第106話 桜と闇

 こうしてガルシャワ軍はシーザー抜きでローヤンへ再侵攻し、迎撃に出て来たローヤン軍と、ワイシャン城西方の野において決戦に及んだ。だがその結果は、リューシスが受けた報告の通り、わずか半日でローヤン軍の圧勝に終わったのだった。


 ローヤン軍総指揮官のビーウェンは、敗走するパスカル率いるガルシャワ軍を追撃してもう一叩きすると、深追いはせずに早々に引き返し、そのまま風の速さでアンラードに帰還した。

 熟練の将らしい、見事な手際の良さであった。


 だがこの事によって、


「ローヤンとガルシャワの戦いの後、手薄になったアンラードを一気に急襲すると言う戦略は白紙になったな」


 リューシスは嘆息した。

 シュエリーが眉をしかめた。


「そもそも、この戦略は他力本願です。褒められたものではありません。一勢力を率いる者ならば、天運や他者の動きによる影響を排し、自らの力だけによる戦略を取るべきです」

「何を偉そうに。じゃあ最初から言えよ。お前だって『流石殿下、良策ですわ』とか言ってただろ」


 リューシスは額に青筋を立てた。


「人は成長するのです」

「……とにかく、話し合うぞ。至急皆を集めてくれ」


 リューシスは会議を開き、皆で今後の戦略を話し合った。

 結果、当面は周辺を侵攻して勢力を拡大して行きながらアンラード攻略を目指すと言う正攻法を取ることと決まった。


 そして、北国のローヤンではまだ春には程遠い四月三日――

 リューシス軍は行動を開始した。


 ルード・シェン山からアンラードへ向かう最短の道は、西方である。

 西にはウェスティン山地と言う山岳地帯があり、そこを越えて行くと、ダイフォンと言う湖沼地帯がある。そのダイフォン湖沼帯を渡った後、いくつかある県城を抜けると、スレイザン平野と言う広い平野があり、その先はもうアンラードである。


 距離的には、この道が一番早い。だが、まず最初のウェスティン山地は複雑な地形であり、未だ寒く残雪深いこの季節にそんな山岳地帯を越えて行くのは厳しいものがある。また、その途上にはウェスティン城と言う大きく堅牢な城があり、現在はリューシスらに備えて二万五千人を超える大兵力が詰めていて、ここを落とすのは容易ではない。


 その為、西方は避けて、ルード・シェン山のすぐ南のクイーン州へ向かうこととした。


 南方のクイーン州は、山が無く平地が大部分を占めている。しかもローヤン領の内地であって周辺に敵がいないことから、兵力が薄い上に小規模な県城が点在しているだけで、侵攻しやすい地域であった。


 また、クイーン州は小さいが土地が肥沃な穀倉地帯であり、ここを手に入れられれば国力の大きな増強が見込まれる。


 現在、ハルバン州をも支配下に収めているリューシス軍の最大動員可能兵力は約一万七千人にまで増えていた。

 そのうち、リューシスは約一万人の兵を自ら率いてクイーン州へと向かった。


 しかし、クイーン州の方も何もせずにいたわけではない。

 リューシス挙兵後には、アンラードの朝廷からリューシスの襲来に備えておくよう指示が来ていた。

 それを受けて、現在太守としてクイーン州全体を統治している重臣イーフー・ユエンは、ルード・シェン山への最前線となる城に、州全体から一万人の兵を集めて自らそこに入り、リューシス軍の襲来に備えていた。


 だが、それでも今のリューシス軍の敵ではなかった。

 イーフー・ユエンは一応一通りの兵術は修めているものの、元々は文官の出身であり、軍事は得意とするところではなかった。


 その為に、イーフーは当初籠城の構えで守りを固くしていたが、リューシスはそれを巧みに挑発し、隙を見せた上で誘い出して野戦に引き摺り出すとこれを一気に撃破し、そのまま城をも陥落させた。

 イーフーは残兵らと共に敗走し、州都のノッセン城に逃げ込んだ。


 これを皮切りにして、リューシス軍はクイーン州侵攻を開始した。

 マンジュ攻略、ハルバン州制圧と続いて士気の高いリューシス軍の勢いは凄まじく、堰を切った暴流の如く各地を次々に制圧して行った。

 そして四月末には、太守イーフーが籠る州都のノッセン城に迫って包囲した。だがその時には、ノッセン城にはすでに二千に満たない兵数しかなく、


「これ以上戦っても無駄だろう。兵士たちを無駄に死なせてしまうだけでなく、住民たちにも被害が出てしまうかも知れん。民を巻き込むのだけは避けたい」


 と、イーフーは降伏開城を決断した。


 イーフーは城を出てリューシスの下に出向くと、自らの首と引き換えに将兵と住民らの命を助けて欲しいと申し出た。

 だが、イーフーの神妙な顔を見たリューシスは笑った。


「首なんかいるかよ。無駄に将兵や住民らの血を流さずに済むなら最高だ。こっちが金を出したいぐらいだ」

「ああ、そうでしたか。皆が傷つかずに済むなら本当にありがたいです」


 イーフーは安堵して頬を緩ませた。


「俺が虐殺でもすると思ったのか? お前、何か俺に対して勘違いしてるな」


 リューシスは鋭くイーフーの目を見た。


「え? いや、はあ……」


 イーフーは気まずい表情となった。

 その通りであった。無理もない。イーフーは政治に精通した重臣であるが、その経歴は地方ばかりでアンラードの朝廷にいたことがほとんどなく、リューシスとは十代前半の頃に二、三回しか会ったことがない。

 その為にリューシスに対する印象があまり良くない。リューシスが優れた将才の持ち主であると言うことは度々聞いているが、それと同じぐらいに十代の放蕩皇子の頃の悪評も聞いており、未だにその印象が強かったのである。


「まあとにかく、城を開いてくれるなら寧ろ礼を言いたい。ありがとう。路銀と食料、それに護衛も付けるから、気兼ねなくアンラードまで帰ってくれ」

「なんと。よろしいのですか?」

「ああ。だけど、一つだけ条件がある」


 リューシスは真顔になると、


「イーフーの政策や経営についての精通ぶりはアンラードでも並ぶ者がないほどだと聞いた。このノッセン城も元々放置されていた古城だったのをイーフーがここまで発展させたらしいじゃないか。ノッセン城及びクイーン州全体を統治する際に当たって心がけるべきことを教えて欲しい。それと、二、三日、俺に政治について色々と講義してくれないか?」

「講義?」

「そうだ。恥ずかしい話だが、俺は子供の頃は兵術にばかり熱心で、武芸や政治に関しては真面目に勉強して来なかった。だから、機会があれば誰かについて学び直したいと思ってたんだよ」

「そうですか。もちろんそれは構いませんが」


 イーフーが引き受けると、リューシスは頬を緩ませた。


 それから三日間、イーフーはリューシスにノッセン城とクイーン州の政情を説明すると同時に、政治経済の講義をした。

 その中で、イーフーのリューシスに対する見方は百八十度変わった。


 ――確かに欠点も多い。だが、それが却って、自分が助けてあげなければ、と言う気にさせる不思議なところがある。それ故に多くの人間が集まって来るのだろう。


 ――そして、口には出されないが、部下や民の幸福のことを真剣に想っておられる。恐らくアンラードの朝廷の誰よりも……。


 そしてイーフーは考えを改め、リューシスに申し出た。


「このままアンラードに帰っても、どうせクイーン州を失った罪によって追放されてしまうことでしょう。ならば、殿下の下で民の為に働きたいと思います」



 こうして、リューシス軍はクイーン州のほぼ全域を支配下に収めることに成功した。クイーン州は小さいとは言え、わずか一か月足らずと言う驚異的な速さであった。


 五月一日。リューシスはバーレン、バティ、エレーナ、それと臣従したばかりのイーフー・ユエンを連れて城内の巡察に出た。


「人心は落ち着いているみたいだな」


 市街区の中心となる大通りを騎乗で見て回りながら、リューシスは満足そうに言った。

 住民たちには目立った混乱はなく、新たな統治者として入って来たリューシスらにも特に抵抗感は無いようであった。


 市場では肉や野菜を取り引きする商人たちの声が響き合い、繁華街では若者らが連れ立って歩き、茶店や酒楼は彼らを呼び込もうと声をかける。

 広場では買い物籠を持った婦人たちが談笑し、その周りで子供たちが毬を蹴って遊んでいる。

 住民たちは、いつもと変わらぬ日常を過ごしていた。


「イーフー殿が城を開いてくれたおかげですね」


 バーレンが涼し気な目元を細めた。


「いえ、そんな。リューシス殿下の人徳の賜物です」


 イーフーは慌てて手を振って謙遜したが、エレーナがぼそっと呟くように言った。


「リューシスに人徳なんてあったのかしら」

「ありますとも。現に、ルード・シェン山には今でも人がやって来ており、殿下自身の周りにも皆さまのような優れた方が集まって来ております」


 イーフーが真面目な顔で言うと、バーレンはふふっと静かに笑った。


「私たちは殿下の抜けているところを見ていられないだけです」


 これにはエレーナとバティ、イーフーまでもが噴き出した。

 

「おいおい、バーレン。ネイマンみたいなこと言うなよ」


 リューシスが口を尖らせて言うと、

 

「この一ヶ月ネイマンがおりませんから」

「はは……しかしまあ、戦いの後だと言うのにこの街の安定ぶりは、イーフーの統治が良かったからだと思う。俺じゃなく、イーフーの人徳だ」

「そんな。滅相もございません」


 イーフーが謙遜して小さくなると、バティがイーフーを見て言った。


「イーフーどの。一つ頼みたいことがあるのだが、私にもリューシスどのと同じように講義をしてくれまいか?」

「微力ですが、私などで良ければいつでも」


 イーフーは破顔して頷いた。


「おお、ありがたい」


 バティは精悍な顔ににっこりと笑みを浮かべた。

 バティは、リューシスの下にいる間は何でも学ぼうとしており、最近では軍事だけでなく歴史や法制に関する書物も熱心に読んでいた。


 マンジュ族の王子である彼がリューシスら一党に加わってからおよそ二ヶ月が経つ。当初は文化や習慣の違いなどで皆との交流には苦労していたが、今ではすっかり馴染んで打ち解けている。それと共に、リューシスらもバティの性格を理解して来た。


 彼はマンジュ族の王子であるが、少しも偉ぶった尊大なところがない。

 以前は騙し討ちのようにしてハルバン城を奪ったことがあったが、それは武人に徹したが故の行動であり、普段の彼は嘘をついたり人を騙すようなことはなく、言動に裏表が無い。会話は好むが自らは言葉少なく、人の話をよく聞いた。だが武技や軍事のことになるとよく喋り、普段も暇さえあれば熱心に武技の修練に励んでいた。


「わあ、綺麗」


 突然エレーナが歓声を上げた。

 彼女の視線の先には人口の小川があり、その護岸に沿って桜の木々が並んでいた。開花してまだ間もないのか三分咲きと言ったところだが、桜は艶やかな花をそよ風に揺らしており、その下の水面も淡紅色に光らせていた。


「桜か。綺麗だなあ」


 リューシスも顔を綻ばせると、バティが驚きつつも感嘆して言った。


「なるほど、これが桜なのか」

「うん? バティどのは桜を見るのは初めてか」

「うむ。北方高原には無い。だが大層美しい花だとは聞いていたので、ローヤンに来たら一度ゆっくり見てみたいと思っていた。噂通りの美しさだ、いやあ、これは見事」


 バティは無邪気に喜んだ。


「へえ……。ああ、そう言えば、ワンティンが今年は花見会をやりたいって言ってたっけ……。この様子だとルード・シェン山の開花は来週末と言うところだよな。戻る頃には見頃かな……」


 リューシスは楽しそうに言いかけたが、何気なくエレーナを見た瞬間、言葉を止めた。

 エレーナは蒼い瞳をきらきらとさせながら、桜に見惚れている。

 金色の髪がふわりと風に揺れ、頬にかかった。

 そんなエレーナの横顔を、リューシスは見つめた。


「…………」


 リューシスは物憂げに目を伏せると、やがて皆に向かって言った。


「皆、悪いんだが、ルード・シェン山へ帰るのは少し延ばして、もう少しつきあってくれるか?」

「どういうことでしょうか」


 バーレンが訊いた。


「このクイーン州の更に南、ラングイフォン州を攻めたいと思う。すぐにだ」


 これを聞いて、エレーナが目を見開いてリューシスを見た。

 同時に、イーフーも顔色を変えて進言した。


「リューシス殿下。今の殿下には勢いがございます。されど、このままラングイフォンに攻め込むのは流石に無茶です。ラングイフォンは全体で二万八千人の兵士がおります」

「わかっている。ちょっと攻めてみるだけだ。攻略できそうな糸口があればそこをつき、無理そうであれば引き返すよ」


 リューシスが言いにくそうに言うと、バーレンが眉を曇らせた。


「ちょっと攻めてみる、とは殿下らしくない。確かな勝算どころか、充分な情報収集もせぬままに攻めようとするとは」

「そうだ。リューシス殿はいつも言っているではないか。戦は情報収集が最も肝要だと」


 バティも同調して言った。


「うん。だからまあ、偵察に出るようなものだ。それでもし隙があれば一気に攻めるってだけだ。もちろん無理はしない」


 リューシスは肩をすぼめた。


 だが彼は、総勢八千人の大軍を率いてノッセン城から出撃した。


 その隊列が出て行く様を、全身を黒い法衣に包んだ異形の男が、ノッセン城政庁の屋根に立ってじっと見つめていた。

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