第109話 バーレンの憂慮

 翌日の午前、ラングイフォン城の会議室では議論が紛糾していた。


「ここにはまだ六千人もの無傷の兵がいる。加えて、昨日戻って来た兵の中からまだ戦える者を選べば、総数は一万に届くだろう。これらの兵で再度決戦を挑むべし」

「だが、また正面から戦うのは危ういだろう。ここは夜襲などを考えてはどうか? 殿下らは昨日の勝ち戦で浮かれているはずだ」

「何を言うか。殿下はこう言う時ほど気を引き締めるお方だ。夜襲にも備えているはず。下手をすれば返り討ちにあうぞ」

「正面から戦うにせよ、夜襲を仕掛けるにせよ、今の兵数では少々心許ない。ここは他の城から兵士を呼び寄せ、到着を待って改めて決戦するのが良いと思う」

「それでは遅い! その間に殿下は何を仕掛けてくるかわからんぞ!」


 皆、敗戦直後で苛立っているせいか、熱心と言うよりも喧嘩腰と言った感じで話し合っていた。

 そんなピリピリした議論を、総指揮官のアルテムは何も言わずに黙って聞いていた。


「マハーリン将軍、ずっと黙っておられますが、将軍は如何にお考えですか?」


 一人の将が、アルテムの顔を見た。

 アルテムは一つ深呼吸をして答えた。


「少し休憩しようか。昨日の疲れも取れていないだろう。茉莉花モーリーファ茶(ジャスミン茶)でも淹れさせよう」


 と、小者に命じて茉莉花モーリーファ茶を持って来させた。

 こんな時に茉莉花モーリーファ茶など、と言いたげな顔もあったが、議論沸騰で喉も渇いているところであり、皆無言で口をつけた。

 飲み終えると、皆の刺立っていた表情が少し和らいだ。茉莉花モーリーファ茶(ジャスミン茶)には鎮静作用があり、気分を落ち着かせる効果があるとされている。


「よし。では私の考えを言おう」


 アルテムが茶碗を置いて皆の顔を見回した。


「まだはっきりとは決めていないが、ちょっと考えていることがあってな……。リューシス殿下に降ろうかと思っている」


 と、アルテムが言うと、諸将の間に衝撃が走った。


「何ですと」

「正気ですか」


 皆が口々に異を叫んだ。

 副将のダヴィド・ニンも驚いて声を大きくした。


「負けたとは言え、まだ我らの方が総兵数は上です。それを下るとは解せません」


 アルテムは頷くと、


「確かに我らの方が劣勢になったと言うわけではない。むしろ、このラングイフォン州の兵士を全て集めれば我らの方がまだ優位だ。だが、私はずっと密かにリューシス殿下と戦うことに疑問を感じていてな」

「疑問ですと?」

「うむ。皆も昨日の一戦で身に染みたように、リューシス殿下には古の覇王マンドゥーの如き軍事の才がある。その上、不思議な人望があり、多くの優れた人材が続々とその下に集まっている。このような器量を持つお方を討伐していいものだろうか? むしろ、領袖として仰ぎ、支えて行く方がローヤン帝国と臣民の為になるのではないか?」


 これは、ここにいる誰もが一度はち思ったことがあったが、それを胸の奥にしまい込んだか、無理矢理消し去ってしまった考えであった。

 それ故に、皆しんとして黙りこくってしまったが、副将のダヴィド・ニンが反論した。


「しかし、いかにリューシス殿下が優れた器量をお持ちでも、この国の皇帝は今の陛下であり、殿下はその陛下に矛を向けている逆賊です。もし陛下が民を苦しめるような悪政を行っているならともかく、陛下はご即位以来何の落ち度もありません。そんな陛下に対して兵を挙げる殿下には正義はございません」


 だが、アルテムは首を振る。


「陛下に対して、ならばそうであろう。だが、今年の初めに殿下が全国に発した檄文には何と書いてあった? 殿下は、今のワルーエフ丞相が先帝イジャスラフ様を毒殺した、それ故に丞相を討つべく兵を挙げる、と言っておる。リューシス殿下は陛下ではなく丞相を敵としているのだ」

「それはここにいる皆もわかっております。しかし、殿下が言う丞相の先帝謀殺には明確な証拠がございません」

「うむ。だが丞相もまた、先帝謀殺を否定しきれないではないか。丞相はもちろん否定しているが、先帝崩御の前と後で丞相の権力が大きく変わった点と、昨年より一部で囁かれている皇太后さまとの不義密通の噂。これらを考えると、丞相が先帝謀殺に及んだ可能性は考えられる」


 アルテムは一呼吸置き、厳しい顔つきで声を低くした。


「丞相は優れた政治の才をお持ちのお方だが、権力志向が強すぎる。朝廷中枢の重要な官職をカザンキナ部や自らの一派の者たちで占めさせている上、全ての政策や法案は丞相の一存で決まるようになってしまった。今やその権勢は陛下を凌ぎ、若い陛下をほぼ傀儡にしていると言ってよい。そんな丞相と殿下を比べるなら、殿下に味方する方が正しい道なのではないだろうか」

「…………」


 ダヴィドや諸将らは、それぞれに考えるところがあるのか、複雑そうな顔で口をつぐんだ。


「もちろん、まだはっきりと決めたわけではない。これは私個人の最終的な考えの一つだ。議論を続けようではないか」


 アルテムは一転して笑顔を見せ、顎髭を撫でながら言った。


 だがその夜、アルテムは副将ダヴィドを執務室に呼び、改めて二人だけで話し合うと、その翌々日には、


「私とダヴィドはリューシス殿下に着くと決めた。不服な者は無理に従わずとも良い、邪魔はせぬ故にアンラードに行き、この事を朝廷に伝えるが良い」


 と皆に伝え、強引にリューシスへの臣従を決めてしまった。

 そして、城の門を開くと、リューシスに臣従とラングイフォン州の明け渡しを申し出た。



 ラングイフォン城攻略は諦め、一旦クイーン州に戻ろうかとも思っていた矢先の思わぬ朗報であった。

 まさか向こうから開城と臣従を申し出て来るとは思いも寄らなかったので、リューシスはこの知らせに大喜びした。


 リューシスは、ラングイフォン城の将兵らの武装を解かせてから、皆を引き連れてラングイフォン城に入城した。

 諸々の指示や手配を済ませると、リューシスは広間にアルテムやダヴィドらを呼んだ。


「よく決断してくれた」


 リューシスは上機嫌で彼らに面会した。

 アルテムは穏やかな笑みで、


「今回の一戦で、改めて殿下の実力と器量を思い知りました。また、私どもは正義は殿下にあると考えております。それ故に、殿下をお助けしたいとと思ったまででございます」

「そうか、ありがたく思う。俺はまだまだ未熟者だ。経験豊富なアルテムには色々と教えてもらいたい。これからは宜しく頼む」

「はっ、身命を賭してお仕えいたします」


 アルテムは両手を組み、頭を下げた。


「で、早速だが、このラングイフォンは引き続きアルテムに任せる」


 リューシスは改まって真剣な顔となった。


「なんと。宜しいのですか?」


 降った者が引き続きその地を任されるのはよくあることだが、ラングイフォンのように重要な地では、それは珍しい。


「ラングイフォンは重要地点だ。南にはザンドゥーアの脅威があり、西を見れば今はトゥーバー族末裔の反乱がある」


 リューシスは目つきを鋭くした。

 そう、このラングイフォン州より遠く西に行けばタイピン州がある。そこは今、トゥオーバー族とビルサ帝国の復興を掲げて挙兵したアーシン・トゥオーバーが割拠しているのである。


「このように重要な地であるからこそ、これまで統治して来たアルテムに引き続き任せるのが良いだろう。中途半端に新しい者を据えたり体制を変えたりすれば、混乱を生み、そこをザンドゥーアやトゥオーバーにつけこまれかねない」

「なるほど。そういうことであれば」

「頼むぞ」

「承知仕りました」


 アルテムは手を組んで頭を下げた。


「だがその前に、俺もこの目でラングイフォン州の実情を知っておきたいので、十日ほどは滞在しようと思う」

「はっ」

「よし。とりあえず今日はこれぐらいだ。皆休んでくれ。明日の午前、会議を開く」


 と、リューシスは解散を告げた。

 皆がぞろぞろと広間から出て行く中、リューシスは窓辺に寄って外を見た。一望できる市街区には、道端や辻角などに樹が植えられている。その樹々は全て豊かな新緑の葉を繁らせていた。

 リューシスは窓から離れ、ダヴィド・ニンと共に退出して行こうとするアルテムを呼び止めた。


「アルテム。今、ラングイフォン東部の人心は落ち着いているのか?」

「東部、ですか」

「ああ。あの東部だ」


 アルテムが眉を動かして、


「流石に最近はもう問題はございません」

「そうか。ありがとう」

「東部がどうかされましたか?」

「いや、何でもないんだ」


 リューシスは少々気まずそうに答えると、「じゃあ、先に」と、アルテムらより先に広間を出て行った。

 その背を見送ったアルテムは、目を光らせながらダヴィドにささやいた。


「やはり何か急いている。そして、その理由は東部にあるらしいな」

「ええ。これから如何いたしますか?」


 ダヴィドも小声で訊くと、


「この前話した通りだ。天の意思に従う。天が機会を与えるならばそれに乗る」


 アルテムは顎髭を撫でながら答えた。



 翌日午前、リューシスは皆を招集して会議を開き、今後のラングイフォン州の方針について話し合うと、午後には早速ラングイフォン州の視察に出かけた。


 バーレンとバティを伴ってラングイフォン城の市街に出る。市場を巡って商業の実態を確かめ、居住区では住民らに直接声をかけて会話をする。演習場で兵士らの訓練を見た後には、兵営で兵士らと共に夕食を取った。城外に出れば農村に赴いて田畑の状況を確かめ、更に南方クアンウール湖の沿岸にまで足を延ばして水軍を視察した。


「やはりおかしい」


 クアンウール湖のきらきらとした白砂の浜辺で休息を取っている時だった。リューシスが沖に停泊している軍船を見ようと歩いて行く後ろ姿を見て、バーレンが呟いた。


「うん? 何がか?」


 傍らでねぎ餅を食べていたバティが振り向いた。

 バーレンはリューシスの背を目で追ったまま、


「殿下は何かそわそわしていると言うか、急いていると言うか……そう思わないか?」

「急いでいる? そうかな?」


 言われて、バティも波打ち際に立つリューシスの背を見やったが、すぐに小首を傾げた。

 バーレンは腕を組んで、


「そもそも今回のラングイフォン攻めからしておかしかった。攻撃されているわけでもないのに、大した情報収集も行わずに相手より少ない兵力で攻め込んだ。これまでの殿下にはなかった無茶攻めと言っていい」

「それは俺も変だとは思ったが……だが、リューシスどのに何か急ぐ理由でもあるのか?」

「それはわからないが」

「考えすぎではないか? さて、俺たちもあの軍船を見に行こうじゃないか。北方高原には船が無いからよく見てみたいんだよ」


 バティは笑いながら立ち上がった。

 バーレンとバティは、近頃仲が良い。バーレンとネイマンは十代からの悪童仲間で、同じ釜の飯を食ったと言える気ごころの知れた親友同士だが、バティとは性格的に似ているところがあり、ネイマンとはまた違った感じでウマが合うようであった。


「考えすぎ……ならいいがな」


 バーレンも立ち上がったが、眼にはまだ憂いの色がある。


「クイーン州からここまで上手く行き過ぎている。あいつはこう言う時に何かやらかすんだよ」


 バーレンはつぶやいた。



 ラングイフォン城に入ってから四日目。

 リューシスは自軍の隊長格以上の者たちに休暇を言い渡した。


「ラングイフォンに来てから、戦の後も休みを取っていない。皆さすがに疲れただろう。今日は完全休暇とするから自由に過ごしてくれ」


 これには皆も喜び、久々に甲冑や官服を脱いで思い思いの場所へ向かった。


 そんな中、リューシスはエレーナに声をかけた。


「何かするつもりがあるか?」

「ううん、別に。突然休みって言われてもね」

「じゃあ、どこか行きたいところとか」

「行きたいところ……」


 エレーナは目を伏せると、


「そうね……」


 と、何か言おうとして口を開きかけたが、唇を結んで黙りこくってしまった。深い睫毛の下で、蒼い瞳が暗みを帯びている。

 リューシスは、そんなエレーナの顔をじっと見つめた後に、小さく深呼吸をすると、


「もし特に無いなら、桜を見に行かないか?」

「桜?」


 エレーナは呆気に取られたような顔を上げた。


「何言ってるの? あなたも見てるでしょう? この辺はもう桜は散ってしまってるわよ」

「この辺りはね。だけど、まだ咲いているかも知れないところがあるんだ」

「どこ?」

「来ればわかる。さあ、行こう。少し遠いから馬で行くぞ」


 リューシスは半ば強引に決め、エレーナを引っ張るようにして厩舎へ向かった。

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