第108話 羊肉串

 焦りが生じ始めた。だが、そこで脳裡に閃いたものがあった。

 リューシスは背後の騎士チードらに向かって大声で叫んだ。


「右翼へ! バーレン隊の援護に向かうぞ!」


 長剣を大きく右へ振ってから、前へ力強く突き出した。


 ――バティ隊は北方高原最強を誇る一角馬イージューバだ。バティ自身もマンジュ族の王子にして屈指の猛将。勝てないにしてもそう易々やすやすとは潰走しないはずだ。


 バティ隊の能力をかんがみて、もうしばらくは持ち堪えられると計算した。


 ――危険はあるが、今はこれに賭けるしかない。


「バーレン隊を援護し、先に敵左翼騎兵を駆逐してしまうんだ。そしてこちらから逆に片翼包囲を仕掛ける」


 敵が更なる一隊を雑木林に隠しているならば、もう予備部隊はないはず。ならば、バティらがとどまっている間にこちらが先に敵左翼を突破し、側背から包囲してしまおうと言う策であった。


 リューシスは、バーレン隊と交戦している敵左翼騎兵の側面に出ると、そのまま横腹に向かって突撃を敢行した。

 その時、バーレン隊は敵騎兵隊と一進一退の戦いをしていたのだが、この側面突撃で敵騎士チードらがまとめて突き倒されると、戦況は一気にバーレン隊に傾いた。


「ここが勝負どころだ、かかれっ、かかれっ!」


 リューシスも絶叫に近い大声で兵士らを煽って猛攻を仕掛けた。

 バティ隊が持ち堪えている間に、急いでここでの勝負を決しなければならなかった。


 このリューシスの咄嗟の読みと判断は正しかった。


 アルテムは、正にあの林に槍を装備した一隊を伏せさせて、リューシスがバティ隊の援護に来るのを待ち構えていたのだった。


 ――仮に殿下が伏兵に気付いたとしても、正面から戦えば良い。すでにあの一角馬部隊は包囲している上に、三部隊対二部隊だ。こちらが勝つ。


 アルテムはこう考えていた。

 しかし、リューシス隊はなかなかやって来ない。

 どうしたのだ、と思っていると、左翼方面での異変に気付いた。


「まさか……殿下はあっちに向かったのか? しまった!」


 アルテムは愕然として思わず叫んだ。


「いかん、急ぎ左翼へ向かえ!」


 アルテムは、林に潜ませている伏兵部隊を左翼の援護に向かわせるべく、伝令兵を走らせた。

 だが、伏兵部隊が態勢を整え、林から出て来た時にはもう遅かった。

 左翼方面で悲鳴が大きくなり、騎兵らが次々に四散して行くのが見えた。ちょうどバーレン隊とリューシス隊が左翼騎兵を追い崩したのだ。


 アルテムは天を仰いだ。


「間に合わなかったか。仕方ない、ここまでだ」


 まだ完全に勝負が決したわけではない。伏兵部隊は無傷で残っているし、バティ隊も包囲継続中である。だが、騎兵二部隊に翼側突破されて背後に回られてしまっては、勝ち目は薄い。


「こうなった以上、できる限り損害を少なくして撤退するのが最上」


 アルテムの決断は速かった。


 乱戦での撤退は最も難しい。古来より名将と称えられる者たちでも、撤退戦では酷い損害を負っていることがある。

 しかしアルテムは、自ら縦横に駆け回って手早く兵士らをまとめると、林から出て来た伏兵部隊を巧みに動かしてリューシス軍への牽制に使い、引き潮の如くするすると退いて行く。


 そのあまりの速さと手際の良さがまた、


「見事すぎる。ラングイフォン城にはまだ多くの兵もいるし、これは追撃すれば反撃を食らうだろう」


 と、リューシスを唸らせ、追撃の手を止めさせた。結果、アルテムは壊滅的な損害を受けずにラングイフォン城へ撤退することに成功したのだった。


 だがともあれ、この戦いはリューシス軍の勝利となった。


 リューシスは追撃を止めたが、兵士らを少し休ませただけでまたすぐに五コーリーほど進み、その夜、ラングイフォン城が見通せる高台の上に野営地を張った。


 時は五月とは言え、北国なのでまだ寒い。今晩は北風が強く特に寒かった。


 それ故、兵士らの夜食には、いつも通りの粥や麺包パンの他に羊肉を出させた。羊肉には身体を温める作用があるので、戦場でも兵士に振舞われることがある。


 薄めに切り分けた羊肉に塩と胡椒、ズラン(クミン)とジャンホアン(ターメリック)の粉末少々を振りかけ、火にかけた鉄板や鉄網の上でじっくりと焼く。焼き立ての羊肉は、草の匂いが混じる香ばしさがたまらなく食欲をそそり、柔らかい肉を一口齧れば、泡立つ肉汁が滋味を五臓に染み渡らせる。


「羊肉の香辛料スパイス焼きと来たらやっぱり葡萄酒プータージュだろ。今日はみんな頑張ってくれたから特別に出そう」


 リューシスはこう言って、一人二杯だけと定めた上で葡萄酒プータージュも出させた。


 簡素だが美味しい肉料理は兵士らの肉体を癒し、心も満たす。少量の酒は戦場の緊張と興奮を解き、心身を和ませてくれる。

 兵士らは大喜びで肉を齧り、葡萄酒プータージュを飲みながら仲間たちと互いの労をねぎらい、明日への鋭気を養った。


 だが、リューシスは羊肉も葡萄酒プータージュも口にしなかった。粥も食べなかった。リューシスは、戦場では時々こうして食事が減ることがある。

 今夜もそうで、リューシスは皆とは食事を共にせず、何も言わずに麺包パン二個だけを手に取って一人で本営を出た。


 ラングイフォン城がよく見える場所に行き、傍らに松明たいまつを置くと、草むらの上に腰を下ろして硬い麺包パンを齧り始めた。

 夜闇の彼方に、ぼうっと黒く浮かぶラングイフォン城が見える。それを見つめながら、リューシスはゆっくりと麺包パンを食べる。


 ふと、背後に草ずれの音が聞こえ、リューシスは咄嗟に立ち上がった。


「誰だ」


 リューシスは長剣の柄に右手をかけた。


「一人でこんなところにいたら危ないよ」


 高く澄んだ声がした。

 薄闇の中からエレーナが現れた。甲冑を解いたいつもの白い法衣姿で、左手には小さい木桶を提げていた。


「なんだ。驚かすなよ」


 リューシスはほっとしながら右手を下ろした。


「こんなところに一人でいるのが悪いでしょ。護衛ぐらいつけたら?」

「人がいると落ち着かなくてな」


 リューシスは再び腰を下ろし、夜闇の向こうに目をやった。


「でも、もし私が刺客だったらどうするの」

「大丈夫。周囲の警備はいつもよりも厳重にさせてる。天法士ティエンファードだって侵入はできないよ」

「そうかしら……。確かに普通の天法士ティエンファードなら侵入は無理かも知れないけど、世の中には未知の天法術ティエンファーがまだ沢山あるのよ。常識を超えるような異常な力を持つ天法士ティエンファードだったら簡単に侵入されてしまうかも知れないわ。例えば、あの時に会った……ジェムノーザって言う天法士ティエンファードとか」


 リューシスは、びくっとして目を開いた。

 頭の中には強く刻まれている存在であるが、最近は姿も気配も見せないので、久しく考えることがなかった。


「ジェムノーザか」


 瞼の裏に、禍々しい気を放ちながら黒衣の裾を翻す闇の男の姿が浮かび上がった。


「確かに奴ならここの侵入も簡単かもな。そうだな、気をつけるようにするよ」

「そうよ。リューシスは一人でふらっと出歩く癖があるけど、いつか危ない目に遭うかもしれないよ。気をつけて」


 エレーナは叱るように言うと、リューシスの隣に腰を下ろして、持って来ていた木桶を差し出した。

 中には、鉄串に肉を何片か刺した物が五本入っていた。


羊肉串ヤンローチュアンか?」


 リューシスは覗き込んで言った。


「うん。麺包パン二個だけじゃ少なすぎる。戦場なんだからもっと食べた方がいいよ」

「でも、なんで串?」

「今日の鉄板焼き食べなかったのは、卓について小刀使う手間と時間がもったいないからでしょう? その時間であれこれ考えたいと思ってるんじゃない?」

「あ? ああ……」

「でも、お肉は力になるから、せめてこれだけでも食べた方がいいよ。時間と手間がもったいないなら、串にすればどこでも片手で食べられるわ。だから、小さく切り分けて串に刺してみたの。あ、もう一度火にかけたわよ」

「なるほど……」


 リューシスは呆気に取られた顔で木桶の中を見ていたが、おもむろに羊肉串ヤンローチュアンを一本手に取ると、ふっと破顔してエレーナの顔を見た。


「すまないな、もらうよ」


 リューシスは羊肉串ヤンローチュアンに齧りついた。

 エレーナはもう一度火にかけたと言っていたが、夜の寒気のせいですでに冷めていた。

 だが、やけに旨かった。


「ああ、これは美味しい」


 リューシスは、あっと言う間に五本全部を食べ終えた。


「ありがとう、美味しかったよ」

「いいえ。次からはちゃんと食べてよ」


 エレーナは少し照れたように目を反らして言った。


 食べ終えたリューシスは、すぐにまた視線を遠方のラングイフォン城に向けた。

 エレーナも目を凝らしてラングイフォン城を見ると、


「あの城、やっぱり攻めるつもり?」


 と、訊いた。


「隙があればな」

「敵は致命的な損害を受ける前に退いたでしょう。それに、あの城にはまだ沢山の予備の兵士がいるはず。普通だったら攻めるところじゃないと思うんだけど」

「そうだな」

「……今回はやけに欲を出すのね」


 リューシスは答えず、一瞬ちらっとエレーナを見た。

 エレーナは遠い目でラングイフォン城を見たまま、


「そんなに無理しなくていいよ」

「……何のことだ」

「わかってるよ。だって、あのラングイフォン城の東は……」


 と、言いかけて、エレーナは詰まったように言葉を止めた。

 リューシスは一つ咳払いをすると、


「とにかく、折角今日の戦いに勝ったからな。このまま帰るのはもったいないだろう? でも三日間だけだ。三日間だけ様子を見て、攻略の機会があるなら攻める。無いなら潔くクイーン州に帰るよ」


 リューシスは、遠方の闇に黒く浮かぶラングイフォン城を見つめ続けた。

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