるのはお得意様である里美の声。

こんこん

「どうぞ」

「……」

こんこん

こんこん

戸が開かれる気配はない。しかし戸板は絶えず叩かれている。

こんこん

「静かにしていただける?お客様がお休みになっておいでなの。入るならさっさと入りなさい」

言うと、音は止んだ。

『……どうしてわかったの?』

戸板で隔たれてくぐもっていた声が、はっきりと聞こえるようになる。戸を開くことなく中へ入ってきたのは小さな死霊だった。

「真宮さんは雨が降っていると頭痛で寝込んでしまうからね。薬を飲んで安静にしてろって口酸っぱくして言ってあるから外出なんてしないわよ。多分。」

そこまで言って、娘は気が付いた。

「……ねえ、あなた死霊よね」

『うん』

「実体なんて持っていないはずなのに、どうやって真宮さんの声で話しながら戸を叩いてたの?」

おそるおそる訪ねてみると、死霊はけろっと言ってのけた。

『おとくいさまに"入って"きた』

「……まさか!」

急いで戸を開けると、そこには雨に打たれ青い顔をして壁に寄りかかる痩せ肉の女がいた。苦しそうに眉間に皺を寄せている。

急いで中へ入れ、あまり刺激しないように手拭いで手早く水気を拭き取って、浴衣に着替えさせてから布団に横たえる。額に唇を当てて術を吹き込むと顔色が幾分か良くなって、そのまま眠ってしまった。

「……悪戯で人を苦しめちゃいけないって、教えたはずでしょ」

『……ごめんなさい』

死霊を睨むが、次いで優しく続ける。

「でも、成長したね。及第点かな。あんたはもう立派な妖怪になれるわ。おめでとう。」

『、!』

とある廃屋の前に佇んでいた時は、まだ何の力も持たない地縛霊だったのに。ひとつのお守りを渡すと死霊は嬉しそうに姿を消した。

「セ、ツさ」

「気が付きました?」

薄く目を開けた里美の目は黒く、すべてのものを射抜いてしまいそうな眼光がある。若年ながらも剣道の師範代を務める彼女は案外身体が弱く、本人には知らせていないが娘の鬼道に頼っている。

「わたしは、」

「倒れていらっしゃいましたので。この雨の中に。私の家の前でね。」

外で……?と口の中で里美が呟くとハッとして慌てて起き上がりかける。

「……っ」

「動かないで。」

雨で弱っているところに憑依に遭って身体に負担が掛かりすぎている。きっと今は全身が痛むのだろう。再び寝かせて、湯に潜らせて絞った手拭いを目元に乗せて、視界を封じてから空中で印を結ぶ。橙色の光がそこに現れ、尾を引きながら里美の眉間へ吸い込まれていった。

「……あたたかい」

「そうでしょう。すぐに私を頼れない時はこうやって手拭いで温めてさしあげてね。それで、何があったの?」

里美は細く息を吐きながら顛末を語る。

「……私の実家のことは知っているでしょ」

「ええ、噂ならよく耳に入ります」

この真宮里美という女、元の名を中野里美という。彼女の実家、中野家はここいらでは有名な反妖怪勢力で、強力な祓魔師を何人も雇っている。

「私がよくセツさんにお世話になっていることを知られてしまった。薬草を乗せるだけで目が良くなるなんて、そんなの人間業じゃないって。祖母、いえ頭領が、貴女を妖怪だと疑っている。」

里美の声がだんだん切羽詰まったものになってくる。

「……散々疎疎しくしていた孫を、妖怪が絡んだからと今更心配されてるんですか。」

「違う!頭領達は私を通じて妖怪の存在を感じて動いているだけ。他所に嫁いで他人になった孫なんて、気にしちゃいないんです。いや、それよりも、下手したら殺されるかもしれないんですよ、セツさん!貴女の番傘が道端に落ちていたから心配になって来たんじゃありませんか!途中で記憶が曖昧になっていますけれどね!」

手拭いを取って、半身だけ浮かせて娘に詰め寄る里美の目は涙で濡れている。

囲炉裏の薪が乾いた音をたてて赤く爆ぜた。

「……」

「……本名も名乗らない女なんて怪しいと仰るんです。私の友人だと言えば、望み薄ですが、もしかしたら、説得できるかもしれない。お願いだから、貴女の名前を教えて……」

「必要ありません」

「この期に及んでまたそれですか!今!必要なんですよ!」

術をかけているといえど、まだ痛むだろうに声を張り上げる里美を見る娘の目は悲しげなものだった。

にゃあん。

太く芯の通ったしなやかな声に、里美の動きが止まる。

「……猫?」

「はい」

囲炉裏を挟んだ向かいに、座布団の上で大きな痩せ猫が欠伸をしていた。橙色の瞳は火に照らされて赤く燃えている。

「今日、隣町へ薬を届けた帰りに見つけたんです。あれだけ大きいから両手で抱えないといけなくて」

「それで、傘が……」

「はい、お騒がせして申し訳ございませんでした。」

「あぁ、そう。……でも、危険かもしれないことには変わらないからね」

「でも、私が人間だとおわかりいただければ、何も起こらずに終わるはずでしょう?それなら大丈夫です。」

里美は、でも、と言いかけるが、これ以上はびくともしないと思うと言葉が出てこない。それから半刻ほど休んで帰って行った。戸口まで見送りに出ると、昼間に道端に置いてきた番傘が畳んで立て掛けてあった。

「さて。」

雨は止んだが、雲は重く月を隠したまま動かない。

「あなた、いくつめ?」

『……九。やっぱバレてたか。』

振り返ると、そこにいたのは黒猫ではなく、見上げるほど大きな着流し姿の男だった。

「『猫には九つの命がある』……色んな経験を重ねながら人の言葉を理解して、知恵をつけて、最後の命で化け猫になったのね。名前は?」

『……芹田、イサ』

「あら、猫のくせに姓なんか持ってるの?」

『関係ねえだろ。それより……さっきまでの、色々見てた。あんた、何者だ?』

娘はイサと名乗る化け猫の、隠しきれていない尻尾を撫でて笑った。

「これね、人間はもちろん、信用できる妖怪以外には言っちゃ駄目よ。周りには『癒し屋のおセツ』で通ってるの。」


「『尾裂き屋』の雪瓦玲子。半妖のあんたに修行をつけてあげる」

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