第105話 エメラルドの炎

「そうか……」


 戦闘の終わったハルバン城政庁前の広場――

 晩冬の乾いた寒気の中に小雪が舞い始めていた。


 布をかけられたサイフォンの遺体の前に片膝をついたリューシスは、シュエリーの報告を聞くと無念そうに眼を閉じた。

 そして両手を合わせ、サイフォンの冥福を祈った。

 その後、リューシスは憂いの眼を開いて立ち上がると、沈痛な顔をしているシュエリーに向かって、


「シュエリー、辛い想いをさせたな。悪かった」


 と、その心情を気遣った。


「いえ。戦争ですから」


 シュエリーは、やや憔悴したような表情であった。

 だが、彼女はすぐに将校の顔となって、


「殿下。これで、マンジュを屈服させただけでなく、ハルバン城一帯のハルバン州を含むローヤンの東北部は我々の治めるところとなり、後顧の憂いはなくなりました。次はどうなさいますか? 一気にアンラードへ攻め寄せますか?」

「ああ、それだ」


 リューシスもまた、がらりと顔つきを変えた。


「まあ、これは俺のせいではあるが、今のローヤンは分裂状態だ。のんびりしていると他国につけこまれる。それ故にできるだけ迅速にアンラードに攻め寄せたいと思っている。幸い……と言っていいかわからないが、今のアンラードは、西から侵攻して来ているガルシャワ軍に対して多くの援軍を派遣しているせいで、かなり手薄になっている。今がアンラードを急襲する絶好の機だ」

「その通りです。しかし……」


 シュエリーは、雪のように白い顔を陰らせた。

 リューシスは、すぐにシュエリーの懸念を察した。


「そう。ハルバンは今日落としたばかりで民心は落ち着いていない。この状態ではとてもすぐには出撃できない。だが……」


 リューシスは笑みを見せた。


「ガルシャワはシーザーが出て来ているはずだ。対して、ローヤン軍はルスラン、ビーウェン、ダルコ、キラ・フォメンコらの七龍将チーロンジャンのうちの何人かを派遣するだろう。そして両軍ともに大軍だ。となれば、戦いは長引くことが考えられる上、ローヤン軍とガルシャワ軍のどちらが勝ってもその損害は大きいはずだ。だから、決着の着く頃に俺たちはアンラードに行き、残った傷ついた方を叩けば良い」


 リューシスは、余裕さえ見える顔で言った。


 だが、事態はリューシスがそう楽観したようには動かなかった。

 五日後、まだハルバン城にいたリューシスの下に、驚きの急報がもたらされた。


「本当か?」


 思わず訊き返したリューシスに、密偵の天法士ティエンファードはもう一度繰り返した。


「はい、確かでございます。戦はワイシャン城の西の平地で行われましたが、わずか半日でローヤン軍が圧勝しました」

「圧勝……しかも半日? 信じられないな……」


 リューシスは呆然としたが、すぐに怪訝そうに訊いた。


「詳細はわかるか? ガルシャワにシーザーがいたら、そう簡単には決着はつかないと思うんだが」

「それが、実はガルシャワ軍には、そのシーザー・ラヴァンは参陣していなかったようでございます」

「何? シーザーは来なかったのか」

「はい。ガルシャワ軍の総大将は、ガルシャワの皇族でもあるパスカル・シュライダーで、その下にコード・ドーレス、ゲファン・チェン、などの実績がある武将が参陣しておりましたが、シーザー・ラヴァンはおりませんでした」


「それはまた不思議だな。シーザーが来ないとはな……。では、ローヤン軍は?」

「ローヤン軍は七龍将チーロンジャンのビーウェン・ワン将軍を総大将に、同じくルスラン・ナビウリン将軍、そして十四紅将軍シースーホンサージュンのジェルン・チョウ将軍、ランディ・カストール将軍らが参陣し、更にクージン城より七龍将チーロンジャンのキラ・フォメンコ将軍が加勢に駆け付けたようです」

「そうか。ガルシャワ総大将のパスカル・シュライダーは武勇には優れているが、血気に逸りやすく猪突猛進なところがあると聞く。皇族故に一軍団を任されることもあるようだが、はっきり言って総大将になる器じゃない。ビーウェンや鉄血キラの敵じゃないだろうな」


 リューシスが言うと、天法士ティエンファードは頷いて、


「はい。まさにその通りで、ビーウェン・ワン将軍は敵の総大将がパスカル・シュライダーだと知ると、戦場に着く前日からパスカルを小馬鹿にする発言を繰り返し、開戦当日は徹底的にパスカルを挑発して誘き出すことに成功しました。そしてガルシャワ軍を分断して各個撃破した上、あらかじめ迂回させておいた一軍に背後から奇襲を仕掛けさせ、散々に打ち破ったそうでございます」


「なるほどな。しかし、初日にわずか半日で終わらせるとは尋常じゃない速さだ。ビーウェンは、その武芸と同じようにどっしり構えて戦う方なんだがな」

「ええ。ワン将軍は、"今は東北にリューシス殿下が、南にはアーシン・トゥオーバーの反乱があり、ローヤンにとって史上最大の危機である。アンラードを長く手薄にしておくわけにはいかん。敵に隙があればそこを徹底的に突いて決着を急ぐべきである"と言われたそうです」


 天法士ティエンファードが言うと、リューシスはため息をついた。


「よくわかってるな。そして実際にそれができるんだから、流石はビーウェンだ」


 彼は、自分の武芸の師匠でもあるビーウェンの、岩石のような厳格な風貌を思い浮かべながら感心した。


「ビーウェンがいる限りアンラード攻略は難しいかもな……。それにしても、ガルシャワ軍にシーザーが出てこないとはな。何かあったかな」


 リューシスは小首を傾げた。


 だが、その疑問の答えは、リューシス本人であった。


 およそ一ヶ月ほど前のことである。


 ガルシャワ帝国の首都、ハイゼルン。

 政庁内の会議室で、ガルシャワ皇帝カーリ・シュライダーが、一つの処分を下した。


「以上のことから、シーザー・ラヴァンの北方モンザ城への赴任を命じる」


 事実上の左遷であった。

 列席していた群臣たちがざわついた中、皇族将軍のパスカル・シュライダーだけが密かに笑みを漏らした。


 こうなるよう画策したのは、パスカルであった。


 パスカルとシーザーは、普段から折り合いが悪く、犬猿の仲であった。

 パスカルは、年齢が近く階級も同じシーザーをライバル視しており、シーザーの方も、過去のある出来事が原因でパスカルを好んでいなかった。特にパスカルの方が、シーザーの実力と名声を妬んでいるところもあり、彼は密かにシーザーを陥れる機会を伺っていた。


 そこへ、絶好の機が訪れた。


 すでに昨年のことだが、シーザーが、折角入手した覇王の玉璽バーワン・ユーシを失ってしまった上、ローヤンから奪取したクージン城もすぐに奪い返されてしまうと言う大失態を犯したのである。


 このことは、シーザーがクージンから帰還した直後に大問題となり、シーザーは非難の対象となった。シーザー自身も責任を痛感し、軍法会議の場で、自らの命を絶って責任を取る、とまで言った。

 だがその時は、一部の重臣たちがシーザーのこれまで立てて来た数々の功績を挙げて擁護した上、シーザーの才を愛していたガルシャワ皇帝も庇い、処分は先送りとなった。


 だが、パスカルはこのことでかえってますますシーザーを嫌った。パスカルは、他の重臣や将校らと会っている時などに、さりげなくこのことを話題にして彼らに忘れさせないようにし、皇帝カーリと私的に会っている時もこのことを話したりしていた。

 そして、ガルシャワ朝廷内でローヤン再侵攻が検討されるようになって来た頃、この日の戦略会議でパスカルは発言した。


「シーザー・ラヴァン将軍は、ローヤンのリューシスパールには一度も勝てていないどころか、三連敗を喫している。現在、閃光リューシスパールはローヤン国内で反乱を起こしているとは言え、今のローヤン皇帝の異母兄だ。いつ和解して前線に出てこないとも限らない。そこへ、リューシスパールに一度も勝ったことのないシーザーどのを起用していいものか」


 こう、パスカルは雄弁を振るい始めた上、


「昨年、シーザー殿が覇王の玉璽バーワン・ユーシとクージン城を失った件の処分は先送りにされたままだ。一般将兵らの間には、未だにこの事に対する疑問の声が残っていると聞く。ローヤン侵攻の前に、まずこれらのけじめをつけて全軍の規律を引き締める必要があるのではないか?」


 と、例の件を蒸し返した。


 すると、一部の群臣らが強く賛同し、彼らは一斉にシーザーを非難した。もちろんこの陰には、先述のようにパスカルが暗躍していたことがある。

 だがともかく、問題視されたのが二回目ともなれば、前回シーザーを擁護したガルシャワ皇帝や重臣たちも流石にこれらの声を抑えることはできなかった。その結果、シーザーはローヤン侵攻軍から外されただけでなく、北方高原からの脅威に備える北の拠点モンザ城への赴任が決定されたのだった。


 この会議中、当のシーザーは何も反論せずに、ただ黙って聞いていた。

 そしてこの処分が決定した際も、


「臣、シーザー・ラヴァン、承知仕りました」


 と、表情も変えず、ただ一言で拝命しただけであった。


 会議終了後、シーザーはハイゼルン城政庁内の一角にある物見塔に一人で上った。

 この塔の窓からは、首都ハイゼルンの街並みが一望できる。


 ローヤンの首都アンラードは、「紅の都」と称されるように赤い屋根や建物が多い華やかな街並みだが、このハイゼルンはそれに比べると地味と言えるかも知れない。


 建物の壁や屋根の色は、材質の色そのままの黄土色、もしくは単純に白で塗っただけのものが多く、装飾も特に拘っているようなところはない。

 だがハイゼルンは、昔ガルシャワ民族がこの地を征服した時に計画的に建設した都市である為、街路区画は綺麗な碁盤の目状に整えられている上、そこに樹木や清流が配されて、自然と調和した景観は実に美しかった。


 そんなハイゼルンの街並みを、シーザー・ラヴァンはこの物見塔の窓から眺めていた。


 すると、この金髪の美青年将校の背後に、竪琴の音の如き澄んだ声がかかった。


「見納めのつもりですか?」


 シーザーは、微笑を湛えながら振り返った。

 そこには、青いガルシャワドレスを着た若い美貌の女性がいた。


参見ツァンジェン娘娘ニャンニャン(皇后、の意)」


 シーザーはひざまずくと、ハンウェイ語で恭しく挨拶をした。

 それを聞くと、女性は溜息をついて「免礼平身ミェンリーピンシェン」と、お決まりの返事をした後、


「二人の時ぐらいは昔のように呼び合いましょうと言ったでしょう」

 

 と、ガルシャワ語で言った。


「ふふ。では、ローザ様」


 シーザーもまた、ガルシャワ語で答えながら立ち上がった。


「あなたはまた……」


 ローザが眉をしかめると、シーザーは微笑のまま、


「仕方ありません。今の貴方様は昔とは違うのです。皇后なのです。いくら同郷で旧知の仲とは言え、呼び捨てにしては不敬です」

「…………。まあ、いいわ。それよりも聞きましたよ。北のモンザ城へ赴任することになったそうですね」

「ええ」

「先日、パスカルどのが何やら裏で動いているらしい、と言う噂を聞きました。恐らくそのせいですね」

「でしょうね」

「あなたであれば、パスカルどのの陰謀ぐらいは防げたでしょうに」

「はい。私もパスカルどのの動きには気付きましたし、腹が立ちましたので一度はその動きを封じようともしました。ですが……覇王の玉璽バーワン・ユーシを失い、折角奪い取ったクージン城までも奪還されてしまうと言う二つの失態を犯したのは事実です。それにリューシスパールに勝てていないことも……」


 シーザーは一瞬、緑玉エメラルドのような瞳を強く光らせた。


「昨年は皇帝陛下の意向で不問とされましたが、私としては、いずれ何かの機会に相応の処分を受けねばならないと思っておりました。でなければ他の将兵たちに示しがつきませんから。それ故、黙って受け入れたのです」

「そうですか……」


 ローザは頷くと、シーザーのいる位置とは反対側の窓辺へと歩き、そこからハイゼルンの街並みを眺めた後、ぽつりと言った。


「寂しくなるわ」

「…………」


 シーザーは細い眉をぴくりと動かし、ローザの背を見た。その後ろ姿は、かつて気軽に名前で呼び合っていた頃よりも細く見えた。


「ご心配なく。すぐに戻って来ますよ」


 シーザーは再び微笑しながら言った。


「え?」


 ローザは振り返ってシーザーを見た。


「私の予想で、は二、三か月、遅くとも半年以内には。呼び戻される形で戻って来るでしょう」


 シーザーが言うと、ローザは少し考えてから言った。


「どういうこと? ローヤン侵攻が失敗に終わり、あなたが呼び戻されるということかしら?」

「さあ、そこまではわかりませんが」


 シーザーは皮肉そうな表情を見せた。


「…………」

「とにかく、これは私にとっても学び直す良い機会だと思っております。ローヤンのあの男に勝つ為にも、北の地で己を見つ直し、兵書を一から読み直します。そして……」


 シーザーは窓辺から離れて下への階段へ向かうと、その手前で足を止めた。


「パスカルどのは皇族ですから、これまでは何もせずにいましたが、流石にそろそろ目障りになって来ました。ハイゼルンに戻って来たら、パスカルにはあの時の罪業も含めてこれまでの報いを受けさせてやります」

「あの時の罪業?」

「ええ。かつて、愛する貴方を私から奪い、皇帝陛下の下へ連れ去った罪です」


 シーザーは言うと、階段を下りて行った。

シーザーの口調は静かであった。だが、シーザーがいなくなったその跡に、ローザは炎の匂いを感じた。

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