第107話 鳥立つは伏なり

 ラングイフォン州はローヤンの最東南地域で、その南にはクアンウール湖と言う広大な湖が広がっている。

 だが、そのクアンウール湖を挟んだ対岸にはザンドゥーア王国があり、ラングイフォン州は対南方の最前線であった。

 その為、ラングイフォン州は七龍将軍の一人であるアルテム・マハーリンが太守として入り、南方からの防衛の任に当たっていた。


「ついにリューシス殿下が来たか」


 五月六日、リューシス軍襲来の報がラングイフォン城の太守アルテムの下に届いた。

 アルテムは現在三十九歳。若者と比べてもまだ体力や気力は遜色無く、それでいて経験や知識は豊富と言う、武人としては最も脂が乗っている年頃である。


「そろそろ来る頃だろうとは思っていたが、まさかこんなに早く攻めて来るとはな」


 アルテムは、黒い口ひげを撫でた。彼はローヤン人であり、顔立ちも典型的な北方民族らしく彫り深く濃いものなのだが、遠い祖先には別民族の血が濃く混じっているのか、瞳は鳶色で毛髪や髭などは黒かった。

 そして、その黒い髭を綺麗に整える変わった趣味があり、何かとその髭を触るのが癖でもあった。


「ええ。クイーン州を制圧してからまだ七日ほどです。それほどクイーン州攻略が簡単だったのでしょうか」


 部下であり副城主のダヴィド・ニンが眉根を寄せた。


「クイーン州は攻め易い土地の上、兵力も手薄だった。損害は少なかっただろう。だがそれにしても、もうこちらへ来るとはいくら何でも早すぎる」


 アルテムは顎鬚を撫でながら首を傾げる。


「何か特別な理由があるのか? 急いているようにも感じられるが」

「急いて?」

「うむ……だがこれは……」


 アルテムは、長年の経験から何か直感したのか、鳶色の瞳を光らせた。

 そのまま無言で思案に耽る。


「将軍。どうなさいますか?」


 ダヴィドが焦れたように訊いた。


「あ? ああ。もちろん戦うに決まっている。丞相からも殿下を攻めるように言われているしな」


 リューシスがクイーン州侵攻を開始した後、アンラードのマクシムから早龍が来ていた。

 クイーン州を援護し、協力してリューシスを討て、との指示である。

 だが、その時ちょうど、南方ザンドゥーアに不穏な動きがあり、実際にクアンウール湖にザンドゥーア水軍が艦影を見せたので、アルテムはすぐに動くことができなかった。アルテムはクアンウール湖に艦隊を出してザンドゥーア水軍を牽制、それを追い払うことには成功したが、その時にはすでにリューシスがクイーン州の大半を制圧していた。


「リューシス殿下の軍は今や破竹の勢い。しかも伝え聞く最近の殿下の采配は冴えに冴えている様子。少々兵数で上回っているぐらいでは不安なところがあります。どう戦いましょうか?」

「そうだな。まともにぶつかれば戦場では負けるだろうな」


 アルテムはあっさりと言い放った。


「え?」

「…………」


 アルテムは、顎髭を撫でながらまた何か考え込むと、


「ダヴィド、皆を集めてくれ。とりあえず作戦会議だ」


 と、軍幹部の招集を命じた。


 そして五月十一日。

 ラングイフォン城の北約十五コーリー(km)、まばらに森林が点在している平野で、リューシス軍とアルテム軍が対峙した。


 ラングイフォン州は全体で二万八千人の兵力があり、ラングイフォン城には約一万六千人の兵士が駐屯している。アルテムはそのうち、一万人を率いて出撃して来た。

 対してリューシス軍は八千人である。


「しかしリューシスどの。偵察に出るようなもの、と言ってなかったかな? 八千人対一万人、これは完全に会戦ではないか」


 本営を出ていく時、バティが騎上で笑った。


「隙があれば攻めるとも言っただろう。向こうは一万人、充分に勝てる数だ。もし勝てなくても負けることもない」


 リューシスが白銀の冑をかぶりながら言うと、


「ですが、敵の方が数が多い」


 バーレンが背後から言った。


「殿下が常々言う、敵より多くの兵を揃えて戦うと言う基本に反しています。それに、マハーリン将軍はラングイフォン城に六千人の兵を残している。その六千人と連携して後方奇襲でも仕掛けて来るのではないでしょうか」

「そうだな。アルテムは七龍将の中で最も策が多い男だ。もちろんその可能性はあるだろう。だから、エレーナに一隊を預けて南西の丘陵地帯に潜ませ、ラングイフォン城の動向に注視するように指示している」


 そう言ったリューシスの横顔を、バーレンは目を細めてじっと見て、


「……そのエレーナ様を今回の戦に連れて来たのも少し納得が行きませんな。エレーナ様はこれまでも何回か戦には出ておりますが、それはいずれも我らの勝算が高い、どちらかと言えば安全と言ってよい戦いでした。殿下がエレーナ様を危険な目に遭わせたくないと言う意向からです。しかし今回は違います。熟練の七龍将が相手で、兵数も我らより多く、しかも敵地です。何かあればエレーナ様の命も危うくなります。……殿下、何故今回はこのように無理をなさるのですか?」

「うん……まあそうだよな……」


 リューシスは気まずそうに肩をすぼめたが、問いに対しては答えなかった。


「まあ、無理はしないよ。約束する。何かあればすぐに兵を退く」



 両軍の布陣は、共に標準的な横陣であった。

 中央に横隊の歩兵を並べ、左右両翼には騎兵を配し、中央後方には総指揮官の本隊と予備兵を待機させている。

 両軍共に歩兵と騎兵での編成であり、飛龍隊はいない。ラングイフォン州は、連絡用の飛龍が数頭いる程度で、元々飛龍隊が無かった。クアンウール湖の水軍に金をかけている為、その分飛龍が少ないのである。リューシス軍の方は、ここ一ヶ月ほど戦続きで飛龍が疲れている為、飛龍を休ませていた。


 午前十時頃、どちらからともなく両軍は弓矢の射程圏内まで接近し、矢の撃ち合いが始まった。

 リューシスは自分で言った通りに、最初は慎重に攻めた。左右両翼の騎兵、後方の予備兵には待機させて、ただ射撃だけを続けた。


 アルテム軍最前線の一角で十数人が一斉に倒れ、隊列が乱れた。

 普段ならば、ここで歩兵を前進させて攻勢に出るか、騎兵を動かしたりするところであるが、リューシスはじっと動かず、更に射撃を続けさせた。

 それを見たアルテムは訝しみ、


「リューシス殿下らしくない。何か秘策を考えているのか?」


 と、これによってアルテムもまた慎重になって容易に動かなかった。


 こうしてしばらく両軍の前線同士による矢の応酬が続いたが、勢いは徐々にリューシス軍に傾く。

 アルテム軍の前線はじりじりと削られて行き、やがて最前線の兵士らが倒れ始め、隊列が乱れた。

 そこでようやく、リューシスは中央の歩兵部隊を前進させ、騎兵も動かした。


「来たか、こちらもかかれっ」


 アルテムもまた、歩兵部隊を前線へと押し出し、騎兵を走らせた。


 こうして、全方面での近接戦が始まった。だが、これもまた、時が経つにつれてじわじわとリューシス軍の方が優勢となって行く。

 アルテムの顔が段々険しくなる。


「流石に強い。勢いだけではなく、よく訓練もされているようだ。ああ、そう言えば……向こうには兵術家フーチェンどのの息女、シュエリー嬢がいるんだったな」


 アルテムは小さく吐息をつくと、顎髭を撫でながら思案した後、


「よし、動くか」


 アルテムは長剣で合図を描いた後、伝令兵を走らせた。

 少しして、バティ一角馬部隊と交戦していた右翼の騎兵隊が、負けた振りをして後方へ走った。


「崩したぞ、追えっ!」


 バティは自ら先頭を駆けて追撃にかかった。


 それに気づいたリューシスは、


「流石はバティと一角馬だ。蹴散らしたか」


 と、満足げであったが、すぐに敵の退き方に妙なものを感じ取って顔色を変えた。


「しまった、追うな! それは偽退だ!」


 リューシスは慌てて合図の銅鑼を鳴らさせようとしたが、


「駄目だ、間に合わない」


 バティの一角馬部隊が通常馬よりも速いことが仇になった。バティ隊はすでに二百コーリー以上も駆けていた。しかも速いが故に勢いもあり、今退くように命令を出しても簡単には止まれない。

 そして、すでにアルテムの術中であった。

 アルテムは予備騎兵八百を出して、回り込むように走らせると、バティ隊の左側面に突撃させた。鮮血と砂塵が舞い上がる。一角馬騎兵らが悲鳴を上げながら横転した。同時に、後方へ走っていた騎兵も引き返して来てバティ隊に襲い掛かった。

 バティ隊は側面への奇襲突撃を受けた上で包囲された形となり、たちまち苦戦に陥った。


「しまった、罠だったか」


 バティは悔しがりながらも。何とか態勢を挽回するべく自ら両刃の槍を振り回して奮戦した。


「バティ隊が潰走するのはまずい、援護に向かおう。今ならちょうどこっちも敵の側背をついて逆に包囲することも可能だ」


 リューシスは、残しておいた騎兵一千騎を自ら率いて駆け出した。

 だが、左方に出て遠くにバティらの乱戦の様子が見えて来た時、リューシスは移動を止めた。

 騎兵同士の乱戦の向こうに深い雑木林が広がっているのだが、そこから野鳥の一群が一斉に飛び立ったのを見たのだ。


 鳥立つは伏なり――兵術の基本にこんな言葉がある。

 

 ――まさか、あの林にまだ兵を隠しているのか?


 リューシスは眼光鋭く彼方を凝視した。


 ――アルテムは、当然こちらにも予備部隊があると想定しているだろう。であれば、俺がバティの救援に予備部隊を差し向ける可能性も計算に入れているはずだ。ならば、俺がバティの救援に向かったその先にはもう一段の罠があるかも知れない……いや!


 リューシスは目を見開いた。


 ――むしろそっちが真の狙いか! 偽退でバティ隊を誘い込んでからの包囲、これ自体がこちらの予備部隊や俺を引き摺り出す為の餌かも知れない。例えば、慌ててバティ隊の救援に来た俺を、もう一つ隠しておいた予備部隊で待ち伏せて一網打尽にする……。


 リューシスは背筋に寒気を感じた。


「充分にありえる。だがどうする……」

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